地域猫に餌をやる
寅田大愛
第1話
日が暮れつつある。母に言われた通り、銀色のバーベキューかなにかで使われる安い使い捨ての取り皿に猫用の餌をざらざら入れて、上から仕上げにちゅーるをかけてあげる。それを二皿用意する。それらを鞄に入れて、あたしはマスクをして、灰色のコートを羽織る。お風呂上がりのさっぱりした気分のまま、淡々と玄関を出て、鍵を閉める。
夕方の暗みと深みを帯びた夜の気配のする、しっとりとした涼やかな風が急に吹いて、あたしの長い黒髪をなびかせた。シャンプーの甘い香りがふわっと漂って鼻腔をくすぐってすぐにいなくなる。爽快だ。
あたしは何度も風に歓迎を受けながら、靴音を高らかに鳴らし廊下を通り過ぎる。錆の浮いた赤いぼろぼろのエレベーターに乗って、一階に降りる。
寒いマンションの外に出て、極秘なので場所は教えられないが、地域猫の集まる餌場にそっと銀色の皿を置いて立ち去る。それを二か所。毎日餌をやるようにあたしは言われている。これが30歳未婚女子の日課である。母は仕事に行っているからやれないのだ。
〈野良猫ちゃんたちが可哀想だから〉
母はそう言っていた。
ああ、あたしは母のなかでは猫以下なんだな。そのとき、そんな気がした。
夕焼け空が橙色から藍色に変わっていく。あたしの視界が涙でぼやけていく。
愛は無償ではない。愛は条件つきなんだ。愛は有料なんだ。愛はだれにでも無条件で与えられるものではないんだ。そう、あたしにとっては。
娘だからといって、母から無条件で愛されると思いあがってはいけないのだ。母はその言動やしつけと称する虐待や無視という名の暴力などの犯罪から、あたしにそれを教えてくれた。
地域猫はまだやってこない。いつもだったら、白黒ぶちの猫やキジ鯖猫などがくるのだが。振り返ると、いつの間にか夜になっていた。空にはうっすら三日月がかかっている。
あたし、なんで生きているんだろう? なにが楽しくて生きているんだろう?
死んじゃってもおかしくないことを何度も乗り越えてきて、あたしはここにいる。
地域猫がようやくぽてぽて走ってやってきて餌を食べはじめたのが見えた。可愛らしい小さな子猫だった。一生懸命咀嚼している。あたしはそれを見つめる。
あたしは悠々と歩いて、エレベーター前まで歩いていく。
地域猫はだれかに餌をもらって、食べて、生きていくんだろう。かれかが死ぬまで、それは続くんだろう。
あたしも、もう少し生きて行こう。
期待はしないけど、強くたくましく、生きていくのだ。
ぶるっと身震いすると、せっかく温まっていた身体が、すっかり冷え切ってしまったことに気づいた。普段なら軽く心が折れそうになるところだが、今のあたしは違う。最近はじめたヨガをやって、体を美しく鍛えて、軽く汗をかいたら、再びシャワーを浴びて、また温かい体になって、柔らかなベッドに入って眠るのだ。何度も風呂に入るななどとは母には言わせない。内緒にするのだから。なにを言われても、もう気にしない。あんなの、いてもいなくても変わらない。食事と部屋を提供し続け、養ってくれさえすればいい。それ以上は、もう望まない。あいつらの年金が尽きてカラカラに干からびるまで、ずっと、寄生してやる。
あたしは好きなように生きるよ。うまいように生き抜いてみせるよ。
マンションの廊下から下を見おろすと、もう子猫たちはいなくなっていた。
あたしは家の玄関の鍵を開けて、なかに入って、真っ暗なにか、手探りで電灯のスイッチをつけた。一瞬で、目の前が白い光に包まれる。だれもいないはずなのに、あたしは、おかえり、と言われたような気がして、一人で潤んできた目を瞬きして、気にしないふりをして、ただいま、とつぶやいた。
地域猫に餌をやる 寅田大愛 @lovelove48torata
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