2話

 ぎりぎりのところで遅刻のお小言を貰わずに済んだ蒼衣と水斗はそわそわと教室の扉を見つめていた。

 そんな二人を見て、出席確認を済ませた担任教師の佐々木は溜息をつく。

「どうやら川之江はもう知っているようだが。今日うちのクラスに転校生が来ることになった」

 わっと教室が湧く。得意顔でふんぞり返る水斗に、蒼衣は溜息をついた。

「先生、どんな子?!」

「男?女?」

 教室中から教卓に向かって声が飛ぶ。

 収まるどころか大きくなっていく騒ぎに、佐々木は虫を払うように出席簿を振った。

「あーあー分かった!呼んでくるからちょっと待て!」

 教室の熱気が更に上がる。中には拍手をする者まで現れる盛り上がり様で、佐々木は肩をすくめて教室のドアを開き、廊下を覗き込んだ。

 ほどなくして人影が現れる。ざわめいていた教室が水を打ったように静まり返った。

 いよいよかと身を乗り出した水斗に苦笑し、蒼衣も新しいクラスメイトに視線を向ける。

 刹那、周囲の音という音が消え失せた。

 すらりと長い手足は白魚のように白くしなやかで、制服のブレザーがどこか浮いて見える。前下がりに切り揃えられた肩口までの髪は烏の濡れ羽色というのか、光の当たり具合で時折濃い紫に輝いた。前髪は顔の右半分を覆うかのように垂らされている。晒された左目は切れ長で、黒々とした瞳が長い睫毛に覆われていた。

 教壇の中央に立ち、一度教室を見渡した彼女は、小振りな薄い桜色の唇を開く。

「――今日からこのクラスに転入してきました。深泉 慧(ふかいずみ さとる)です。よろしくお願いします」

 彼女の声が響いた瞬間、蒼衣の視界にノイズが掛かった。

 黒い足袋に赤い鼻緒の下駄を履いた小さな足を抱え、少女が蹲っている。ふらりと伸ばされた手を取るためしゃがみ込み、黒髪のおかっぱ頭を撫でると、彼女はふるりと震え、顔を上げて————

『あおい』

「っ?!」

 気づけば蒼衣は椅子を蹴飛ばし立ち上がって、教壇の少女を凝視していた。

 音に反応してこちらを見返してきた少女もまた、切れ長の瞳をぐぅと見開いて酷く驚いた表情をしている。

 ただならぬ二人の様子に、交互に彼等を見渡していた佐々木は出席簿の角で頭を掻き、蒼衣を指差した。

「あー……知り合いみたいだから、柑崎お前、案内係とか色々してあげなさい。深泉さん、席は柑崎の横ね」

「っえ、あ……ああ、はい」

 びくりと肩を跳ねさせ、慧は教壇を降りて机の合間を縫い歩く。蒼衣は棒立ちになったまま微塵も動くことができなかった。

「…………」

「……あの、よろしく」

 視界の端で黒髪が揺れ、はっと意識が戻る。ぎこちない笑みの慧に手を差し出されているのを見て、蒼衣は彼女が近づいてきていた事に心底驚いた。——全く気付かなかった。

 前の席に座った水斗に足を蹴られ、慌てて慧の手を握り返す。

 蒼衣の席は窓際の最後尾で、クラスの人数の関係でこの列は今まで蒼衣が独占していた。よく“ぼっち”と揶揄われていたが、今日でそれも終わりというわけだ。

 教師が近くまで運んできた机を受け取り、位置を調整して設置する。

「ありがとう、柑崎君」

「ごめんねぇ深泉さん。こいつ、深泉さんが綺麗すぎてロボットになっちゃったみたい」

 用意された席に着いた慧に、水斗がずいっと身を乗り出して笑いかける。

 慧は肩を揺らして笑った。

「あら、お上手ね。ありがとう」

 蒼衣はそれを横目に見て愕然とした。肩を竦め、右に小首を傾げる笑い方——。間違いない。“覚えている。”蒼衣はこの少女を、知っている。

 教室の喧騒が遠ざかっていく。蒼衣は茫然と慧の背後を見つめた。

 黒い袴に少しくすんだ水色——教科書で見た、浅葱色という和名が似合う色だ。その、浅葱色の着物を右前で合わせ、長い黒髪を頭の高い位置で一纏めにした女性が慧の背中を護るように佇んでいる。

 彼女の刃のように鋭く尖った瞳が、蒼衣をじっと見据えていた。

「————」

 登校中、三毛猫は“姫が居る”と言っていた。姫とは、この女性の霊のことだろうか。幼い頃から数え切れないほどの霊を見てきた蒼衣には分かった。彼女は、今まで見てきた奴らとは“別格”だ。

 目の奥がちり、と痛む。蒼衣は誰にも気づかれない程小さく息を吐いて、彼女から目を反らした。

 記憶を辿っても、深泉という姓も、慧という名前にも覚えはない。だが、これは他人の空似と思えるような感覚ではないと思えた。

 ——気持ち悪い。

 始業のチャイムが鳴る。蒼衣は周りの生徒に倣って教科書を取り出し、頭のモヤを振り払った。

「柑崎君、教科書見せてくれるかしら。まだ手元になくて」

「ああ、うん。どぞ」

 机を横に寄せ、慧にも見えるよう教科書を中央に置く。垂れる前髪を耳に掛ける横顔から無理やり視線を引き剥がし、蒼衣は授業に専念しようと前を向いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る