1話
歩く通学路も、並木も、何一つ変わりはない。もちろん自分が着ている制服だって、靴だって。
ついでに、視界の中の色んな場所にちらほらと見える"もの"だって――。
「おーはよっ蒼衣(あおい)!元気だったか?」
いきなり背中を強く叩かれ、上体が沈む。
蒼衣──柑崎蒼衣(かんざき あおい)はバランスを崩した身体でたたらを踏むと、そのまま肩に腕を回されて転びそうになった。
「お前ね……危ないだろ」
「大丈夫だいじょーぶ!川之江サマは親友に怪我させたりしないのだー!」
背中にへばりついた男はけたけたと笑いながら蒼衣の身体を揺らす。
「みーなーと!!マジで危ねぇから離せ!」
「男のくせに情けねぇなぁ」
蒼衣の背中に張り付いていた男――川之江水斗(かわのえ みなと)は喉を震わせて笑うと、勢いを付けて蒼衣から飛び退いた。
苛立った顔をした蒼衣から蹴りが飛んでくるが、それも避ける。
「はー。なんでお前そんな元気なの……」
「お前が枯れてるだけだろー?ほら、遅刻すっぞー」
水斗は飛ぶようにステップを踏みながら、蒼衣を追い越して歩く。
蒼衣はこれ以上はないと言うほど深い溜息をついて、その背を追った。
「そういえばさー、今日来るんだってよ」
「あ?何が」
「てんこーせー」
猫背気味に歩く水斗の横に並び、蒼衣は目を丸くする。
薄茶色に染められた水斗の前髪が風に揺られた。
「相変わらず情報が早いな」
揺られた髪の奥、少しだけ青みがかった瞳が得意げに細められる。
水斗の目は日本人に当たり前の黒に見えるが、こうして陽の光に照らされると、インディゴブルーのように見えることがある。
それを本人に言ったら「カラコンだよ」と言われてしまったが、蒼衣は水斗の本来の目の色なのではないかと密かに思っていた。
そしてこの男は。
「あったりまえでしょー。情報屋やらしてもらってますからネ」
いろんなことを知りたがる性格と、情報収集の技を生かして学校の内外で情報屋を営んでいる。
ただし、学内では金は受け取らず、水斗が得たい情報を提供してもらうことで相手に情報を売るというスタイルだそうだ。
金銭関係が発生しないおかげで教師黙認である。
「んで、その情報屋さんはどこまで掴んでるわけ?」
水斗は首を傾げてステップを踏んだ。
「女子でー、俺らのクラスに来るってことくらい」
「ふーん」
青く透き渡った空を見上げる。転校生か、と口の中で呟いた。
肌を撫でる風はまだ冷たい。今日は春の大型連休明けの登校初日だ。転校生が来ても別におかしくないタイミングである。
しかし、何か変だなあと蒼衣は首を傾げた。転校生に対してではない。視界にちらつく"モノ"が、どこかソワソワと蒼衣たちが目指している学校を見ているのだ。
普段はどうにかして蒼衣にちょっかいを掛けようとしてくるモノが多いのに、今彼らは一つとして蒼衣を見ていない。
水斗には見えていないのだし、転校生とは何ら関係がないかもしれないが――気になる。
蒼衣は周囲をぐるりと見渡し、一番害のなさそうな気配をした三毛猫に声を掛けた。
「なあ、ちょっといいか」
くるり、と三毛猫が振り返る。登校中の生徒の足が、その胴をすり抜けた。
猫は気にした様子もなく、大きな瞳を一つ瞬きさせる。
『おや、話しかけてくるとは珍しいね』
どうした、と猫は首を傾げ、生垣の煉瓦に飛び乗った。蒼衣もそこへ近寄る。
「お前は大丈夫だろ?」
『まあ、そう言われると何かしたくなるけれど』
この猫は死霊だ。
蒼衣には世間で幽霊、幽霊と騒がれるものが見える。おそらく生まれながらの体質で、物心つく頃には見えることが当たり前だった。
その姿、性格は千差万別。安全かも、と思ったものが大層危険な場合もある。都市伝説や怪談のように人間に悪意あるものも居るから注意しなくてはならない。
蒼衣は幼い頃から彼らが見えているからか、その判断が上手かった。今回の猫は何度か話したことがあったので安全だと分かってはいたが、猫というのは気まぐれな気性をしているので構えて掛かるくらいがちょうどいい。
やばいものに当たってしまっても、それはそれで"大丈夫"なのだけど。
「みんな学校の方見てるけど、なんか気になることでもあんの?」
そのことか、と猫は尻尾を揺らして校舎を仰ぎ見る。
『姫がね、いるんだよ』
「…………は?」
突拍子もない単語に蒼衣の目が点になる。
そんな蒼衣に構いもせず、猫は首を傾げた。
『しかし何でこっちに居るのかね。まだ時期じゃあないだろうに』
「いや、姫って何だよ。時期って何の?」
理解不能な単語が並び、頭上に疑問符を浮かべる蒼衣に猫は口を閉じてぱちりと瞬きした。
『――そうか、お前は知らないんだったか。姫というのはね』
「蒼衣なにやってんだよ、遅刻するぞ!」
ようやくまともな説明をしてくれようとした猫の声を遮ったのは、水斗の大声。話に集中していた蒼衣は肩をびくつかせ、声の方を振り仰いだ。
水斗は既に坂の上、校門の近くに居て腰に手を当ててこちらを見ている。
腕時計に目を落とすと、確かにホームルーム開始のチャイムまであと5分しかない。
慌てる蒼衣の様子を、猫は尻尾を揺らして見つめる。
『早くお行き。遅刻すると怒られるんだろう?』
「まあ、そうだけどさ……」
『そう気にすることはないよ。ほら、あそこの友達に怪しまれてもいいのかい』
蒼衣は悔しそうに唇を噛んでいたが、もう一度大声で呼ばれ、校門へ走っていった。
またな、と言い残された猫はゆらりゆらりと尻尾を振る。
その目がつい、と細まり、校舎へ向けられた。
『お前さんが気にしてもしなくても、もうじき事は起こるのだからね』
そう長くない時を楽しむといい。
猫はひとつ欠伸を零し、木の陰へ消えた。
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