バス行きて さきの余裕を 今憎む
空木 種
バス行きて さきの余裕を いま憎む
スーツ姿のわたしは、椅子に座って足を伸ばし、スマホをいじっていた。
仕事をはじめて三ヶ月が経った。はじめのうちはムダに早起きし、ムダにせっせと支度をして、ムダに荷物を確認したりと、ムダにそわそわしていたが、今ではそういうことはなくなった。最初はごわごわして落ち着かなかったスーツも、今ではしっかり体に馴染んでいる。
机上の時計を見ると、時刻は七時四十五分だった。バスの時間は、七時五十四分。マンション前のバス停までは二分もないから、焦る必要はない。わたしは構わず、友人のSNSを眺めていた。
それから少しして、再びスマホから顔を上げると、時刻は七時五十分になっていた。
そろそろ出るか。
わたしはスマホの電源を切ってポケットにしまい、よいしょ、と腰をあげた。傍に置いておいたビジネスバッグを肩にかけ、家の鍵をバッグのポケットから取り出す。
――あれ。
鍵が、ない。
「うそでしょ」
わたしはもう一度深くポケットに手を入れたが、手には何も当たらなかった。
時計を見ると、すでに五十一分になっていた。
「ちょっとまってよ」
独り言を言いながら、わたしはバッグの中を覗き込み、ガシャガシャと漁った。しかし、どこにも鍵の姿はない。今度は、スーツのポケットを叩いた。すると、
「あ」
何か硬いものが、ポケットの布越しに感じられた。すかさず手を入れてみると、やはり家の鍵が入っていた。昨日帰ってきたときに、ここにしまったのだろうか。
わたしは再び、時計を見た。時刻は、八時五十二分だ。
まだ間に合う。
わたしは、速足で玄関に向かい、ローファーをつっかけて、家を出た。せっせと鍵をかけて駆け足で階段を降りる。
しかし、階段を降りきったところで、わたしは足を緩めた。
あのバスは、いつも遅れてくる。いつも時間通りに行っては、三分くらい待たされるのだ。
それを考えると、このぐらいがちょうどいいのでは、と思い、わたしは普通の速度で歩きはじめたのだ。
マンションの駐車場を抜けて曲がれば、すぐにバス停が見える。
さっきかいた冷や汗を、わたしはハンカチで拭いながら歩いた。
空は高く、青空が広がっていた。植え込みの木の中で、鳥がさえずっている。赤いランドセルと黒いランドセルの小学生が、前を並んで歩いていた。赤いランドセルの方が、いくらか背が小さい。兄妹だろうか。ランドセルの二人は、バス停とは逆の方向に曲がり、植え込みの影に消えていった。
やがてわたしも駐車場を抜けて、バス停の方に折れ曲がる。すると、
「え」
バス停に並んでいる人々が、次々とバスに乗り込んでるではないか。
わたしはとっさに、駆け出した。ローファーがときどき脱げそうになって、躓きかける。それでもわたしは、走り続けた。
――お願い、待って。
最後の一人が、バスに乗り込み、『プー』と高い音を鳴らしながら、扉が閉まる。
――待って、待ってよ。
わたしの願いをよそに、バスはゆっくりと動き出し、車線に戻ろうとする。
――そんな。
わたしがバス停に辿り着くと同時に、バスは車線に戻り、他の車の流れに乗って、走りはじめた。
バス停の前で足を止めたわたしは、はあ、はあ、と呼吸が乱し、膝に手をついた。
バスは、わたしを置いて、遠くなってゆく。
――あんな余裕、なかった。
バス行きて さきの余裕を 今憎む 空木 種 @sorakitAne2020124
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