第74話

 紫苑が母の日記を受け取ると、月天はまだ執務が残っているらしく今晩は帰れそうにないからこのままこの部屋に泊まるようにと言い付けて部屋を出て行ってしまった。


月天から受け取った母の日記は全部で五枚あり、そこには先ほど月天が教えてくれた華鬼のことや鬼の屋敷の様子が書かれていた。


三枚目だけ一部が水で濡れてしまったらしく、所々文字が滲み読むことができなかったがそこには白桜の母の事とできるだけ紫苑と白桜を近づけさせないようにしなければと言ったことが綴られていた。


 夜もふけると黄金が寝る支度を整えに部屋までやってきた。黄金の手には珍しく護符のようなモノが数枚握られており、部屋の四隅と大窓にその護符を貼り付ける。


「黄金、その札は何のためのものなの?」


札には幾つもの目のような模様と文字が書かれており、紫苑が今まで見たこともない術のようだ。


「これは鬼除けの護符です。鬼は昔から失せ物を見つけるのが得意ですから、月天様が念の為とこの護符をお作りになりました。これだけ厳重に結界を張ればいくら鬼の御当主といえども紫苑様に手を出すことはできません!安心してお過ごしください」


今いる部屋はただでさえ出入りが難しいのに、さらに護符まで貼って結界を強めるなんてよほど鬼の当主である白桜という人物は危険なのだろう。


紫苑は黄金から明日の注意事項などを一通り聞くと、今晩は疲れたので少し早めに布団に入ることにした。


◇◇◇


 翌日、目を覚ますとすでに黄金が服や朝食の支度を済ませておいてくれたようで、寝室の隣の部屋のテーブルには書置きがされていた。


どうやら今日は朝から屋敷の者達総出で出迎えの準備をしているようで、黄金もこちらにはあまり顔を出せそうにないと書かれていた。


紫苑は書置きを読み終えると、身支度を整え朝食を取り今日一日何をして過ごそうかと部屋の中を歩いてみる。


いつもは大窓から見える仲之町の様子を見たりして暇を潰すが、流石に一日中見ているのもつまらない。


大窓の側までいくと、月天の執務机の上に綺麗な文字で紫苑へと書かれた紙といくつかの本が置かれていることに気づく。


手紙を読んでみると、月天からのものでどうやら昨日の晩に部屋によってこれを用意してくれたらしい。


手紙の下に重ねられた本を見てみると、初級呪術の本や妖狐の一族の歴史と書かれた古めかしい本などがいくつか積み重ねられている。


幽世に来てから紫苑自身、己の術の未熟さに歯痒さを感じていたので呪術の勉強ができるのは正直かなり嬉しい。


それに、妖狐の一族についてもここにいる限り知っておくに越した事はないだろう。


用意された本をあらためてみると、これは今日一日じゃとてもじゃないが読みきれなさそうだと苦笑いを浮かべた。


◇◇◇


 いつもは騒がしいほどに賑わっている仲之町だが、今晩だけはどこの見世の前もひそひそと声を殺すようにして妖怪達が通りの様子を伺っている。


異様な雰囲気の中凛とした鈴の音と共に現れたのは、この花街でも御当主様だけが乗ることを許されている花車だ。


先頭を歩くのは厳しい顔をした鬼たちで、花車を引くのは口に猿轡のような拘束具を付けられた牛鬼だ。


それを見た妖達は恐れ慄き、通りに立つもの達は慌てて頭を下げ花車が通り過ぎるのを待つ。


花車は夢幻楼の正面にかかる太鼓橋の前まで来るとゆっくりと止まり、出迎えのため立っていた妖狐達の方を牛鬼はヴルルっと低い音を鳴らし睨め付ける。


猿轡の間からこぼれ落ちた唾液のようなものは地に落ちると土を腐らせじゅうじゅうと音を立てて嫌な匂いを発する。


「これはこれはお忙しいところわざわざおいで頂き有難うございます。私、妖狐の一族で上役を務めさせていただいている黒子くろこと申します」


半面をつけた細身で長身の男は牛鬼など目に入らぬかのように飄々とした態度で花車の側まで歩みよる。


黒子が側まで寄ると、花車のすぐ側で控えていた蒼紫が恭しく中か降りてくる白桜の足元に草履を履かせる。


「おぉ、これはこれは!噂通りの美しさ!我が御当主も大変美しい妖ですが、白桜様はまた違う美しさ!幽玄の美とはまさにこのこと」


無遠慮に近寄ろうとする黒子を制止させるようにして白桜との間に蒼紫が無言で立つと、黒子は察したようで気味の悪い笑みを浮かべながら夢幻楼の中へと誘う。


黒子によって案内されたのは桜の間で部屋の中の花器には季節外れの桜が生けられており、部屋の中に桜の香りが漂う。


「では、我が当主が来るまでしばしお待ちください。……あ、くれぐれも失せ物探しなどはせぬ様にお願いしますね」


にやにやと笑みを浮かべたまま黒子はそう言うと、部屋に蒼紫と白桜だけを残して部屋を出て行った。


「白桜様、いかがいたしましょう?この屋敷の中に紫苑様がいるのは間違いありません」


黒子の前ではピクリとも表情を崩さなかった白桜がここにきてようやく口を開く。


「すでに種は蒔いた。あとは芽が出るのを待つのみ」


蒼紫は白桜の言葉の意味に気づくと心得たとばかりに一礼し、再び白桜の後ろに控えた。


◇◇◇


 時刻は戌の刻。


いつもなら賑やかな仲の町の様子を見て過ごすのだが、今日は月天が用意してくれた書物を読んでいたらあっという間に時が過ぎてしまっていた。


そろそろ休憩にしようと本を閉じ、ソファに寝転がると疲れていたらしくいつの間にかうとうとと夢の中へと落ちていく。


紫苑がハッと目を覚ますと、そこは暗い上と下さえも分からないような不思議な空間だった。


直感的にこれは夢だと分かったが、夢の割にはすごく生々しくたまにみる例の夢の様な感覚だ。


誰もいない自分の夢だとは分かっているが、どうも心細くなり大きな声をあげて誰か近くにいないかと問いかけてしまう。


当たり前のように誰の返事も返ってこないと思っていたのに、予期せず紫苑の後ろから返事が返ってくる。


「私はここにいる」


そう言って立っていた人物は闇を煌々と照らし出すような眩い白髪に血のような瞳が印象的な人物だった。


紫苑はその人物が名乗らずとも誰か知っていた。そう、彼こそが自分の腹違いの兄である白桜だ。


月天は白桜のことをとにかく嫌っているようだったが、今自分の目の前にいる人物からはそんなに邪悪な感じはしない。


「あの……ここは私の夢だと思うんですが。あなたは何故ここに?」


紫苑の質問に答えることなく、白桜は左手に持った扇子をひと仰ぎすると辺りは瞬く間に風景が変わりいつの間にかどこか屋敷の縁側に二人で座っていた。


紫苑があまりにも一瞬のことで驚いていると、白桜は何を言うでもなく二人の目の前に植えられている大きな桜の木を扇子で指す。


「あ……」


白桜に指された桜の木を見て紫苑は今自分がいる場所がどこだか理解した。そう、ここは紫苑が幼い頃母と二人で暮らした桜花殿だ。


「あの、何故ここに?」


紫苑が恐る恐る白桜に問いかけると、白桜はようやくその口を開く。


「ここは其方の帰る場所。今もこの場所は其方のために空けてある」


あまり白桜に関していい話を聞かないせいか、いつの間にか紫苑の中で白桜は人を喰らう恐ろしい鬼だと思っていたが実際に話すとほとんど無駄口もたたかずただそこに居るだけのようななんとも希薄な存在に思える。


「あの、私は鬼の里に帰るつもりはありません……」


紫苑がどうしたものかと困っていると、白桜はその紅い瞳で真っ直ぐ紫苑のことを見つめこう言った。


「真実を知りたくば、夜市で青い蝶を探せ。決して運命からは逃げられぬ」


紫苑は意味がわからず白桜に聞き返そうとするが、突然砂嵐のような突風が起き目の前にある風景もろとも白桜の姿が霞んで消えていく。


紫苑の目の前から白桜の姿が完全に消える前に見たのは、優しくもどこか悲しげに微笑む白桜の姿だった。

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