第73話


 空が赤く染まりはじめる暮六つ時。夢幻楼の上階にある長廊下には二つの影があった。


「極夜、なぜ紫苑様の元へ行った?」


窓の外をただ眺めるようにして立つ極夜の隣には珍しく苛立ちを表情に表した白夜の姿があった。


「別に……ただあの女がこのままのうのうと月天様の隣にいることが許せなかっただけ」


「紫苑様の事はあの日より分かっていたことではないか」


「確かに、月天様がどれだけ紫苑様に恋焦がれていたかは知ってる。けど見ただろ?今の彼女は昔の紫苑様じゃない!昔の紫苑様なら何もよりも月天様のことを一番に考えて行動したはずだ……今の彼女は何の力を持たない哀れなただの人の子だよ」


極夜は苦しそうな表情で胸の辺りをギュッと握ると白夜は小さくため息をついた。


「そうだとしてもだ。月天様がお決めになった事は絶対だ、それを破るなど言語道断。今回は紫苑様の言葉添えがあったおかげでこうして軽い処罰で済んだが次はないぞ」


「分かってるよ……分かってる」


白夜はこれ以上話はないと極夜に背を向けてきた道を戻っていった。


◇◇◇


 黄金が部屋を出て行ってから紫苑は一人、大窓から見える景色を眺めながら考えていた。


この幽世の世界に来てからひと月以上経った。


最初はただ帰ることだけを考えていたが、今では帰ることよりも自分の過去の記憶や本当の自分について知りたいと強く思う。


しかし、真実を追うにはあまりにも目の前に突きつけられた物が多すぎる。


月天の事は嫌いではないが、まだこれが恋心と呼べるものかは自信がない。それに、紅のこともそうだ。ただの人の身である自分に一体この幽世で何ができると言うのだろう……。


「こんな時に小雪姉さんがいれば……」


見上げた空はいつの間にか帳が下り、仲之町は色とりどりの提灯で道が明るく照らし出されている。


道を行き交う妖怪たちを眺めていると不意に一人の青年に目が止まる。


人集りが途切れ青年の顔が見えると、紫苑は思わず息を飲む。


紺碧を思わせるような髪をゆるく一つに束ねた青年の手には幻灯楼で見た赤水晶の飾りが握られていた。


青年は赤水晶を紫苑に見せつけるようにして高く掲げると、再び人集りが増すのと同時に姿を消した。


あの人……。


ユウキと語って幻灯楼に入り込んでいた蒼紫と呼ばれる鬼の一族の者に違いない。


俄での事件の詳細は伏せられていたので紫苑自身も黄金から聞いた分しか知らないが、月天は鬼の一族に対してかなり怒りを露わにしていた。それなのに月天のいる夢幻楼のすぐ側まで来るなんて一体どういうつもりなんだろう。


先ほどの態度、まるで紫苑に見せつけるかのようで思わず体に寒気が走る。


そう言えば、蒼紫は迎えに行くと言っていたような気がする。本当に自分の本性が鬼であるならばいっそ蒼紫と一緒に鬼の里に行った方が母のことも全て知る事ができるのでは?


次から次へと涌いては消えていく思考の波に身を委ねながら大窓から離れソファに腰掛け休んでいると、ギィッっと小さな音を立てて部屋の扉が少しだけ開く。


この部屋は月天の術によって出入りを制限されていると聞いていたので、ひとりでに扉が開くなんてどうしたものかと様子を伺いながら開いた扉まで近寄る。


扉の外側には幾人もの召使いのような者たちが慌ただしく行き来しており、どうやら扉の向こうは夢幻楼のどこかと繋がっているようだ。


紫苑が扉の隙間からあたりの様子を伺っていると、女中らしき女たちが話しているのが耳に入る。


「なんでも明日の戌の刻に御当主様が夢幻楼までいらっしゃるとか……」


「俄で眷属のものが暴れた謝罪と言っているらしいけど、あの鬼の一族がそれだけのためにこちらまで来るとは思えないわよ」


紫苑が夢中になって女中の話を聞いていると急に扉の向こう側が真っ暗になり誰の気配もしなくなる。


急にどうしたのだろうかと思い、もう少しだけ扉を開けてみようと取っ手に手をかけるとすぐ背後から声がかけられる。


「そんなに熱心に何を見てる?妬けてしまうな」


気配もなく耳元で囁かれ思わずその場で飛び上がりそうになる。


「そ…月天様!」


振り返ると酷薄そうな瞳を楽しげに細めて見下ろす月天の姿があった。


「一体何をそんなに熱心に見ていたんだ?私以外をそんなに見てくれるな、嫉妬に駆られた私は何をするか分からないぞ」


月天は笑みを浮かべながらそう言ったが、これは冗談などではなくこのお狐様ならば本当に屋敷の中に血の雨を降らすだろうと紫苑は本能的に察する。


「それにしても、この部屋は私の術によって出入りを制限していると言うのに一体どうして夢幻楼の他の階と繋がったんだ?まさかとは思うが紫苑がやったのか?」


嘘や隠し事は許さないとばかりに見つめてくる月天の瞳の力に押され、先ほどあった出来事を正直に話す。


月天は紫苑から話を聞くと忌々しげな表情を一瞬浮かべ、すぐに何処かへ式を飛ばす。


「紫苑、先ほどの話の通り明日はこの屋敷に鬼の当主が来ることになっている。今の鬼の当主は紫苑の腹違いの兄でもある白桜が務めているが、人間同士のような兄妹と考えない方がいい。なにせ白桜は実の母すらも喰らう鬼らしい鬼だからな」


「実の母を喰らうって……」


紫苑があまりの事にショックを受けていると月天は優しく紫苑の手を引き自分の隣に座らせる。


「心配しなくてもいい。紫苑は鬼化しても人や同族を喰らう事はない」


紫苑は月天の言葉に顔をあげるとなぜそんなことが分かるのかと思わず詰め寄ってしまう。


「鬼は生まれたその年の内に与えられたモノを糧に生きていく事になる。例えば人の血肉を与えられればその鬼は人を喰らうようになるし、逆に植物しか与えられなければ生涯血生臭いものとは無縁に生きる」


「それならばなぜあえて人や妖の血肉を与えるんですか?」


紫苑の純粋な質問に面食らったような表情をすると、月天はこれは面白いとばかりに笑い声を押し殺す。


「何がそんなに可笑しいんですか?」


「あぁ、すまない。人間らしい考えだと思ってね。鬼が血肉を好んで食すのは強い者を喰えばそれだけ己の力も強めることができるからさ。だから鬼に限らず力の強い妖怪は強い相手を求めて戦い、その血肉を求める。しかし、紫苑は例外だ。鬼の一族の姫として生まれながらも君には半分神人である母の血が流れているそのせいで君は血肉を与えられることなく草花の精気だけを喰らい生きていた」


「草花って……そんな鬼聞いたこともない……」


「それはそうさ、華鬼は滅多に生まれる者じゃない。大体はその年を越せずに死ぬ。けど、紫苑の場合は神人の力を持った母がいた。母の神通力のおかげで君は華鬼として成長することができたんだ」


ここまでの話を聞き、なぜここまで鬼の一族のことを月天が知っているのか疑問が浮かぶ。


今まで曼珠の園で聞いてきた話では妖狐と鬼の一族は犬猿の中で、とてもじゃないがお互いの一族の内情に関して詳しいとは思えなかったからだ。


月天は紫苑の疑問を悟ってか、何やら右手を空に差し出すと幾重にも厳重に封がされた小箱を手元に取り出す。


小箱を開けるとそこには数枚の黄ばんでぼろぼろになった半紙が入っており、目を凝らしてよく見ると“雪華“の文字を見つける。


紫苑は驚き月天の顔を見ると、月天は箱の中に入った紙を取り出して机の上に並べてくれた。


 紙はどうやら日記の一部らしく、そこにはその日あった出来事や生まれて間もない赤子のことが書かれていた。


「ここに書かれている赤子は紫苑、君のことだ。この日記の本体を探してはいるんだが未だに行方知らずでこれだけ集めるのがやっとだった。これは紫苑にやろう」


初めて知る自分の過去と、母が隠したがっていた真実が書かれているかもしれないと思うと緊張と不安で胸が押し潰されるような気持ちになる。


紫苑が月天から小箱ごと母の日記の一部を受け取ると、月天はそのまま紫苑の瞳を真っ直ぐ見つめて言い聞かせるように告げる。


「明日は何があってもこの部屋を出ないでおくれ。その雪華様の日記を読めば分かることだが、鬼の一族は紫苑のことなど程のいい道具くらいにしか思っていない。紫苑を危険な目に合わせないためにも明日は私の言いつけを守っておくれ」


あまりにも真っ直ぐな強い眼差しで見つめられて、紫苑は何も言えずにただ頷くしかなかった。









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