第70話

 月天が寝所を出て行くと黄金が顔を出す。


「紫苑様、おはようございます。本日は予定が少々詰まっていますので急いで支度しましょう」


「予定って今日は何をするんですか?」


「本日は月天様の婚約者候補として正式に妖狐の一族内で認めてもらうための内内の顔合わせや輿入れの準備などが予定されています」


黄金はつらつらと当たり前のことのように今日の予定を教えてくれたが、紫苑にとってはどれも初耳だ。


それに婚約者として認めてもらうための顔合わせなど、記憶もない今の状態ではとても受け入れられない。


紫苑がどうしたものかと悩んでいると、黄金の他にも侍女達がやってきて紫苑の支度を整えていく。


「では紫苑様、朝食がすみましたらお召し物を変えて簡単に今日お会いする上役の方々についてお勉強しましょうか」


「上役の方々もこの曼珠の園にいるんですか?」


「そうでございます。俄の間はこの夢幻楼にほとんどの上役の方々滞在しますので。心配なさらずとも顔合わせの際には月天様が側にお付きになりますので紫苑様は月天様に従っているだけで大丈夫でございます。朝食は隣のお部屋に準備してありますので」


黄金は一通り説明し終えると顔合わせの準備があるようで部屋を出ていった。


 紫苑は黄金に言われた通りに隣の部屋に行くと、前とは違い豪華な朝食が机の上に並んでいる。


昨晩、書類が山積みになっていた月天の机を見ると机の上はいつの間にか綺麗に整理されており数枚の紙と巻物だけがのっていた。


「あの、月天様は?」


近くで部屋を片付けていた侍女に声をかけると月天は急用が入ったため少し上ノ国の屋敷へ戻っていると教えてくれた。


(そっか、私はこの曼珠の園の中しか知らないけど。本来であれば月天様は上ノ国のお屋敷で過ごしてるのが普通なのよね)


いつの間に馴染みつつあるこの曼珠の園での生活だが、こうしていつまでも誰かに頼ってのほほんとしている訳にはいかない。


なるべく早く自分の過去の記憶を取り戻して、母が自分に隠していたことを知りたい。


記憶を取りもどしたら、月天にお願いして一度小雪姉さんたちにも会わせてもらおう。そして、しっかり別れを言って人里に帰ろう。


紫苑は月天の顔を思い出し少し胸がきゅっと痛むが、自分の想いに気づかぬふりをする。


朝食を取り終わると、黄金が戻ってきて紫苑を月光花の間へと連れていく。


「月天様は紫苑様の身の回りの物も全て運ぶようにと仰っていたのですが、流石に正式に契りを交わす前の身ですので紫苑様の物は月光花の間に置かせていただいております」


黄金が少し申し訳なさそうに説明してくれたが、紫苑にとっては月天と別の部屋で過ごせるならばそちらの方が嬉しい。


月天と一緒にいればいるほどどうしても離れ難くなってしまうのだ。このままではきっと幽世を出て人里に戻るのに気持ちが揺らいでしまうだろう。


「気にしないでください!それにこんな立派なお部屋じゃなくてもっと簡素なお部屋でも大丈夫ですので」


「本当に紫苑様は謙虚でいらっしゃる。他の御当主の奥方様の中には傍若無人な方もいらっしゃるというのに」


黄金の話を聞きつつ部屋に入ると、数日いただけの部屋にも関わらず、戻ってくるとなんだか不思議と懐かしく思える。


すでに今日着る着物は準備されており、どうやら今日は緋色が鮮やかな引き振袖を着るらしい。


正直、振袖などは上等なものになるほど生地もずっしりと重く装飾も多くなるので小袖に袴の方がありがたいのだが絶対に許してはくれないだろう。


着付けを終えると黄金が今日会う予定の上役について色々と教えてくれた。


上役の六割は純血至上主義の旧派閥で残りの二割が新興派閥の能力至上主義を重んじる立ち位置にいるという。


残りの二割は月天至上主義の派閥で基本的に月天の決めたことに意を唱えることはないそうだ。


「今回の顔合わせでは紫苑は月天の正式な婚約者候補として認めてもらうためのものですので、問題となるのが上役の六割を占める旧派閥の承諾を得れるかですね」


一通り妖狐の一族の勢力関係について話すと黄金は不安げな表情を浮かべたままの紫苑の手を優しく握る。


「大丈夫です。月天様は紫苑様を見つけてからずっと上役達の説得を続けてらっしゃいました。紫苑様は月天様のお隣で何があっても笑みを崩さず余裕をお見せください。妖は自分よりもか弱き者には容赦しませんので、決して隙をお見せにならぬよう」


「黄金さん、私……」


紫苑が声をかけるのと同時に部屋の外から侍女の声が届く。


「夢幻の間にて月天様がお待ちです。ご準備は良いでしょうか?」


部屋の入口に控えていた侍女が返事をすると、黄金は紫苑の顔を隠すように薄絹をかけると手を引き夢幻の間へと誘う。


 この夢幻楼に来てから月光花の間、月天の自室、曼珠沙華の間と出入りしたが、毎回廊下の様子は変わるし午前と午後で屋敷自体の雰囲気も大きく変わるので今だに紫苑は一人で屋敷内を歩くことができない。


その内極夜か小鉄くんにお願いして屋敷の中を案内してもらおう、と考えていると夢幻の間についたらしく黄金が部屋の障子戸の前で膝をつき何やら部屋の中の者と話している。


「紫苑様、それでは私はこちらでお待ちしておりますので」


黄金に言われて部屋に入るとそこは今まで入った部屋の中で一番狭く中からは刺々しい空気が漂っている。


広さにして三〇畳あるかどうかという感じだが、部屋の両脇には顔に様々な半面をつけた妖狐がずらりと座っておりこちらを値踏みするかのように伺っている。


紫苑が部屋の中の異様さに少し怯えていると燭台を持った月天が紫苑に歩み寄る。


「大丈夫だ、心配はいらない」


紫苑は月天から差し出された手をぎゅっと握ると、月天に着いて部屋の上座へと向かう。


月天は付き添いながら紫苑を上座まで連れて行くと、握っていた手を離し自分の少し斜め後ろに座らせる。


全員が席に座ったのを確認すると上座の少し下に控えていた者が会の進行を始める。


「皆様方におかれましてはお忙しいところお越しいただき誠にありがとうございます。本日はかねてよりお話がありました月天様の正妻候補となるお方の顔見せということでお集まりいただきました」


進行役の妖狐が紫苑に関する情報をつらつらと話始めると上役達は手元に置かれている資料らしき紙の束に視線を落としている。


「……以上が正妻候補であられる紫苑様についての情報でございます。では月天様よりお話をいただきます」


進行役の者が下がると上役達は皆顔を上げて月天の言葉を待つ。


いつもは比較的楽な着流しを着ている月天だが今日は紋付きの羽織を着て半面までつけている。


それだけこの顔合わせという場が重要だということだろう。


「昨日の俄に際してはご苦労。無事協定を結び俄を終わらせられたのは皆の尽力があってこそだ」


上役達は月天の賛辞の言葉に恭しくも頭を下げるが、話題が紫苑のことになると急に部屋中に緊張が走ったのがわかった。


「さて、私の正妻となる者。紫苑についてだが、急なことで驚いた者も多いだろう。しかし、私の正妻については先代の天狐様との約束で決定権は私に一任すると内々で決まっていた話。ここにきて意を唱える者もいないだろう」


何者にも意を唱えさせないかのように淡々とそれでいて部屋の中を支配するような空気を作り出し話をすすめるが、上座に一番近い右手に座っている上役が手を挙げる。


すぐに進行役の者が月天に確認して発言の許可を得るとその黒い妖狐の半面をつけた上役は紫苑の方を一瞥してから話だす。

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