第52話
紫苑が月天と言い合った翌日、幻灯楼には朝から鬼の一族の御当主である白桜とその側近の蒼紫が訪れており楼主はもちろん見世の上級女郎達は接待に追われていた。
「姉さん、楼主様が支度をしたら早く降りてくるようにと言ってたでありんす」
一階に朝餉を取りに行って戻ってきた凛は帰り際に楼主に声をかけられ、小雪に早く出てきて白桜たちの接待をするようにと言付かった。
小雪は未だ目を覚さない紅を心配して昨晩からずっと側についている。
「姉さん、紅の様子はわっちが観んすから、朝餉を食べてくんなまし」
小雪は凛に着物の袖を引かれてようやく凛の方を見る。
「あぁ、凛。悪かったね……わっちは平気だからお前がお食べ」
小雪は少し疲れたような表情でそういうと再び寝たままの紅へと視線を落とす。
「姉さん……」
凛が悲しげな表情を浮かべて小雪を見ていると廊下の方から騒ぎ声が聞こえてくる。
それは段々と小雪たちのいる部屋へと近づいてきて微かだが話の内容が聞き取れるところまで来ていた。
「どうかご勘弁を!小雪は昨日の登楼で少々疲れておりまして……支度を済ませたらすぐに座敷にお連れしますので」
「……小雪などと言う女はどうでもよい。私は観月という名の娘に用があるのだ」
凛が廊下から聞こえる話の内容を理解するのとほぼ同時に勢いよく小雪達のいる部屋の襖が開けられる。
小雪達のいる部屋は廊下側の一間と窓側の一間で二間続きの部屋となっている。紅と小雪がいるのは窓側の部屋で開けられた襖からは距離がある。
近くにいた凛はいきなり開かれた襖に驚くのと同時に廊下から入り込んでくる濃厚な桜の香りと強い妖気を感じざわざわと身の毛が逆立つ。
襖を開けた人物は誰もが見惚れるような美しい姿をした男だった。
「……微かだが紫苑の香りがする。おい、そこのお前観月という娘はどこだ?」
白桜は自分を見て身を硬めた凛に問いかける。
凛はなんとか答えようとするが、白桜の妖気に当てられて上手く言葉が出てこない。
白桜は答えない凛に向けて右手を伸ばすが、白桜の手が凛に触れる前に奥の部屋から小雪が現れる。
「これはこれは、鬼の御当主様とお見受けいたしんす 。御当主様とあろうお方が
小雪はそう言って白桜の側で小さくなって震えている凛を自分の背に隠すとそのまま白桜を睨みつける。
「……観月はどこだ?」
「観月ならもうここにはおりんせん。昨日妖狐の御当主に召し上げられんした」
小雪がそう答えると白桜は眉根に皺を寄せて険しい表情をする。
昨日の一件は小雪が夢幻楼で騒動を起こしたため、醜聞を嫌った遊郭の主人達が緘口令をしいたのだ。
そのため、紫苑が月天に召し上げられた事実はあの場にいた花魁達しか知らず幻灯楼の楼主は月天の機嫌を損ねて殺されたのだと思っているのだ。
「蒼紫、もうここに用はない。行くぞ」
白桜は小雪とその後ろに隠れている凛のことを一瞥すると自分の後ろに控えていた蒼紫を連れて小雪達の部屋を出て行く。
白桜達が出ていき安心したのか凛はその場に崩れるようにへたり込んでしまう。
その様子を見ていた小雪はすぐに凛を抱きしめて、もう大丈夫だと優しく凛の頭を撫でてやる。
「……まったく、昨日からなんだって言うんだい。妖狐の御当主に妖猫の御当主、さらに鬼の御当主ときたもんだ……あんたは何者なんだい紫苑……」
小雪の呟きは誰の耳に届くこともなく消えていった。
◇◇◇
時を同じくして夢幻楼の月光花の間に監禁されている紫苑は……。
俄の一日目であった昨日は夢幻楼に登楼してから本当に色々なことが起きた。
妖狐の当主である月天様に召し上げられ、急に私たちは夫婦になるなどと言われ……終いには実は自分が鬼の一族の者だと言うのだ。
昨日月天に強く掴まれた手首にはうっすら手枷のように跡が残っている。
手首の血はすぐに止まりはしたが、それよりもあんなに優しかった宗介が実は月天で、しかもあんな酷いことをするなんて紫苑は受け入れきれずにいた。
紫苑が中庭を独りでぼおっと眺めていると廊下の方から声がかけられる。
「月光花の君、湯浴みの用意ができました」
静かに戸を開けて入ってきた侍女たちは虚ろな瞳をした紫苑を気にすることなく準備を進めて浴場へと連れていく。
されるがままにその身を預けていると、いつの間にか元の部屋へと戻っており着物も桃色の淡い振袖に着替えさせられていた。
侍女が身の回りの世話をせっせとしているといつの間にきたのか廊下から極夜が入ってくる。
極夜は侍女達に部屋を下がるように命令すると部屋の中には紫苑と極夜の二人だけになる。
極夜は紫苑の方を見てからため息を一つつくとその場にあぐらをかいて座る。
「あのさぁ、月天様がこんなにも手厚く歓迎してやってるって言うのに何がそんなに気に入らないわけ?」
「部屋に閉じ込めることが歓迎と言えるのですか?それに、私は別に歓迎してほしいとお願いした覚えはありません」
正直もうやけくそだ。相手は自分よりも圧倒的な力を持つ妖だが知ったことではない。
紫苑は自分のことを軽蔑するかのような瞳で見つめてくる極夜に言い返してはみたが、言葉に出すと余計に色々な感情が溢れてきて思わず涙声になってしまう。
「ちょ、ちょっと!泣くのはやめろ!俺が泣かせたみたいじゃん!」
極夜は今にも泣き出してしまいそうな紫苑を見て慌てて紫苑の側に近寄り乱暴に涙を拭う。
「それにしてもあんなに月天様に懐いていたあんたが月天様を拒絶するなんてさ……」
紫苑は涙を拭いながら極夜の話に耳を傾ける。
「あんたの母親もいくら立場が悪かったって言っても、記憶も力も何もかも封印するなんてちょっとどうかしてると思うよ」
「母のことを悪く言わないでください!……それより、あなたも私のことを知ってるんですか?」
「知ってるというか、あんたが鬼だった頃に一度会ってるよ。月天様があんたを助けにわざわざ鬼の里に行った時にあんたに手紙を渡しに行ったからね」
紫苑は昨日、月天から聞いた過去の自分の話を思い出す。
「あの……本当に私は月天様のことを……その……慕っていたのでしょうか?」
「当たり前でしょ?月天様がくだらない嘘なんてつくわけないじゃん!あんたを見つけるためにこの百三十年間、毎日この幽世や人世を探してたんだよ?そんな月天様にあんな態度を取るなんて申し訳ないとか思わないの?」
「そ、そんなこと私はお願いしてません!」
「はぁ〜。そうやって意地張ってるのは別にいいけど素直にならないと苦しむのはあんた自身だと思うけど」
「それはどういう意味ですか?」
「あんた月天様が化けた宗介に恋してたでしょ?姿形が変わっても魂が覚えてるんだよ」
「恋などそんな……」
極夜に言い当てられて紫苑は思わず頬を赤らめて下を向く。
「素直になればいいのにさ」
「昨日は私だってあんなことするつもりじゃなかったんです。ただ色々なことが一気に起こりすぎて……」
極夜は疑るような眼差しを紫苑に向ける。
「ふ〜ん……あれだけ大声で泣き喚いておいてそんなつもりじゃなかったって言われてもねぇ〜」
「大声で泣き喚くなんて人聞きの悪い!と言うか、聞いてたんですか!?」
「あれが大声じゃなかったら一体なんなのさ。それより少しでも反省しているなら月天様に詫びの手紙の一通でも書いたら?」
そう言い極夜は文机の引き出しから桜の透かしが施された見るからに上等な便箋を用意する。
「ほら、さっさと『ごめんなさい、昨日はどうかしてました月天様を愛してます』って書いて」
「あ……愛してますってなんでそんなこと!」
いちいち極夜のいうことに突っかかってくる紫苑を面倒くさそうな表情で、はいはいと受け流す。
「あー、何でもいいから早く書いてよ。僕だって暇じゃないんだから」
そういうと極夜は文机を挟んで紫苑の向かいに座り机に肘をついて紫苑の様子を眺める。
紫苑は極夜に言われるまま、文机に向かい月天への手紙を考える。
(確かに、昨日のことは私も悪いところはあったけど……あんなに乱暴な扱いするなんて月天様も悪い!)
紫苑は書くことを決め、思い切って筆を走らせる。
何とか一枚の紙に要件をまとめてそれを暇そうに待っている極夜に渡す。
「これ、月天様に渡してください」
「ん〜どれどれ?『昨日はひどい態度をとってごめんなさい……』」
「人の手紙を読むなんて!」
極夜が声に出して紫苑の手紙を読み始めると紫苑は思わず極夜の腰のあたりで揺れるふわふわの尻尾の一つを思いっきり握って引っ張る。
すると極夜は全身の毛を逆立てたかと思うと奇妙な声をあげてその場にバタンと倒れる。
「え!?ごめんんさい!そんなつもりじゃ……」
慌てて尻尾から手を離して仰向けに倒れ込んだ極夜に近づく。
「あんた、妖狐の急所でもある尻尾をあんな力いっぱい引っ張るだなんてとんでもない奴だな!」
「本当にごめんなさい……尻尾が急所だって知らなかったから……」
「尻尾や耳は他の部位より敏感なんだから気軽に触らないでよ!」
極夜はすっかり機嫌を損ねてしまい、紫苑から受け取った手紙を持って部屋を出て行ってしまった。
極夜が出て行った後の部屋は再びしーんッと静まりかえっており紫苑の心に寂しさを募らせる。
「小雪姉さんに凛、紅……今頃何をしてるのかな……?」
紫苑は再び中庭を眺めて幻灯楼にいるであろう小雪達に想いを馳せるのであった。
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