第37話 

 俄まで後五日と迫った日のこと、幻灯楼の見世の中はいつもと違いどこかそわそわとした落ち着きのない雰囲気が漂っていた。


ここ数日、幻灯楼はとにかく色々とあったせいで見世も現在は一般のお客の受け入れを止めている状態だ。


女将が鬼の者と内通していたことが分かり処分されてからと言うもの、口うるさい女将がいなくなり見世の女たちもどこか気が緩んでしまっている始末だ。


紫苑はいつも通り朝の身支度を済ませると小雪たちのいる二階の部屋へと向かう。


部屋に入ると小雪は今日は営業がないにも関わらず仕事用の豪華な着物を着て顔にも化粧を済ませていた。


「姉さん、今日はどなたかいらっしゃるんですか?」


朝確認した時は来客の予定はなかったはずだが、小雪の装いを見る限り常連客の誰かが来るのではと思った。


「ちょうど良かった、急な話なんだが昼過ぎに宗介様が少しばかりお前と話がしたいとこちらに来るから準備してくれるかい?」


宗介様とは前回会って以来色々なことが重なりすっかり連絡をするのすら忘れていた。


紫苑は最後に宗介と会った時のことを思い出して思わず頬を赤く染めるが、小雪が続けて話した内容を聞いて一気に意識を現実に戻す。


「宗介様は上ノ国にも顔が効くって言っただろう?実は宗介様にも俄で登楼する際にお前のことでいくつか頼み事をしていてね……多分その話だろうから、前回のこともあるが水に流して会ってはもらえないかい?」


小雪は少しばつの悪そうな表情をしてそう言ったが、当の本人は前回のことは確かに恥ずかしかったし初めてのことで混乱はしたが嫌悪するような気持ちは不思議と湧かなかった。


それどころか、久々に宗介の名を聞くと握られた手の暖かさや自分のことを見る優しい瞳を思い出してすぐにでも会いたい気持ちが湧き出てくる。


「もちろんです!私こそ何から何まで姉さんにお世話になってしまって……」


紫苑は昨日の夏椿の会のことといい、小雪には返しきれないほど世話になっている。


今まで生きてきて自分のためにこれだけしてくれた者はいないのではないかと言うくらいだ。


(あれ?なんだか今一瞬誰かのことを思い出したような……)


こんなに自分のためにしてくれる者はいないとしみじみ思い返していたら、なぜか頭の中に黒髪に黒い瞳の夢に出てきた少年の姿が思い浮かんだ。


思わずその場で考え込んでしまうと小雪のそばにいた凛と紅が心配そうな表情をして顔を覗き込んで来る。


「観月姉さん大丈夫でありんすか?」


凛が遠慮しつつも声をかけると紫苑はハッと我にかえり慌てていつも通りの笑みを取り繕う。


「え?えぇ……大丈夫。ちょっと考え事をしていただけだから」


「それはそうと、観月。お前の本当の名が紫苑だったなんて知らなかったよ!俄で登楼する前に分かって良かったよ本当に!」


小雪は昨日、夏椿の会で署名する際に知った本当の名を思い出して思わず眉間に皺を寄せる。


「妖を警戒して本名を名乗らないのは術師らしいが、ここまで一緒に過ごしたわっちらにまでずっと偽りの名を使っていたなんて。わっちは寂しく思うよ……」


小雪が着物の袖を目元にやり、しくしくと泣き真似をすると凛と紅も一緒に、そうでありんす!と小雪同様泣き真似を始める。


紫苑は慌てて弁解しようと身振り手振りを使い小雪たちの周りをうろうろしていると、そんな紫苑の様子を袖越しに見て小雪が面白そうに笑い声を堪えて笑う。


「冗談だよ!けど登楼する前に本当の名を知れたのは良かったね。夢幻楼に登楼する際に今年は姿現しの鏡を通らなきゃいけないらしいから偽名のままだと面倒なことになったよ」


姿現しの鏡とは大きな姿見の鏡で鏡に映る者の真実の姿を映し出す術具の一つだ。大変貴重な物らしく、この幽世でも二つしかなく一つは妖狐の里が所持している。


「それと、宗介様にも一応本当の名は伝えておいた方がいいと思うよ。万が一御当主様に話がいった時に面倒事が起きにようにね」


紫苑はそういえば宗介にも観月という名を名乗っていたことを思い出し、どんな顔をして言い出せばいいのかと悩んでしまう。


「大丈夫だよ、宗介様なら怒ったりしないさ。それじゃあ、早速お前も着替えて準備しておくれ」


小雪がそういうと凛と紅と一緒に隣の部屋で宗介を迎えるための準備を始めた。



◇◇◇


 昼過ぎに見世に顔を出すと言っていた宗介様が幻灯楼に現れたのは七つ下りの頃だった。


妖たちの住む幽世にも四季はあるらしく夏近い今は七つ下がりといえどもまだまだ日が高くあたりは明るい。


「久しぶりだね、早速で悪いが少し観月と話をさせてもらってもいいかな?もちろん、この前のような野暮なことはしないよ」


いつも通りの人の良さそうな雰囲気を纏い幻灯楼に現れた宗介は小雪が出迎えると挨拶もそこそこに本題に入る。


「今日はあまり時間がなくてね、見世の中で落ち着いて話せる部屋があればお願いできるかな?」


「そういうことであれば、わっちの部屋をお使いしなんし。わっち達はその間別の部屋におりんす。観月、宗介様をお連れして」


小雪はそういうと凛と紅を連れてすぐに姿を消す。宗介と二人残された紫苑は小雪がいつも違い宗介に何も言わないことを不思議に思い小雪が去った方を眺めていた。


「観月、悪が部屋まで案内してくれるかい?」


宗介に声をかけられて慌てて向き直り、二階にある小雪の私室に案内する。

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