第34話
月の明かりに照らし出されて浮かび上がったのは三つの妖の影。
先を歩く者こそがこの妖狐の里を治める御当主である月天だ。
後に続く二つの影は白夜と極夜のものであり、いつもならば月天の側に控えられるだけで嬉しさのあまり自然と三つの尾を揺らしてしまうところだが今回ばかりは先を歩く月天の怒りを察してか尾は力なく下がったままだ。
月天が無言のまま上ノ国にある屋敷の自室へと入ると荒々しく着ていた着物を脱ぎ去る。
白夜と極夜は慌てて月天の着替えを手伝おうとするが月天に近寄ることを許されない。
「それ以上私に近づくな。忌々しいあの鬼の臭いがうつる」
白夜と極夜は屋敷の者たちも見たことがないほど悲しそうな表情を浮かべるとすぐさま月天から距離をとり部屋の隅まで下がる。
月天の着替えが終わると側使えの者たちは下がり、部屋の中に香が炊かれる。
ようやく月天から発せられるピリピリとした空気が和らぐと月天は腰をかけて部屋の隅で微動だにしない白夜と極夜に話しかける。
「それで?蒼紫をみすみす逃したわけだが何か弁解はあるか?」
月天の表情はいつも通り無表情で何を考えているか表情から読み取ることは難しい。
白夜と極夜の目の前に座るこの人物は同族であろうとも自分の意にそぐわない者は容赦なく滅する。それがたとえ何百年と使えてきた側近でもだ。
「いいえ、何もございません。幻灯楼に行き捕縛する予定でしたが、感づかれて逃げられました。これは私どもの落ち度でございます。どのような処分も謹んでお受けいたします」
真冬の湖面の底を思わせるような静かで揺れることのない瞳を見つめて白夜が答える。
月天は視線を逸らさずに白夜の白金の瞳を見続ける。
永遠のように感じられる沈黙を終わらせたのは月天だった。
「もう良い、紫苑が連れ去られるのを防いだのだ。今回の失敗を差し引きしてもお釣りが来るほどの成果だ」
白夜と極夜は思わず小さく安堵の息を漏らす。
「しかし、二度はないと思え。いくらお前たちでも紫苑に関する物事に失敗は許さん」
白夜と極夜は月天から放たれた圧倒的な妖力を受けてその場にすぐさま頭を下げる。
『承知しました』
二人の態度に満足すると月天は脇息にもたれかかり先ほどの不機嫌さが嘘かのように口元に笑みを浮かべる。
「今日、彼奴と対峙して確信したがこの身に残る忌々しき呪印の効力はもうすぐ消える。以前よりも彼奴の呪力が弱まっていた。以前だったらあの場で白桜の術が込められた札を使うなどあり得なかったからな」
月天は自分の身に刻まれた火の粉のようにチリチリと自分の身を焼く呪印を一撫でする。
「月天様、今夜幻灯楼に行った際に小雪花魁と会いましたがあの女こちらの動きに気づきだしている様子。私どもの方で処分しておきましょうか?」
幻灯楼の座敷で顔を合わせた際に普通のものは気づかないようなこちらを伺うような視線を一瞬だが感じられた。
紫苑様が無事に月天様の手元に届くまでは少しでも不安が残るモノは処分しておきたい。
「いいや、あの女はまだ使える。このまま生かしておけ」
「御意」
白夜と月天の会話が終わるとすぐに極夜が月天に明日予定している協議会はどうするのか確認を取る。
「明日開きます会合は予定通りに行いますか?今回の件、蒼紫殿の単独とは思えませんが……」
「明日の会合は予定通り母屋の黒百合の間で行う。白桜は蒼紫を連れてくるだろうから歓迎してやろう」
月天は楽しそうに目を細めると円窓に浮かぶ三日月を見上げる。
□□□
ようやくここまで来た。
たった百年ほどの時間ですら紫苑がいない世界は時が止まったように長く感じた。
明日の会合を終えれば後は紫苑は迎えるだけだ。こんなに心が歓喜で震えるのはいつぶりだろう。
あぁ……早く早く私の元に来ておくれ。
私と君の邪魔ををするものは残らず灰に変えてしまおう。
月天は自分が今見上げる月を紫苑も見ていると思うだけでも胸が高鳴りいつもの冷静さを保っていられないほど気持ちを昂らせてしまう。
「月天様、では明日の準備はこのまま進めさせていただきます。特に蒼紫殿には私たちも心を込めて歓迎したいと思います。では御前失礼します」
月天は白夜と極夜の方をちらりと一瞥するとこれ以上は話すことはないとばかりに手で退出の許可を与える。
白夜と極夜は後も立てずにそのまま月天の自室を後にする。
◇◇◇
「それにしても、月天様は本当に紫苑様のことになると我を忘れるよね」
誰もいない廊下を二人で歩きながら極夜が白夜に軽い口調で話しかける。
「……」
「そりゃあ、月天様にとって紫苑様がどれだけ特別な方なのかは知っているけど今日ちらりと見た感じじゃあ何の取り柄もない女って感じだったけど」
極夜がそこまでいうと白夜がぎろりろ極夜をひと睨みする。
「月天様のおっしゃることに従うことが私たちの勤め。余計なことは考えなくていい」
「白夜、そうは言っても僕らの大切な月天様の側に相応しくない者がはべるなんてそれこそ問題だ!元々は鬼の一族の直系の姫君なんだからちょっとちょっかい出したって死にはしないさ」
極夜はそういうと無邪気な笑みを浮かべて指を折って数を数えだす。
「極夜、悪ふざけも大概にしないといくらお前でも滅せられるぞ。それに月天様からは念を押されている。お前の考えていることなんてお見通しさ」
「ちぇッ、久々に面白そうなおもちゃと遊べると思ったのに」
「それよりも、鬼の臭いが鼻についてたまらない。身支度を整えたら執務室にこい」
「へいへい〜」
ひらひらと手を振って白夜に背を向けて消えていった極夜の姿を見つめ、このまま何も問題が起きずに月天の元に紫苑が落ちてくることをひっそりと祈るのだった。
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