第41話 過去の記憶

 ひと言で表すならば、そこは無の空間だった。


 響希ひびきはひとりそこにたたずんでいるのはわかったが、上下左右、あるいは立っている足の感覚すらも曖昧だ。視界にうつるのは果てのない虚無だけだ。おそらく歩を進めても、出口を見つけることはできないだろう。


 しかし、響希にその必要はない。焦る必要もない。もうすぐある人物がここへ来ると確信しているからだ。それは感覚でくみ取ることができた。眼を閉じ、ひたすら目的の人物が現れるまで待つ。


「あれ、響希?」

「・・・・・・ かえでさん⁉なんでここに?」


 予想していなかった人物が現れ響希は少なからず動揺した。まさか彼女が同じ空間に現れるとは。これは瀬魚伊弦が仕向けたことなのだろうか。


――― やあ、待たせたね。


 そうこうしているうちに、ふたりの人物が姿を現した。そのうちひとりは響希が待ち望んでいた人物、瀬魚せな伊弦いづる。もうひとりは橙日とうひけやきだ。


「来るとわかっていました」

――― ふたりには迷惑かけちゃってごめんね。


 楓は複雑そうな表情を浮かべた。予期しない形で橙日けやきの記憶が蘇ってしまったことに不服申し立てたい気分だった。


 そんな楓にけやきは諭すように声をかける。


――― 心配しなくても、私の記憶を完全に封印してからちゃんと皆の所に帰すから。


「当たり前です。それくらいはちゃんとしてもらわないと」


 楓はそっぽを向いて返事をする。しかし視線は行ったり来たりを繰り返して、落ち着かない様子である。


 けやきは楓が言いたいことがわかり、微笑みながら楓の意図を読んだ。今のふたりの間はどんな嘘も通じない、ふたりでひとつの状態なのだ。考えていることが手に取るようにわかる。


――― 楓ちゃんが響希君を好きなのは、私たちの記憶でもなんでもなくて、楓ちゃんの意思だから、気にしなくてだいじょうぶ。

「んなっ・・・・・・ 別にそういうことが言いたかったわけじゃ――― 」

――― ふふふっ。


 そんなふたりのやり取りを眺め、それから伊弦は響希に向き直った。


――― 苦しませてしまって、すまなかったな。自分ではない人間がもうひとり自分のなかにいる感覚は、気持ち悪かっただろう?

「・・・・・・ あなたは、いいんですか。もう誰とも会えなくなってしまうんですよ」


 響希はあえて自分の気持ちを伝えずに疑問をぶつけた。きっと響希の気持ちは口に出さずともわかってくれているから。だから響希は瀬魚伊弦の気持ちを知りたかった。


――― あれだけの体験をしたのに、人の心配をするなんてお人好しだな。・・・・・・ 今こうして会話できているのも記憶のおかげだ。それにな、俺はお前、蒲水響希の人生を歩んでほしいんだ。死人は死人らしく天国とやらに行ってのんびりとするさ。


 響希は頷いた。たとえ今まで選択してきたことが瀬魚伊弦の記憶に引っ張られたことだとしても、響希自身の選択であったと胸を張れるようになりたい。


「あなたの意見を知れて、踏ん切りがつきました。俺も、俺自身の人生を歩めるように努力していこうと思います」


 伊弦は満足した笑みを浮かべた。


 それから響希と楓から距離を取ると、けやきに向かって手を差し出す。


 けやきは楓にひらひらと手を振って急いで伊弦のもとへ駆け寄り差し出された手を力強く握った。



―――――― ありがとう



 蒲水響希と末莉坂楓は脳裏に焼き付けるために厳かな光に包まれていく瀬魚伊弦と橙日けやきを目に留め続けた。その光が消えてなくなるまで。



 いつのまにかふたりはどちらともなく、手を繋いでいた

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