第6話

 

瑤子ようこさんのお母さんを名乗る人から私に連絡があったんだけど」 

 かいに言うのもちょっと迷っていて、マンションに行ったらたまたま海がまだ帰宅していなくてりくだけがいたので、なんとなく彼に私は相談していた。

「何て?」

「何か瑤子さんが私と一度話し合いたいって言っているみたいで、どうかって」

 陸は私をじっと見ていた。

「神奈はどうしたいんだよ」

「話だけでも聞いてみてもいいかなと思ってるんだけど、でも、海の問題だし、本当はあまり関わりたくない気持ちもある」

「やめとけ。会わない方がいいと思う」

「やっぱりそうかな」

神奈かんな自身がどうしても会いたいって言うなら止めないけど」

 陸はそう言ってから

「でもやっぱり俺としてはやめとけって言いいたいかも」

「ふーん」

 天邪鬼あまのじゃくなのか、私は。

 そう言われるとなんか逆に一度会ってみたくなってきたりして。

「せっかく海が浮上してきてて今はおまえらもいい感じになってきてるんだから、わざわざ自分からトラブルに首突っ込みに行かなくてもいいんじゃないの」

「うーん、そうだよね」

「なんだよその煮え切らない返事は」

「天邪鬼なのかも。そう言われると逆に会ってみたくなってきた」

「ばかかおまえは」

「そうなのかも」

「かもじゃなくて、ばかなんだよ! アホ!」

 アホまで付け加えられた。

 陸はあきれたように私を見ていたけれど、しばらくしてからきっぱりした口調で言った。

「もし会いに行くんなら、沙羅さらを連れていけ」

「何で沙羅? この場合、誰かと一緒に行くとしたら海じゃない?」

「女同士の方が何かあったときいいかもと思って」

「ふーん」

「沙羅は余計なことに口出す奴じゃないし、第三者がいたほうがいいこともあるだろう」

 何となくそれもいいかもな、と思い始めていたら、陸はさっさと目の前で沙羅に電話してこっちの返事も待たずに事情を話し出していた。

「OKって言ってるけど」

 陸が私に言って、何かとんとん拍子に決まってしまったけれど

「じゃあ、お願いしたい」

「代わる?」

「うん」

 電話をかわってもらって沙羅と直接話し、候補の日をいくつか出してもらえば沙羅とも予定の合う日が合うだろうということで向こうと連絡を取ってからまた改めて沙羅に連絡することにした。海の事情はある程度沙羅も知っているので、付き添ってもらうにしても海よりはやはり沙羅の方が私も気が楽だと電話終わってから気づいた。海だと当事者すぎる。しかもその一人の男をまるで取り合っているみたいな関係に私と瑤子さんは不本意ながらもなってしまっているし。

 そんなわけで、海には事後報告になった。と言っても、会うことに決めたよ、という意味での事後報告だけど。予想通りというか、海は大反対した。

「もう決めたの」

「じゃあ、俺も行く」

「海が来ると余計にこじれそうだよ」

「何で俺が蚊帳かやの外に置かれるんだよ。だいたい神奈に何の用があるって言うんだよ?」

「何かバレたら困ることでもあるの?」

「そんなのないけど」

 言いながら何か目が泳いでる。

 あるんだな、と思ったけれど黙っていた。

「じゃあ、行き帰りを送るから話が終わるまで車で待ってる」

 海はそう言い張って聞かないので、それまでそばで黙って聞いていた陸が助け舟を出してきた。海に。

「そうしてもらえ。それで沙羅をここまで一緒に連れて帰って来てくれれば俺も助かる」

「ならそれで決まり」

 私の返事を聞かずに勝手に海はそう決めてしまった。

 私が陸を見ていると

「なんだよ」

 なんとなく黙ってどうしようかと考えていると、陸は言った。

「言いたいことがあるなら言え」

 ちょっと逡巡しゅんじゅんしたが私は彼に言った。

「陸も来てくれない?」

 陸も海もちょっと意外だったみたいで二人で同時に私を見た。

「いいけど何で?」

「何か海がいざとなったら一緒に行くって言ってついて来そうだから」

 むっとしている海に陸はちょっとにやっとした。

「いいよ」

「どっかファミレスでも入って二人で待っててくれてもいいよ。それでみんなでご飯一緒に食べてから帰ろうよ」

 陸は私をまじまじと見た。

「おまえたくましいな。とても食欲なんてないかもしれないなんて考えも浮かばないのか。海は今からもう吐きそうな顔してるのに」

「海は当事者中の当事者だし。でも私は本当は部外者だし。それになんか楽しみがないと。せっかくだし四人でどっか遊びに行ってもいいんじゃない?」

「いいけど、通夜みたいなムードに付き合うのは嫌だから、その時に決める」

「それでいいよ」

「まあ、おまえもあまり考えすぎるな」

 笑って陸は海に言っていた。



 で、観念したのか(?)海は自分から白状してきた。

 海の部屋で二人きりになったら、それまで黙りこんでいた海が自分から言い出したのだ。

「ある程度割り切った関係だったけど、でも本当は俺の方がどんどん瑤子にのめり込んでいた。あと何人かで乱交みたいなこともして遊んでいた」

「後出し多すぎだよ」

 あきれて私が言うと、

「ごめん。嫌われるかもと思って言えなかった」

「別にこっちからも訊いてないんだから、謝んなくてもいいけどさ」

 私がそう言うと、海は私をしばらく見つめていた。

「怒んないの?」

「怒って欲しいの?」

「少しは」

「後から腹が立ってくるかもしれないけど、今は何かよくわからない。それよりも、瑤子さんに対しての気持ちが海の方があったのにそれをないみたいに言われていた方が、なんかいや」

「ごめん」

「なんでそんなとこで嘘つくのよ」

「なんとなく」

 私は彼を見つめた。

「瑤子さんが妊娠してこんなことにならなかったら、海は今でも彼女に夢中だったんじゃないの?」

 海は黙っていた。

「答えたくないなら別にそれでもいいけど」

 私がそう言うと、海は私を見つめながら言った。

「わからない。今とあの頃とではこっちの事情も変わって来てるし。どうなっていたかは自分でもわからない」

「そうだね。たらればの話だし」

 正直に言っているんだろうな、と思ったので、この話はもういいか、と思っていたら、海の方から

「神奈が訊きたいことがあるならちゃんと答えるから、何か気になるならちゃんと訊いてほしい。そうでないと俺も答えようがない」

「もう訊いたよ」

「それだけ?」

 私は彼を見つめてちょっと考えた。

 海は、ちゃんと答えるって言ってるし、訊きたいことは訊いたほうがいいんだろうけれど、何を訊いていいのか自分でもよくわからなかった。それで質問を考えた。

「海は本当はどうしたいの? 彼女に気持ちがあるんじゃないの? 私と今こうなっているから彼女のほうに行けないだけなんじゃないの?」

「俺は瑤子との関係は清算したい。今神奈とこうしているからというのもあるかもしれないけれど、でも瑤子と俺の関係は、瑤子が周囲まで巻き込んで俺を無理矢理にでも従わせようとした時点で、本当は終ったんだよ。情が残っているからそこが自分でも曖昧になっていただけ。神奈とこうなって、だんだん自分でも自分が何を考えているのかはっきりしてきたみたいなところがあったけれど、そこは自分でも間違えようがない。それまではそういう支配関係もゲーム感覚で面白がっていたけれど、今回はもうそれを越えていて、シャレにならないレベルで当たり前だけど楽しめるものではなくなっているし、事が大きすぎて親まで巻き込んでいるし、もしこれも今までのゲーム感覚の続きで彼女がしているなら、なおさら無理だ。神奈とこうなっているからっていうのは切り離せないけれど、でも行けないんじゃなくて、行かないだけだよ」

 そう言って彼は私を見た。

「他には?」

「もうない。今はもう思いつかない」

「わかった。じゃあ、今度は俺が訊いていい?」

「いいよ」

「神奈はどうなの? 神奈はどうしたいの? 俺と別れるって話はまだ神奈の中ではそのままあるの?」

 そこからくるとは思わなかったのでちょっと驚いていたけど、自分でも訊かれてみるまで考えなかったのでどうなんだろうか、と考えてしまった。

「どうしたいか、どうなのか、っていうのは自分でもよくわからない。でも、海との関係を清算したいっていうのは、あの時とはまた関係が変わっているから今はないかな」

「変わったってどういうこと?」

 海が私をまっすぐ見て訊いてきたので、私も彼を見つめた。

「海が私を支配したり征服したりすることを続けるのは互いに良くないって思っていたから。海は、仕方なかったのかもしれないけれど、私を力づくで押さえつけてそれで満足して、それを自分の精神安定剤代わりみたいにしていたところがあったから」

 海は明らかにショックを受けたような顔をしていた。

「そんなつもりなかった」

「そうならそれでもいいけど、私にとってはそうだったってこと」

「ごめん」

 なんだか本当にものすごく傷ついたような顔をしていたので、私も少し戸惑った。

「謝ってくれたことは嬉しいけれど、別に責めていないよ。自分でもそうしたかったからそうしていたみたいなところが私にもあったの」

 本当に嫌だったら、海のところには来なかっただろうし。でも私は自分から彼のところに来ていたのだし。

 何となくそう思っていたら、海は私の目の前で泣き出した。

 静かに涙を流しているとかではなくて、本気で思いきり泣いていた。

 びっくりしていたら、海はむせび泣きながら言った。

「本当は、神奈がどんどん痩せていって、元気がなくなっていったの気づいてたし、わかっていたけど、手放したくなかった。自分のものにすれば出て行かないかもしれないって、自分のしたいようにしてもその分大事にすればそれでいいって思っていたんだ」

「もういいよ、海。私も自分でそうしたいからしてたんだし」

「それもわかっててしてたんだ。神奈が俺のために我慢してくれたり、俺のわがままをのんでくれることで、初めて自信がもてたから。神奈が俺のことをちゃんと好きだってわかって安心したから」

 そう言ってごめん、本当に酷いことをした、と嗚咽おえつしながら言った。

 改めてそう言われると、確かにそうだよな、酷いよな、と思ったけれど、怒る気にはなれなかった。何というか、もう自分の中ではとっくに終わったこと、済んでしまったこと、という感じだったのだ。ちょっとは怒った方がいいのかな──何となくそう思っていたけれど、今自分がほんとうに怒っているわけではないので、今後の為にふりでもいいから怒っておくような真似まねもなんかしたくなかった。それに、次はもうない、と自分の中ではっきりしていたのもある。そこまで私もお人好しではないからだったし。結局自分で決めてしていることだから、それを誰かのせいにするのもいやだった。本当に嫌だったら、海のところに来なければいい、本当にそれだけのことだったのだから。

 それでどうしたものか、と思っていた。

 海の手だけ握ってしばらく途方にくれていた。

 陸とも顔を合わせづらいだろうし、と思ってとりあえずタオルを濡らしてきて、顔を拭けるように差し出してみたら、彼は素直に受け取って涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭いていた。ついでにティシュも持ってきたら、鼻もかんでいた。そうしてなんか放心していた。

 プライドが高いやつなのに計らずもこんな醜態しゅうたいをさらしてしまって、なんか魂が抜けたみたいになっていた。

「海、いる?」

 思わずそう訊いてしまったら(ノックもしてみたかったけど、さすがにそれはしなかった)、

「うん」

 と返事した。

「お風呂に入って来たら? すっきりしておいでよ」

「神奈は?」

「海の後で入る」

「わかった」

 素直に浴室へと行った、と思ったら彼は途中で戻って来て

「気が変わって帰ったりするなよ」

「うん、泊ってく」

「わかった」

 今度こそ本当に浴室に行ったようだった。

 ひとりになって何となくほっとしていたら思ったよりどっと疲れが襲ってきた。気分を変えたくてキッチンへコーヒーを淹れに行ったら陸が居た。そして私を見たら、なんとなく気づかうみたいなかおになった。わかりやすすぎる。

「聞こえてたの?」

「うん」

 気まずそうに陸は答えた。

 まあ、そうだろうな、海はむせび泣いてたからな。隣の部屋だし。

「別にケンカしてないから心配しないでいいよ」

 私がそう言ってコーヒーメーカーをセットしていると陸は粉のカンを棚から取って手渡してくれた。お礼を言って粉をフィルターの中に入れていたら陸が訊いてきた。

機能的差異化きのうてきさいかって知ってる?」

「なにそれ?」

「沙羅が言ってたんだけど」

 言ってから、俺の分も淹れといてと言うので陸の分の粉も水もセットした。

「海の状態のこと、以前にちょっと沙羅に話したときに言ってたんだ。海の状態はそれじゃないかって」

「ふーん、で、それって何?」

「差異化っていうのは、感情面で他者とのふれあいを持ちつつも、自らの感情の動きを自律的なものに保っていられる能力のことを言うんだけど、人は十分に差異化できていると、自分の感情を率直に受け入れて反応して、その感情は他の人の期待に合わせたものでもなければ、他の人の期待に抵抗するためのものでもなくなる。自分の感情を抑圧することもなければ、感情のままに衝動的に行動することもないんだ」

「ふーん」

「差異化が十分に達成できていない人は、自己と他者との間に感情的境界が十分に持てていなくて、思考のプロセスが感情的なプロセスに圧倒される事を防ぐための【境界線】を引くことができない。他者の不安を自動的に自分のものとして取り込み、自分の中にもかなりの不安を生じさせる」

「わかる気がするよ。私も海との関係でそうなっていたから」

「で、‟機能的差異化”っていうのは、【他者との関係を基礎にして】機能する能力。たとえば、相手(部下や上司、後輩や先輩、友人、兄弟姉妹、恋人や妻や夫、子供等)が自分の抱えている不安を受け止め、不機嫌や、自律した存在として尊重しない態度や、あるいは虐待的な行動にすら耐えてくれるときにだけ、何がしかの成果を自分であげることができる。相手が自分の求める役割を拒絶すれば、自分は何もできなくなってしまう。強い不安やストレスを自分の問題だとして受け止めて処理できない。条件つきってこと。これが機能的差異化の例。海はここまで極端ではないにしろ、ちょっとそれっぽいだろう」

「そうだね。でもそれってグラデーションはあれど人間がもつものだよね。子供なんかがすごく傷ついている時ってそうだし。特に一時的に何かから身を守るために、そうした状態に退避たいひすることはあり得るんじゃないの? 海はそうだったみたいに思えるけれど」

「うん、で、重要なのが“基本的差異化”。こっちは、他者を機能的に必要としていない。他の人が自分のかわりに精神的な苦労をしなくても自分は自分でちゃんとやっていくことができる。つまり他者の感情にも自分の感情にも率直でありながら、なおかつ人とのつながりをもてる状態。‟基本的差異化”を十分達成していれば自律した存在として個として在ることが自然な状態なわけ。そのまま関係性をもつことができる。成熟した状態でバランスが取れている状態」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、その基本的差異化を達成していくことで、たとえば機能的差異化が病的なパターンになった状態からでも脱していく可能性があるってことだよね」

「そうだな。でも、それが自分にとって本当に問題であるって思わないと、そうしてそのアンバランスな関係の状態から自分で目覚めないと、他者の犠牲の上に自分を成り立たせているっていう甘い汁の構造を自分からはなかなか手離したがらないかもな。そうした支配構造を維持したがるだろうし。他者の問題って思っている内は、自分以外のものを犠牲にして次々と食い物にして貪っていくだけだろう」

「そうだね、そうかも。吸血ゾンビの病だね」

「なんだそれ?」

「前にそんな話を葉月はづきとしたことがあったの思い出して」

「うまいたとえだな」

 ちょっと陸は笑った。

「まだ海が吸血鬼になるかもって思ってる?」

「いや、浮上しかかってるみたいに見える」

「そう、ならいいよ」

 陸はじっと私を見ていた。

「なに?」

「もう一つ、沙羅が言っていたことを思い出して」

「なに?」

「沙羅はこんなことを言ってた。俺たち四人はちょうど魂の仲間とか友達みたいなものなんだって。本当に成長したいと望む魂には仲間や友達が必要で、医者とか牧師とか神仏の代理人みたいなものなんかよりもずっと必要なものなんだってさ。魂の巡礼仲間、って言い方していた。魂の仲間は、相手の魂を支配したり操作したいっていう誘惑に打ちつことのできる本当の仲間なんだって」

「へえ」

 ちょっと惹き付けられて聴き入ってしまった。

「だから今はちょっと良くない状態にあるように見えても二人とも全然大丈夫だよ、って笑ってたんだ」

 言って陸は私をじっと見た。

「俺は俺でそう思いたいけれど、海もおまえも大事だし内心はらはらしていたんだけど、何か沙羅に言われた通りにいつの間にかなって来ていたから、心配しなくても大丈夫そうなのかなって思ってたんだ」

 なんとなく私は、あまり心配しなくてもいい、深刻になるな、というような太鼓判? をどこからかもらったような気がして、陸にお礼を言った。

「何か気楽になってきた。ありがとう」

「そうか」

「もっと楽しめって言われたみたいな気がしてきた」

 陸はまじまじと私を見た。

「おまえってけっこう図太いな」

「何か気にいらない物言いだけど、まあゆるしてあげるよ」

「じゃあ、たくましい、に言い換える。とにかく心配しなくてもよさそうだ」

「ありがと」

 それで私と陸はキッチンでコーヒーを飲みながら、しばらく色々としゃべっていた。沙羅のことも他にも色々陸から聞かされたので、旅行の帰りの電車の中で沙羅から聞いた話を私の方からも少し陸にしてみた。だいたい知っていたみたいだったけれど、そこまでヘビーな話だとは知らなかった、とも言っていた。

 なんとなくこれはバトンリレーかな、と思って

「沙羅をよろしく」

 と言ったら、陸は神妙な顔でうなづいていた。

 そのうち海がお風呂から出てきたので、三人で少し喋って、差異化についての話なんかをまた陸は私たちに再度して海は興味深そうに聴いていた。私は途中で抜けてお風呂に行ったけど、出てきても二人はまだキッチンで話し込んでいた。

「まだ話してたの」

 私が水をとりにキッチンへ入って行くと、二人は顔を上げた。海は私を見つめている。陸は私と海を交互に見て言った。

「そろそろ寝ようかと思ってたところ」

 そして冷蔵庫から水のペットボトルを出して私に投げてよこした。

「私はもう眠いから先に部屋に戻っているよ」

 陸にお礼を言ってから、私は二人の邪魔をしないように海の部屋に退散した。

 しばらくして海が部屋に入って来てベッドにすべりこんだ。

「眠ってる?」

 うとうとしていた私は目をつむったまま返事だけした。

「起きてる」

 海は私を自分の胸に押しつけるようにしてきつく抱きしめてきた。私は彼の心臓の音を聞きながら、温かい彼のにおいに包まれてうっとりと眠りに落ちていった。




 日曜日の午後に瑤子さんの家で会うことになった。

 当日海と陸に送られて私と沙羅は彼女の家に行った。海と陸とはちょっと離れたところで別れ、二人は近くにあるレストランで待っているということになった。

 沙羅と二人で瑤子さんの家まで並んで歩いている途中、沙羅は隣で気楽にハミングをしていて、私も特に緊張したりしていなかった。DIAMONDS ARE GIRL'S BEST FRIEND のフレーズを彼女はさっきから歌っているのだけれど、なんというか、S(daemon:①守護神=daimon/demon ②ダイモン[ギリシャ神話:人間と神の中間の霊である半神半人]=daimon/demon ③デーモン[ある条件が成立したときにバックグラウンドで実行されるプログラム])ARE GIRL'S BEST FRIEND と聞こえる、というか、そう歌っている。絶対そう。なんとなく一抹の不安を覚えた私は瑠偉ちゃんの家で見せられた沙羅の昔の写真を思い出していた。

「そういえば、ヘヴィメタ大好き少女だったころの仲間内で沙羅にあだ名とかあったの?」

 私が何となく訊くと、沙羅はにこっとして言った。

「サリーちゃんって呼ばれてたよ」

 あの姿のわりには可愛い呼び名だったので、何かホッとしたりして。デス・メタル・沙羅とかデーモン・沙羅とかそんなプロレスラーまがいの名前を想像していた私も私だけど。

「へえ、そうか」

「私は今でも好きだからけっこう聞くんだけど、陸がいやがるんだよね」

「ああ」

 今の清楚せいそなお嬢さま風の沙羅からはなんかかけ離れた感じがするものなあ。

「昔の写真見せたらびびってしまって、それ以来音楽聞くだけでもいやがるの」

「見せたの!?」

 私が訊くと、

「うん。陸はしばらく固まってた」

 けろっとして沙羅は言っていた。



 綺麗きれいでおしゃれなマンションの一室で私たちは向かい合っていた。目の前では瑤子さんが出してくれた紅茶が香りのよい湯気を立てていた。

「どうぞ。これ、海も気に入ってたの」

 きちんとお化粧した美しい顔で微笑む彼女に私と沙羅はお礼を言ってそれぞれにカップを手に取った。

 結論から言うと、私は来たことを早速さっそく後悔していた。

 彼女を一目見た時に、ああ、と思ったのだ。

 海が彼女に夢中になったのはわかる。彼女はどことなく海と陸のお母さんに雰囲気が似ているのだ。華やかで勝気そうであまり生活感がない感じ。男の子にとっては永遠の女性だものなあ、そりゃあ、のめり込むだろうよ、となんとなくこころの中で思っていた。仕事で家をけることが多くて、ほとんど一緒に過ごせない、美しい母親。子供の頃に熱を出して寝込んでいても家政婦さん任せでそばにいてくれない、華やかで美しい女性。その面影に恋い焦がれる気持ちも分かる気がするかなあ、と嫉妬以前に妙にせつなくなってしまった。その時点で私はもうなんかすっかり帰りたくなった。けれど、実際にはまだ何も話が始まっていないので、仕方ないので黙って紅茶をすすっていた。

 手土産に持ってきた果物も一緒に私たちに出してくれていたので、紅茶をすすったり果物に手を伸ばしたりしながら、早く本題に入ってくれないかなあ、と思っていた。さっきから世間話みたいなものが続いている。そこからちくちくととげを感じるような話だったけど。

 しびれをきらした沙羅が

「神奈に何かお話があったのでは?」

 と切り出すと、私たちの目の前で彼女は少し黙った。

 そうしてすごく遠回りにだけど、お腹の子供のためにも父親がいたほうがいいので、海とは私の方から別れてほしい、ということを言われた。女性的な迂遠うえんな言いまわしのために、初め何を言っているのかよくわからなかったけれど、要はそういうことだ、というのがわかってからは、テーマは同じで言葉や表現が違う、という感じで抒情的にほとんど同じことを言われていたので、

「お話はわかりました」

 と私はそろそろ暇乞いとまごいをしようと話を切り上げるように言った。

「そう、わかってくれたのね」

 微笑む彼女に私は、ばか正直にも一応訂正しておいた。

「あの、お話の内容はわかりました、という意味で言いました」

 彼女はちょっとむっとしていたが、

「考えておいてね」

 と優雅に言った。

 何と言うか、彼女と一緒に居たら、私なんてそこらへんに転がっている(?)男の子たちとあまり変わらないんじゃないかみたいな、女性としては全く比べものにならならない感じ。彼女からは仕草から言葉づかいからその全てにおいて、女性であることの印象が華の蜜の香りのように甘く優雅に漂っている。お腹は今大きいのでマタニティドレスを着ているけれど、それでもセクシーさはなくしてないし、きれいにお化粧しているし、そんな彼女からどんなに優しい言葉づかいで話されていても通奏低音のように敵認定されているのがわかり、私はなんか閉口していた。

 そもそも闘うつもりはなかったのだけれど、あまりに生きる場所や考え方が違い過ぎて、闘うことやこうして話していること自体に意味がない気がしたのだ。

「それでは」

 と立ち上がりかけたとき、沙羅が彼女に訊いた。

「これは同じ女性としての質問なのですが、お子さんの為、とおっしゃるなら、何故そのことを第一にしないんですか?」

 瑤子さんは沙羅をじっと見つめた。

「しているつもりだけれど?」

 目がしっかりすわっている。美人が怒ると迫力があるな、と何となく他人事のように思っていた。

「無理に人を動かそうとするよりも、自分が子供を持つこと、母親になることに集中して自分でやるべきことが他にもたくさんあるんじゃないんですか?」

 沙羅は普段とそんなに表情は変わらないものの、真っ向から彼女をしっかり見えてずけずけとそう言っていた。

 ちょっとー、陸の嘘つきー。

 何故か突然ここにきてゴングがカーンと高らかに鳴り響き、喧嘩上等けんかじょうとうでバトりだした沙羅と瑤子さんを私はただ見守っていた。

 何が沙羅は余計な口出しするやつじゃない、だよ、私を差し置いてめっちゃ戦闘態勢に入ってるじゃん!

 というかなんだこれ。

 私はどうすればいいんだ。

「あなた、ずいぶんと失礼な言い方じゃない?」

 目は坐っているけれど基本的に優雅さは忘れない口調で瑤子さんは沙羅に言った。

すでに去ろうとしている男に子供を盾に結婚を迫るなんて、子供のこと、本当に考えているとは思えない。子供を道具にしているだけじゃないの? そうされる子供の気持ちは考えないの?」

 更にずけずけと沙羅は言っていた。

「何であなたにそんなことを言われないといけないのかしら」

「そんなことを言うのなら、あんただって神奈に筋合いのないことを言ってるじゃん」

 あ、言葉づかいが、と何となく思っている内に、沙羅はたたみかけるように彼女に言い出した。

「子供を道具にして、人の意思も関係なく都合よく無理やりに動かそうとして、そんなことされたら、子供は将来自分のせいでそうなったって責任感じないといけないかもしれないじゃん。自分さえいなければ、って思うかもしれないじゃん。無理強いの道具にされて使われるってそういうことだよ。子供を道具として使いものにする親なんて子供にとっては有害でしかないよ。そんな人間にゆりかごから墓場までつきまとわれたら子供にしたら最悪だし。そんな親いないほうがいいし」

 なんか沙羅は不動のまま静かに物凄く怒っていて、それがどんどんヒートアップしているようだった。声がどんどん低くなって凄味が出て来て、地獄の底から響くみたいな物凄い怒りの声で次々に怨嗟えんさの言葉を繰り出していた。

「子供の為とか言いながら自分の都合のために子供をすきに使ってもいいって思ってんでしょ? どうせ子供には何もわからないからって。自分の所有物だからって。そうやって人の意思も何もかも自分の都合の為に犠牲にしても許されるし、ばれないって思ってんだろう? 自分が被害者づらしていれば周りはそれを受けれるし許すって思ってんだろう? 今までもそれが通ってきたから、周りはバカばっかりで簡単に操れるしだませるって、高をくくってんだろう? それで思い通りにならないなら嫌がらせでも何でもして相手を追い詰めてでも自分の思い通りにしてもいいって思ってるんだろう? 自分の思う通りにするために相手に毒を飲ませてもおとしいれても自分はたいしたことしてないって思ってるし、せいぜいちょっとした可愛い嫌がらせ、くらいにしか思ってないんだろう? あんたみたいな人間をよく知っているし、うんと近くで見てきたから、わかるんだよ。どんなに上品そうに優し気に振る舞ってても、正論じみたこと言ってても、実際にやっていることは強欲非道で、人を陥れることを何とも思っていない。利用してもいいって思ってる。いつまでもそれが通ると思ったら大間違いだ」

 瑤子さんは口を引き結んで沙羅をにらみつけていたが、私と沙羅に向かってきっぱりと言った。

「帰って。出て行って」

「あたりまえじゃん、帰るよ。こんなところまでわざわざ来たってのに、くだらない三文芝居しちゃって。そんなのもう通じないんだよ、いいかげんわかればいいのに」

 捨て台詞を吐いて、沙羅は私の手をつかんで

「行こ、神奈」

 と言ってつんっと顔を上げてそこをさっさと後にした。



 レストランで待つ海と陸のところに行くと、同時に二人は顔を上げて私たちを見た。

 沙羅と私は仲良く手をつないでいて、沙羅が先導するようにして私たちは二人の席に行った。

「どんな話だった?」

 海に訊かれて私は簡潔に答えた。

「子供の為にも私から海と別れてほしいって」

「それだけ?」

「うん」

 迂遠うえんな表現の多バージョンで結局は同じことを言われただけなので、私はそう答えた。

「おなかすいちゃった。早く何か注文しようよ♪」

 席について早々沙羅は機嫌よくメニュー表を開いて見ている。 

 陸は沙羅と一緒に仲良く料理を選び出した。

「他には何も? 大丈夫だったのか?」

 海が私を気づかうように見ているので

「何もと言うか、大丈夫は大丈夫。気づいたら沙羅が何故か守護神召喚しょうかんしてて守ってくれてたみたいな感じ?」

「なんだよそれ」

「そのまんまだよ」

 陸は目を上げて、私と目が合うとにやっとした。

 こいつ──

 私は海に簡潔に事の顛末てんまつを話した。何故か沙羅と瑤子さんがバトルを始め出してそのまま成り行きで話は決裂して終わった、と。

 陸はにやにやしながら私に言った。

「沙羅の昔のあだ名おしえてやろうか? 突撃ちゃん、だぞ?」

「意味はそうだけど、呼び名はサリーちゃん」

 と沙羅は訂正していた。

「ラテン語だと、び出す、って意味なの」

 なんというか、

「ぴったりだね」

 私がそう素直な感想を述べると沙羅はにこっとして

「けっこう気に入ってるんだよね」

 と機嫌よく答えていた。



 自分にとって必要性を感じないもの、無駄だとか意味を感じないもの、不毛なものごとに関することでの苦痛やわずらわしさは、そのまま無駄なもの、意味のないもの、必要のない不毛なものだと思われるので、あっさりて去ればいいのではないか。そのようなものごとに自分の時間とエネルギーを使いたくない、そう思うのであれば、まともに関わり合わずにそこからさっさと逃げればいい。棄て去ればいい。

 それが自分にとって必要なもの、意味の在るものであれば、その痛みも苦しみも自分で引き受けていく覚悟はできるだろうし、それをやしにしていくだろうけれど、ただただ消耗するだけの痛みや苦しみにつきあわねばならないなんて、思い込みでしかないと思う。

 ばかじゃないの、ってひと言で終わらせて捨ててしまえばいいのに──

 逃げるのが賢い場合もあれば、逃げている場合ではないときもある、それだけのことなのに、何で状況もちゃんと識別せずに、他者の価値観に沿ってしまうんだろう。自分にとって必要か、適切か、本当はそれだけのことなのに。何にでも一律に適応すればいい、というふうにでも思っているんだろうか? それが正しいというような思い込みでもあるのだろうか?

 何となくそう思いながら、私は映画を観ていた。それはよくあるような人間関係のメロドラマ仕立てで、延々とおまえはマゾなのか? みたいな状況に自分からハマり続けて、力いっぱい悲劇のヒロインをしている主人公にもそれを盛り上げている周囲にも少々うんざりして退屈していた。

「ねえ、もうこれいいよね。面白くない」

 海と陸はもともとそんなに集中して観ていたわけでもなかったので

「別にいいよ」

 私も頷いた。

 沙羅がタイトルを気に入ったというだけで選んだ映画のDVDだったので、自分でさっさとリモコンで止めて、ディスクを取り出していた。

 私たち四人はマンションに帰ってから夕ご飯を一緒に作って食べながら借りてきたDVDを観ていたのだが、不発だったようだ。陸は別のDVDをセットしていた。

「アイスが食べたい。買いに行かない?」

 そう言って沙羅が私を見たので私は言った。

「いいよ」

 海と陸にリクエストを訊いて沙羅は私を促してマンションを出た。

 月も星も明るく輝いている夜だった。雨上がりで空気が澄んでいて空がきれいだった。

「きもちいいね」

「ほんと。二人も誘えばよかったね」

 言いながら二人で近くのコンビニまでの道をおしゃべりしながら歩いていたら、

「神奈には触媒しょくばいみたいな役割があるんだよ」

 ふいに沙羅がそう言った。

 そして私を見た。

「陸から聞いているんでしょう?」

「何を?」

「魂の巡礼仲間」

「ああ」

 沙羅は途中にある公園に目をやって言った。

「ちょっと寄ってこうよ」

 私たちは公園のブランコの前の手すりに並んで座った。

 星がきれいで、とても空気が澄んでいた。綺麗きれいだな、と思いながら何となく空を見ていたら、沙羅が前置きするように言った。

「ちょっと奇妙な話かもしれないんだけど」

「大丈夫。わかるよ。気にしないで。そういう話、他にもする人がいるから」

 私がそう言うと、沙羅は私を見てにこっとした。

「知ってる。神奈には強力なガイド役がついているし、私たちも神奈を通してそのガイドを必要としている」

 私がちょっと驚いていたら、沙羅は言った。

「神奈自身も変化するから厳密には触媒とは言えないかもしれないけれど、役割としてはそうとしか言えないものなんだよね。化学変化のスピードを速めたり遅らせたりするでしょう、触媒って。そんな感じで変化の進みぐあいに貢献するんだよ。だから、色々と奇妙で不可思議な出来事に巻き込まれたり、その渦中にいたりすることがあるかもしれないけれど、あまり自分のことをくよくよ考えたり、罪の意識みたいなものを持つ必要なんかないし、神奈は神奈の生きていきたい道を歩いていいんだよ。その時に自分でもわからなくても、後になってわかることもある。魂の巡礼仲間っていうのは、自分自身をさらけ出す危険を冒しても進むことに挑戦する、自律性や超越性を持っているひとたちのことをいうの。そして相手の魂を支配したり操作したいっていう誘惑、偶像ピグマリオンを演じたい誘惑に打ちって、真のガイド役になるひとたちのことをいうの。私たちはその途上にあって互いに協力し合っている。罪の意識に縛られて頭を垂れてひざまずいて祈り続けるんじゃなくて、謙虚さや謙譲の心を尊ぶがためにどんどん自分を低くしていくのでもなくて、ただいつも等身大で自分の歩いて行きたい道を楽しんで歩いて行ったらいいだけなんだよ。大きく見せる必要も小さく見せる必要もない。権威への反抗やプライドを悪しきものとするような、支配することでの既得権益きとくけんえき既存きぞんの様式にしがみつく人たちの言葉に必要以上に耳を貸すことなんてないし、それに、罪というものがもしあるとしたら、それは自分の真実を尊重しないことや、自分自身の真実のために立ち上がらないことや、創造性のある仕事に自分の時間やエネルギーを注がないことのほうなんだから」

「面白いこと言うね」

「でもわかるでしょ」

「うん」

「神奈は神奈の好きな道を歩いていいんだよ。私たちは仲間だけど、だからこそみんなそれぞれの道を歩く」

 そう言って沙羅は手すりからぴょんと飛び降りて、私を見て笑った。

「アイス買いに行こうか」

「うん。二人が待っているしね」



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