第5話
性に関する関心はそれ自体でも成立するけれど、それは相手あってのもの。お互いの在り方次第では最低なものにも最高なものにもなる可能性があるのかも。最低なものや最高なものがどんなものか知らないけれど、結局はコミュニケーションなので、とりあえずは、人の心の暗闇にどんどん引きずり込んで支配したり征服していくようなものばかりではない、もっと別の可能性があるってわかっただけでもよかったかも。
そんなわけで海との関係は保留のまま継続されて、その話を蒸し返すようなことは互いにしなかった。一度だけ海に
海の部屋のベッドで彼に借りた本を読んでいたときのことだった。隣で海は私の髪を弄んでいた。本の後ろに何か挟んであるのに気づいて私は何気なくそこを開いて見た。名刺が挟んであったので、彼に
「これ、邪魔なんだけど、必要な物?」
と尋ねた。
海は私の手の中にある本を
何かあるな(女のカンとはこういうものらしい)と思って彼を見ていたら
「捨てていいよ」
と海は言って私の頭にキスした。
その名刺は男性の名前のものだったし、裏側に携帯電話の番号らしい数字が手書きで書かれている以外特に変わったものではなかった。有名な企業のそれなりの役職者の名刺だった。
「そう」
言いながら私は何となくそれは捨てずにそのまま挟んで置いた。そして海の顔をなんとなくじっと見ていたら、海はちょっと気まずそうにしたので、やっぱりなんかある、と確信して
「何でそんな気まずそうにしてるの」
と訊いてみた。
「そんな怖い顔するなよ」
「もともとこういう顔だよ」
別に怒ってないのに怖い顔扱いされて、私はちょっとむっとしていた。
海は黙りこんで私をしばらく見つめていたけれど、その内にちょっとむすっとして言った。
「それは
瑤子、とは海が妊娠させたという年上の彼女のことだった。
名前だけは知っていたので、私がそれに反応したのをじっと見ていた海は
「神奈が知りたいなら話すけど、知りたくないなら俺も今ここでそんな話、したくない」
聞きたくないし知りたくもなかったけれど、こうして何か事情を秘めたような物が出てきて、それを目にした以上は気になった。何となく、訊け、と私の中の何かが告げていた。私は海に言った。
「知りたいから話して」
海はため息をついてから、私の手元にある閉じた本に目をやった。
「瑤子にはもうずっと長くつき合っている彼氏がいて、その相手とは不倫関係だったみたいだ。その男から俺に連絡があって、何かと思って会ったら手切れ金みたいなものを用意されていて、瑤子と別れろって言われた。相手が瑤子の彼氏だと知らずに会ったから、突然の申し出に頭にきて席を立とうとしたんだけど、向こうがこの名刺を押しつけるように俺に渡して、瑤子と別れてくれるならもう少し用意してもいいから連絡をくれって言って去って行った。そのままその本に挟んだまま忘れていた」
私が海を見ていると、彼はちょっと怒ったように言った。
「瑤子と俺の関係は、それなりに恋愛関係だったけれど、もうちょっと割り切った関係だった。互いにゲーム感覚で楽しんでいたんだよ。瑤子の彼氏の突然の申し出が失礼なものだったから頭に来ただけ」
「瑤子さんの気持ちが本当に海に傾いていたからその人はそう言ってきたんじゃないの?」
「何が言いたいんだよ」
「割り切った関係って思っていたのは海だけだったんじゃないの?」
「違うね。瑤子はもっと女王気質っていうか、どっちかというと俺を弄んで面白がっているようなところがあったし。俺もそれを面白がってたし。そういうゲームだったんだよ。だから今回こんな風に瑤子が俺との子供を妊娠したことを盾に結婚を迫るなんて、本来ならあり得ないことだったんだよ。だいたい、本当に俺の子かどうかだって怪しいんだし」
私が海を黙って見ていると、海は怒った。
私を
「何だよ。軽蔑したの?」
「違う。そう思うなら、何でそう彼女に言わないの?」
「言えるわけないだろう。向こうの親もこっちの親も一緒になって責任取れって言ってんのに責任逃れするみたいにそんなこと言ったら、余計に逆上されるかもしれないし。向こうは妊娠中だからあまり精神的に追い詰めるわけにいかないし」
「でも、それって感情の問題と別問題じゃないの?」
「何が言いたいんだよ」
「彼女や周囲の心情に配慮して逆上させないようにするのはわかるけれど、海の子供かどうかっていうのは根本的に別問題でしょう。それはそれできちんと確認しないといけないんじゃないの? それを要求すること自体が心情への
「でも実際にそんなことを言ったら、相手は何するかわかんないんだぞ。妊娠中で不安定になってるのか知らないけれど、俺の知っている瑤子じゃないみたいなんだよ。まともに話が通じないしできないんだよ」
「そうじゃなくて、海の言うとおりに認知するにしろ、彼女や周囲の言うとおりに責任をとって入籍するにしろ、その前提条件として確認を要求するのって当然の権利でしょう? 何でそうしないの。周りにどう思われるとかはこの場合は関係ないでしょう。こっちは単に手続き上の問題でしょう」
海はちょっと黙った。
そして言った。
「そうだな」
「弁護士さんに頼めばいいことなんじゃないの?」
海は私を見て言った。
「神奈は俺がそうしても軽蔑したりしない?」
「しないよ。というより、誰がどう思うとか関係ないでしょう。海の問題なんだよ?」
海は黙って私を見ていた。
それからむすっとして言った。
「みんなからこっちの事情もお構いなしに四六時中責め立てられていたら、そんな簡単に思えなかったんだよ。それに自分の大切な相手からも軽蔑されるかもしれないって思ったら怖かったし」
「しっかりしてよ、海。あなたはもっと冷静な人だったでしょう? 私を助けてくれたときは、あなたはちゃんと問題に対して冷静だったよ。感情と対処を混同したりしていなかった。いつの間にか相手や周囲の感情に巻き込まれて、海の優しさや思いやりや感情につけこまれて混乱しているんじゃないの? それに誰がどう思おうと海自身の問題がそれに左右されるのはおかしいでしょう。そんなの本当はその問題に関係ないんだから」
海は私をじっと見ていた。
「俺には関係なくなんかなかったんだよ」
「私は軽蔑したりしないし、海の問題に対して私の感情を挟むことはしないよ。それにそんなことされたくない。私をあなたの問題に無理に巻き込まないで」
海は私を見つめていた。
「何?」
「何か複雑だな。でも、少し肩の荷が下りたのは事実だし」
「そうなら、それでいいんじゃないの」
「うん」
「自分でややこしくしてどうすんのよ」
海はちょっとむっとしていた。
「おまえって生意気。可愛くない」
「そんなの今さら知ったことじゃないでしょうよ」
海が更にむかっとしたのがわかったので、私もむっとした。
しばらくにらみ合ったけれど、海の方が先に折れた。
「やめよう、何で俺たちがケンカしないとなんないんだよ」
自分からケンカ売ったくせに、と思ったけど黙っていたら、海は私の頬にキスして自分に抱き寄せた。
「可愛くないとこも可愛い。それでいい?」
「どっちよ」
「どっちも」
聖一さんとの関係はそれほど進展するわけでもなく、ふと気づいたらスキンシップを取っているくらいな感じでしかなかったので、微妙な同時進行ではあったけれども何となくそうなっていたという感じに近かった。そうしようと思ってそうなったわけではないし、いつのまにかそうなっていた。その流れの中にただいる。私としてはそんな感じでしかなかったので彼に対しての感情もそれほど進展することもなく、なんとなく彼といる時間はただ静かに流れていくように感じた。ただそうしていることが自然な感じ。それだけ。でもそれは居心地が良かった。
面白い人に会ったとか沙羅から聞いた話とかそんなことを色々私が話している間、彼はそれを面白そうに聴いていて、たまに相変わらずの不思議なことをぽんと言ったり、真面目な顔で何かものすごく面白いことを言ったりした。カンのようなものがいいひとなので、それは前後の脈絡なくとうとつに飛躍しているように見えて、実は地下水脈でしっかり
彼としているようなやり取りは他の誰ともできないような不思議なものだったので、私がどうしようもなく惹き付けられているのはその彼としか分ち合えないような不思議な雰囲気や時間や空間の感じだった。ここでは時間の進み方や空間の感触すら不思議で自由に伸びたり縮んだりするみたいに感じる。ただそう感じるというだけで、実際に空間が伸びてるとか縮んでいるとかではないけれども(そんな面白い場所があったら是非行ってみたい)そうとしか感じられないような、そんな不思議な感覚。彼と話していると、いつの間にか心ごとさらって
沙羅の話をした後に彼はこんなことを言っていた。
「
「でも、なんだかそのしがらみにいつまでも関わってそこから何かを学ぶべきだみたいな考え方もあるよね。それが修行だみたいな。私はそんなの自分がそうしたくなければしなきゃいいだけじゃんって思うけど、でもそれが正しいみたいに、そうするべきだみたいに思っている人もけっこう
「そういうことにしたほうが都合がいい人もいるからでしょう」
「あ、そうか」
「本来のその人自身の魂の道へ移行することに拓かれていくってことは、
「なるほど」
私はちょっと考えてから彼に尋ねた。
「結局はそれを
言いたいことを言う人はそうしたいからそうしているだけ。
それは何度も見てきた事だった。
「そう。そんなことに
そう言ってから彼は付け足すように言った。
「それにその彼女の家族の問題って、僕が
「そうなの?」
「うん、たぶんそうだと思う」
「じゃあ沙羅はちゃんと自分で正しい道を選んで行っているってことでいいんだよね」
「そう」
なんとなくほっとしていたら、彼は言った。
「その問題を作り出した段階と同じ知性の段階や在り方では解決できない種類の問題で、そういう種類のエネルギーもあるんだよ。従来の在り方やその知性の段階を超えていかないと解決できない種類のものだと思う。どちらにしろ彼女は自分でそこを出て従来の在り方を超えていったことでそういう種類のエネルギーにも対処できるようになると思うよ。別に必ずしもそれに関わってそうしなきゃいけないということでもないけれど」
何の話からそうなったのかもう覚えていないけれど、彼に言われた話で印象深かったものがある。
──トラブルを避けるのではなく、それは避けようがないものだと覚悟を決めること。なんとかしてそれを避けようとしても結局は向こうからどんどん仕掛けてきて
争うことを避けようとするあまり、自らがもうずっと争いの渦中に居ながらも手足を縛られて好き放題に弄ばれている事実から目を背けていては、そこから脱け出すことは難しい。
争いなさいと言っているのではなく、それを避けようとすること自体が不毛な争いを継続させている事実に目を向けることを言っている。
そこからどのようにして脱け出していくのかは、その人次第。それぞれの対処の仕方次第。
自分自身の手足を縛っているその手枷足枷にまず自分自身で気づいて、そこから脱け出すこと。
自分自身のために立ち上がることに対して手枷足枷をかけられているのであれば、それをまず解いていくこと。
自律した存在である自分自身の真実を尊んでいくこと、祝福していくこと、そこからしか本当の平和や自由、平等、公平性、真実性は育まれない。
自分自身の真実性を祝福しないものは、他者の真実性を祝福もしない。
自分自身の真実を歪めるものは、他者の真実も歪める。
これは真理。
結局は私たちは自分で自分自身を扱うようにしか他者を扱うことができない。他者に対して過酷に不平等に扱う利己主義の塊のような人ですら、自分自身の部分をそのように扱っているからそのように他者にもそうしている。つまり自分自身が分裂し断絶し抑圧されているほど、その傾向は強くなるし、他者にとっても危険な存在にもなる、ということ。環境や周囲にとっての脅威になるということ。
真実の平和や公平性、環境の適切なバランスを守ることを目指すのであれば、先ず自分自身の平和や公平性、バランスの実現を目指す必要がある、ということ──
それはなんとなく私の心の奥深くにこだまして響いた。その残響がいつまでも残っていたような感じだった。そのときに私自身は特に何かこれといったトラブルや争いごとを抱えていたわけではないけれども、でも彼の話はたいてい心構えを促しておく意味もあったので、自分でも意識して心に留めておいた。
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