第3話

 その日は土曜日で、私は湖がある方の聖一せいいちさんの家に来ていた。黙々と互いの仕事をこなし、たまに彼が休憩に誘うときに、一緒に散歩に出たり、おやつにしたり、一緒に食事を作ってとったりした。彼は基本的に器用で、料理も上手だったので私はお手伝い専門。ほとんど片づけものなどを担当した。料理の手順って実は頭を使う。彼が効率よく段取りを組んでささっと仕事をこなしていくのはもはや芸術的というか、私は彼の手際てぎわの良さによくほれぼれとした。感心しながらそのそばでアシスタントのように雑用をこなして手伝うのも楽しみでもあった。ほぼ行き当たりばったり俺流の私にはとても真似まねできないし、真似しようとも思わないけれど、見ているのは純粋に楽しかったのだ。その彼の品のよい流儀りゅうぎの一連の動作の流れのなかのはじっこに自分も少し加わって手伝うのも楽しかった。それはダンスみたいだ。流れや動作がある程度決まっていて、彼のリズムに合わせて一緒に動く。踊る。たまに即興が入る。それが思いの外うまくノレばそのまま即興から新しい流れが生まれる。そして美味しくて素敵なものがいつの間にか出来上がる。

 彼はどこまでも冷徹な論理と豊かな感性の両方をうまく使いこなす天才的なバランスの良さがある人だと思う。それが彼のどこか独特で上品な流儀や所作としてすべてに表現されているように見えた。そして、私はそれをもはや一種のアートのようだ、と思わず感心しつつ見とれてしまう。その人が生きているということ自体、その生命が生きていること自体、本当はみんなそうなのかも。その人流のアート。その生命自体のアート。世界は本当はそんなもので埋め尽くされている。

 たまにぼうっとしてそんなとりとめもないことを考えていると、聖一さんは私をじっと見ていて、目が合うとにこっとした。

 うまく説明できないけれども、私の変わり者性(?)を彼は良きもの、祝福すべきものとして、見守り育もうとしているみたいなところがあったので、私は彼のそばにいると、自分のとりとめもなく飛躍しがちな感受性を伸び伸びと解放するようにして過ごすことができた。それはとても心地のよいものだった。不思議なリフレッシュ時空を泳ぐようなもの。



 少し遅めの昼食を食べて、陽射しが入るぽかぽかとあたたかい室内に気持ち良くなってしまい、集中しようと意識を保とうと必死になっても、どうしても眠気が襲ってきて困っていた。濃いコーヒーを淹れて飲みながらなんとか目の前の仕事に向き合おうとしては、うとうとっと一瞬の眠りに入る、そしてハッと目覚める、ということを繰り返していた。そのうち、少し離れたところに居た聖一さんが、くくくっと肩を震わせて声を殺して笑っているのに気づいた。

 私が気まずい恥ずかしさでむっと口を引き結ぶと、彼はもう我慢できない、というように大きく笑いながら言った。

「お昼寝してきてもいいよ。空いてる客室があるからどこでも好きなところ使って」

「でもお仕事中だし」

 そうしたら彼はもうたまらない、というように明るい声であはははと笑い出し、

「だってその仕事中に、しかも雇い主の目の前で、君、居眠りしかけてるんだよ。何度も!!」

 そう言って、真っ赤になっている私を見て、また笑い転げた。

 実は笑い上戸なんだよね、聖一さんって。

 私は目の前で笑い転げている彼を眺めながら、どうしようかなと考えていた。お言葉に甘えて少しお昼寝休憩をさせてもらおうかな。図々しいかな? でもさっきからどうしようもない眠気の急襲と闘いながら何度も負けかけていたので、ここは素直に少し休ませてもらった方がいい気がした。どっちにしろこんな状態では仕事にならないではないか。

「遠慮しないでいいよ。もともと都合のいいときに手伝ってもらえばいい、ってことで神奈かんなちゃんにアルバイトを頼んだんだし。そんなに無理してくれなくても大丈夫」

 笑いながら彼は立ち上がって、私の手を引いて個室のひとつの前に連れて行ってドアを開けてくれた。ゲストルームらしいそこはベッドとサイドテーブルだけがある簡素な部屋だった。出窓が少し開いていてレースのカーテンがひらひら揺れて、陽射しに透けてきらきら光っていた。

「好きなだけ休んでいていいよ」

 そう言って彼は私をその部屋の中に入るように促し、私の頭をぽんぽんと軽く叩いて、笑って去って行った。部屋に一人残された私は、そのままベッドに倒れ込むようにしてすぐに眠り込んだ。とにかく眠くて眠くてしかたなかったので、実はとてもありがたかったのだ。

 開いた窓から入る風が、どこからか花の香りのようないいにおいを運んできていた。

 私はうっとりと気持ちの良い午後の眠りに自分を委ねた。

 

 目が覚めたら窓の外が真っ暗になっていて、びっくりした。少し室内はひんやりしていた。開いた窓から冷えた風が入ってきていたのだ。私は起き上がって、思いきり眠ってしまったらしいことに今更あせった。今何時なんだろう。室内に時計はなかったので、そろそろとベッドから起き出してその部屋から出てリビングに行くと、聖一さんは黙々とノートパソコンに向かっていた。

「あ、起きたの」

 私に気づいた彼が顔を上げて微笑んだ。

「ごめんなさい。思いっきり眠ってしまった」

「いいよ、気にしないで。疲れていたんじゃない?」

 そう言ってから、彼はちょっと待っててね、と私に言って切りのいいところまで仕事に戻ったようなので、私は暖炉の上にある置き時計に目をやった。なんと夜九時をまわろうとしているではないか。どんだけ眠ってたんだ、私。さすがに自分でも驚いていたら、聖一さんが立ち上がって私のそばに来た。

「ちょっとごめんね」

 そうして私の額に手を当てた。

 私は彼を見上げた。

 彼は私を見つめながら言った。

「なんか赤い顔してるから。ちょっと熱あるんじゃない?」

「そういえば、なんかちょっとふわふわしている感じ」

 微熱くらい出てるかも。そういえば風邪のひきはじめっていつもやたら眠くなったな。そう思っていたら、彼は体温計を持ってきて、私にくわえさせた。ソファに座っておとなしく熱を測っていたら、彼は市販の風邪薬を持ってきて私に尋ねた。

「何か食べれそう?」

 私は特に食欲がないわけではなかったので、体温計をくわえたまま頷いた。

「じゃあ夕食を食べてから薬を飲んでもらおうかな」

 そう言って彼はキッチンに行って用意してあったらしい夕食の料理をレンジで温めだした。私はちょっとぼうっとしながらそれを眺めていた。手伝いたいけれど、検温中なので動けない。ピッと電子音がして体温計を見ると37度8分あった。思った以上に熱があった。それだけでなんだかくらくらして具合が悪いような気分になってきた。うう、見なきゃよかった。予想以上にあるとそれで具合が悪くなる気がするし。病は気からだし。そう思っていたら、彼がそばにいつの間にか来ていて、私から体温計を取り上げて見ていた。

「寒気とかする?」

「大丈夫。特にどこか痛いとかもないよ。ちょっと眠いだけ」

「そう」

 とりあえず彼が温め直してくれた夕食を一緒に食べて、私はその市販の風邪薬の錠剤を彼に渡されるままに飲んだ。ついでに私は薬のビンを開けてキャップに薬を出し、彼に差し出した。

「聖一さんも飲んでおいて。うつるといけないから」

 彼は目の前のキャップに入った錠剤を見つめた。

 それから私を見た。

「いいの?」

「え?」

 私が何のことかわからずに聞き返すと、彼はキャップの中の錠剤を見ていたけれど、それを受け取ってそのまま飲んだ。私はお水を彼に渡してあげた。

「ありがとう」

 お水を飲んでから彼は私にお礼を言った。

 私が使った食器を片付け出すと、彼はそれを止めて私に言った。

神奈かんなちゃんは部屋に戻って休んで。今日はここに泊っていきなよ」

 私が彼を見上げると、彼は言った。

「今日はもう送っていけないから。薬飲んじゃったし」

 私が驚いていると、彼は私を見つめた。

「眠くなる成分が入っているから、車を運転できない」

 言って、ふいと目を逸らすと彼は私に部屋に戻るよう促した。私は黙ったまま、それに従った。


 なんか妙なことになった──ベッドの端に腰掛けて、改めて考えてみたら成人男性の家に二人きりで居て、しかも自分でここから出て行く足がないって、警戒すべき状況なんじゃないの? ぼうっとしながらぐるぐる考えていた。その内に本当に具合が悪くなってきて朦朧もうろうとしてきたので、耐えられずベッドに入って目をつむった。そしてそのまますとん、と本当に眠りに落ちた。


 暑くて目が覚めたら寝汗をかいていて、衣類が体に張り付く不快な感触に気づいた。最悪だ。熱も上がっているみたいだった。どうしよう、と思っていたら、タイミングよくノックの音がした。返事しようかどうしようか考えていたら、そのままドアが開いて彼が入ってきて、目が合った。

「熱が上がってるみたいだね」 

 一瞥いちべつして彼はそう言った。

 私はうなづいた。

「着替え、用意しておいたからよかったら使って」

 そう言ってTシャツやパジャマやタオルなどを入れたカゴを置いてくれた。

「ありがとう」

 私はそう言って息をついた。

「大丈夫?」

「うん、ちょっとくらくらするけど、それほどでもない」

「また後で様子見に来てもいい?」

「うん」

 私はそう言って彼にお礼を言った。

 彼が退室してから私はつけている衣類を全部脱いで、彼のものらしい衣類を身につけた。洗濯したてみたいな清潔ないいにおい。当然と言えばそうだけれどさすがに下着まではなかったので、仕方なく私は汗で濡れた下着を身につけるよりは下着なしで清潔な衣類を直接身につけるほうを選んだ。脱いだ衣類をたたんでカゴに入れてほっと一息つく。サイドテーブルに飲み物が置いてあるのに気づいてそれを手に取って飲んでいると、またノックの音がしたので今度は返事した。

「はい」

「入ってもいい?」

「はい」

 聖一さんがドアを開けて入って来て、固く絞った濡れタオルとクーリング材を持ってきてくれたので、お礼を言った。

 彼は濡れたタオルで額の汗や頬なんかを拭いてくれた。気持ちが良くて、目を閉じていたら彼はクーリング材を私の額にはりつけ、私の髪をなでた。朦朧としながら目を開けると、彼は私を見つめていた。私はまた目を閉じた。目を閉じている方が楽だったからそうした。でも眠り込むまででもなく、彼がそばにいて私の髪をでているのは感じていた。優しい、感触。それは気持ちが良かった。少しうとうとして目を開けると、まだ彼はそこにいた。目が合ったのでそのまま何も言わずに互いに目を合わせていたら、彼はそっと近づいてきて私の唇に唇を重ねてきた。そうして静かに離れて私を見た。

「うつるよ」

 私が息をつきながら言うと、彼は

「うつしてもいいよ」

 そう言って、また私に静かに近づいて唇を重ねた。さっきより少し長く。そして離れてから、まぶたや頬にもキスした。

「本当にうつるよ」

 私が心配になってそう言うと、

「ゆっくり休んで」

 そう言って彼は私のまぶたに軽くキスして髪を撫でてから部屋を出て行った。

 私は息を整えるように何度かおおきく呼吸をして、そうして深い眠りに落ちていった。


 熱に浮かされて奇妙な夢をいくつかみた。中でも奇妙だったのは、目覚めに見た夢。

 深く暗い樹海の中で子供の姿をした海が迷子になっていて、私はそれを助けなきゃと思ってみていて、そうして彼のところまで行く。彼は私を見つけて嬉しそうに私を抱き上げた。私は一匹の黒猫だった。海は頬をすり寄せて優しく抱きしめてくれて、私はごろごろとのどを鳴らしていた。そうして彼の膝の上から飛び降り、樹海の出口を目指して道案内にとことこと歩いて行く。彼は素直に私と一緒に歩き出した。途中雨が降ってきたので洞穴で雨宿りして、雨がやんで外に出たら虹が出ていた。私と海はそれを一緒に見上げた。

 そこで目が覚めた。

 青い空にかかった虹の橋があまりにきれいで、その光を内包したような美しい色彩が目覚めたあとの余韻よいんに、すごくきれいないいものを持って帰ってきたような不思議な感じを残していた。なんだかよくわからないけれど、ここのところの鬱屈うっくつした色々な物事はもうすべて終わったこと、もうあまり気にしないでもいい、というようなすっきりした感じがした。

 もうくよくよと考え込むのはやめよう、もうそんなことしなくていい、流れに任せよう、それだけ何となくはっきりと思っていた。

 熱もひいていて体が軽くなっている感じだったので、私はそのまま起き出して洗面所で顔を洗って口をゆすいだ。用意しておいてくれたらしいコップに入った新しい歯ブラシが彼の分の隣にあったので、私はそれを使わせてもらった。早朝の鳥の声がちょっとうるさいくらいにぎやかだった。あまりにも近くでぴぴぴちゅちゅちゅと盛大に鳴いているので、見てみたくてリビングのガラス戸のところに行ってみたら、開け放してあって、裏庭の草の上にパンくずとか刻んだ果物なんかがまかれてあった。それを小鳥たちが来てついばんでいたので賑やかだったのだ。可愛らしい鳥たちの食事を邪魔しないようにガラス戸から少し離れたところからそれを見ていたら、

「おはよう、よく眠れた?」

 聖一さんがコーヒーの入ったマグカップを二つ持って、いつのまにかそばに来ていた。着替えもすませてすっきりした様子だった。

 うん、と頷いて私は彼からマグカップを受け取りお礼を言った。

 彼は私の額に手を当てて、にこっとした。

「熱も下がったみたいだね」

「ありがとう。お世話になりました」

 私がそう言うと、彼は笑った。

「どういたしまして」

 そうして私の額に軽くキスをした。

 何となく彼を見上げていたら、彼は私をちょっと見つめていた。

「何か欲しいものある? 必要なものがあるなら買ってくるけど」

 それで私は下着が欲しい、と思ったけれどちょっと言いづらかったのでどうしようか迷って結局

「ううん、ない」

 と答えた。

「ちょっと午前中に用事があるから出かけてくるけれど、君はもう少し休んでいた方がいいよ。家に在るものは好きに使っていいから」

 ぽんぽんと私の頭を軽くたたいて、そのまま彼はキッチンの方へ行き朝食の準備をしだした。私が手伝おうと思って彼のそばに行ったら、彼は私の手を止めて、そのままもう片方の手を私の肩に置いて身体の向きを優しく変えた。

「休んでいていいよ」

 そう言って、その場からやさしく押し出すように軽くじゃまもの扱いされたので、私はおとなしく部屋に戻った。ベッドに腰掛けてコーヒーをすすりながら窓の外を見ていた。カーテンを開いて大きく開いた窓から森を抜けて早朝の空気を運んでくる風や、そのにおいを気持ちよく感じていた。空はすっきりと青く高く晴れ渡っていて、雲がなかった。風が揺らす木々の緑の合間に見える明るい空の色に溶け込むみたいにして時間を忘れて眺めていたら、少し体が冷えてきたのでベッドにもぐりこんだ。あったかい布団にくるまって窓の外を眺めていたらノックの音がして

「朝ごはんできたよ」

 と彼の声がしたので

「はーい」

 と返事したら、彼は笑いまじりの声で尋ねてきた。

「こっちに持ってきてもいいけどどうする?」

「向こうに行くよ」

「じゃあ、待ってる」

 そう言って彼はダイニングルームの方に行ったようだった。去っていく足音を聞きながら私はベッドから起き出した。着替えたいけれど汗で湿っている昨日の服を身につけるのはいやだったので、そのまま彼に借りたパジャマのままでダイニングルームに行った。

「洗濯機借りてもいい?」

 私が彼に尋ねると、彼はいいよ、と言って洗剤なんかの場所も教えてくれた。それから新しい衣類をまた出して渡してくれた。

「浴室も使いたかったら、好きに使っていいから」

 入浴剤なんかのある棚も開けて教えてくれたので、お礼を言って、私たちは一緒に朝食をとりにダイニングルームに戻った。

 私に朝食をとらせ薬を飲ませてから後片付けを済ませると、彼は車のキィを持って出て行った。

 出かける前に

「午後には戻るから」

 言って彼は私をじっと見つめた。

「ちょっと抱きしめてもいい?」

 とうとつに訊いてきたので目を丸くしていたら、彼は笑いながら私をそっと優しく抱きしめた。びっくりしながら彼に抱きしめられていたら彼の温度に包まれているのがとても気持ち良くて、なんとなくそのままおとなしく身をまかせていた。そのまま眠りそうになったところで、彼は私から静かに身を離し、私に軽くキスをしてから

「行ってくるね」

 と笑って玄関のドアから出て行った。

「行ってらっしゃい」

 と手を振ったら、微笑んで手を振り返した。そうしてドアを閉めて、外から鍵をかけていた。家のなかから車の走り去る音を聞きながら、私はひとりでなんとなくぼうっとしていた。淋しいような。ほっとしたような。でもすぐに現実志向に切り替わって、洗濯機に衣類を運び込み、ついでに今着ているものも脱いで全部入れた。シャワーを浴びてすっきりして新しい衣類を身につけたら更に気分がだいぶ変わった。

 お天気がいいのですぐ乾くかなー。リビングのガラス戸を開け放ち風を入れて空を見上げていると、何だかここのところずっと深刻になりすぎていたかも、という感じがしてきた。気持ちが軽く、明るくなって、なんだか元気が戻ってきたような感じだった。

 明るい空の青さとか、晴れ渡って雲ひとつない開けた感じ、さらりとした空気。森のにおいを運んでくる新鮮な風、草木の美しい緑、朝の光の感じ。それらすべてが光を内包して丸ごと世界を祝福しているように、私のこともすべて祝福してくれているような気がして、何だかわからないけれど充電された。そんな感じだった。

 なんとかなるし、なんとかしていくだろう。

 そういうどこかわからないところから湧いてくる不思議な自信が体中に満ち溢れていくような。いつの間にか気力のようなものを私は取り戻していた。

 どうせいつも体当たりしてはすっ転んで、泥だらけになったり傷だらけになって、泣き笑いしては立ち上がるんだ。私は小さい頃からずっとそうだったもの。傷ついても泥をかぶっても別にそれでもかまわない。ガラス越しに見ていたくない。そこにある風をちゃんと感じたい。人に好かれても嫌われてもどっちでもいい。そんなの私はかまわない。私の身体の奥から羅針盤らしんばんが指している方に、いつでも歩いていけるならもうそれでいい。人からどう思われようとかまわない。結局はみんな私次第なんだ。何でも楽しもう、そう思うならそうすればいいだけだ──何となくそう思いながら空を見上げていた。




 別れを切り出したら、海はあっさりとそれを呑んだ。

「わかった」

 それでほっとしていたら、彼は私をじっと見つめていた。陸はどこかに出かけていなくて、彼らのマンションに私たちは二人で居た。時間は夕方で、リビングのガラス戸から夕焼け空が見えた。

「夕飯一緒に食べて行くでしょ?」

 そう訊かれて、私はちょっと迷ったけれど頷いた。

「何か食べたい物ある?」

 海の好きな物を何か作ってあげたいな、と思って尋ねたら、彼は

「なんかうどんとか食べたいなー。肉とか野菜とか沢山たくさん入れて煮込んだやつ」

「じゃあお鍋にしようか」

「うん、そうしよう」

 カセットコンロを出して土鍋で鍋焼きうどんを作ることにした。材料は冷蔵庫や保存棚にあるもので全てまかなえたので、私たちは仲良くしゃべりながら分担してそれを準備した。

「誰か好きなやつでもできた?」

 ちょっとそこのネギとって、くらいの言い方であたりまえに尋ねてきたので、私は一瞬固まった。それまで小気味よいリズムでとんとんと白菜を刻んでいた手元の包丁ごと思わずぴたっと止まったので、海はあきれたように私を見た。

「何だよ、図星なの」

 私が顔を上げたので、彼と目が合った。ちょっとお互いに黙ったまま目を合わせていたけれど、私は視線を手元に戻し白菜を包丁で刻むのを再開しながら、

「そうみたい」

 と言った。

「ふーん」

 海はそう言ってお皿や箸なんかを持ってリビングに並べに行った。それ以上は彼は何も訊いてこなかったので、私たちはまた普通の何気ない会話を交わしながら夕食を一緒に準備した。

 海が借りてきたDVDを一緒に観ながらリビングでコンロの上でくつくついっているお鍋にうどんを入れて、一緒に食べた。

「美味しい」

 そう言って海はけっこうたくさん食べた。

 なんとなくそれをほっとしながら湯気の向こうに見ていたら、海は私のお皿に残っているうどんの上に肉や野菜などをどんどんのせてきた。

「神奈も食べろ」

「うん」

 のせられた食材をもぐもぐとひたすら食べていたけど、海がまたのせてくるので

「もうお腹いっぱい」

 とギブアップしたら、

「なんだ、情けないなあ」

 と言われた。

 情けないとかそういう問題か?

 疑問に思いながら

「もう無理。入らない」

 さらにギブアップを申し出たら、海は私を見た。

 そのまま私を見ているので、

「何?」

「何でもない」

 そう言って、海はまた自分の分を食べた。殆どきれいにお鍋に入った食材を食べ終わって気持ちいいくらいの食べっぷりだったので、作ってよかったと心から思うほどだった。

 私はお腹がいっぱいで動けなくなり、冷凍庫からデザートのアイスクリームを持ってきた海に

「もう無理。一ミリも入らない」

 再度ギブアップを申し入れた。

 笑いながら海は私にソファに少し横になってれば、と言ったので、私はおとなしく言うとおりにした。うどんがおなかの中で水分を吸ってどんどんふくれ上がっているような気がした。水をけっこうたくさん飲んだし、スープも飲んだのがよくなかった。量はそんなに食べたつもりはないのに、ものすごくお腹がいっぱいで苦しかった。

「動けなくなるほど食べるなんて、小学生以来だよ」

 うう、情けない、と思いながら私がそう言うと、海は笑った。

「ばかだなあ」

「海がのせたからでしょ」

「人の思いやりに対して、なんて言い草だ」

 あきれたように言いながらも海は毛布を持ってきて私にかけてくれた。

 そのまま二人でDVDの続きを観ていたらうとうとしてきて眠りかけていた。目の前には海の後ろ姿があって、彼はソファに寄り掛かってカーペットの上に直接座ってTV画面の方を見ていた。見慣れた海の後姿をぼんやり見つめながら私はゆっくりと目を閉じた。

 DVDの音声をBGMにうとうとしていたら、海の声がした。

「神奈? 寝てんの?」

 眠りから意識を引き戻すようにして目を開けると、海がこっちを見ていた。

「寝てない」

 私が起きようとすると、海は私をおしとどめた。

「いいよ、起きなくて。休んでろ」

 ソファに沈められて私が海を見上げると、海はしばらく私を見つめていた。そうして言った。

「神奈の気持ちはわかったけど、ちょっと保留にしたいんだけど」

 一瞬何のことかわからず、え? と思ったが、ああそうか、と思い直した。あっさり海が「わかった」って言ったのは、そういう意味か。そう思いながら私が彼を見ていると、

「もうそいつと寝たの?」

 と海は訊いてきた。

 ぎょっとして、何てこと言うんだと思っていたら、海は私を見つめながら言った。

「ふーん、まだなんだ」

 そうして彼は私に顔を近づけてきて、

「まだ俺のこと好きでしょ?」

 そう言ってキスしてきた。すぐに舌をからませてきてそのまま私の上にのしかかってきたので、手で彼をおしとどめたら彼は唇を離して、私を上から見下ろした。その雰囲気でまた私を押さえ付ける気だ、とわかったので

「待って、海。やめて」

 はっきり強くそう言った。

 海は私を見つめながらちょっと逡巡しゅんじゅんしているみたいだった。

 海が本気でそうしようと思ったらもう力ではかなわないのはわかっていたので、私は海の目をまっすぐ見てもう一度はっきりと言った。

「やめて」

 海は私を黙って見下ろしていた。

 しばらく迷っていたみたいだけど、結局は自分のしたいようにすることにしたようだ。

 私の髪に顔をうずめるようにして首筋にキスしながら私の服を脱がしにかかってきたので、私はあわてた。あせって彼の手をつかんで止めようとしたら、逆に片手で両手首をまとめて掴まれた。軽くつかんでいるみたいに見えるのに動かせないのに驚いていたら、

「ここでか、俺の部屋に来るか、神奈の部屋か、どこがいい?」

 と訊いてきたので、私は息をついて言った。

「海の部屋」

 ここでは絶対嫌だった。陸が帰って来たら見られるかもしれないし。

「いいよ」

 そう言って海は私の手首を離し、自由にした。

「シャワー浴びる?」

 私に訊いてきたのでうなづくと、海は

「じゃあ、一緒に入ろう」

 と私を抱き起こした。

「やだよ」

 私が言うと、海は

「何でだよ、別にいいじゃん」

「陸が帰ってくるかもしれないし。いや」

 私がそう言うと、彼は私をしばらく見ていたが、

「じゃあ、このまま部屋に行こう」

 そう言って腕を引っ張って自分の部屋に連れて行った。

 肌と肌を重ねると、海の体温も肌もにおいも全部私になじんだ。行為そのものよりも、肌と肌を合わせたときのあまりの心地よさに何だかどうしようもなく私は惹き付けられているみたいだった。彼の肌に直接私の肌が触れると、そのまま彼の温度に包まれて、そのあまりの心地よさに何も考えたくなくなる。何もかもどうでもよくなって、そのままずっとそうしていたくなる。それが何なのかわからないけれど、肌と肌を合わせることだけでも目に見えない何かを交流しているみたいだった。皮膚の下に微細な電流が心地よく流れていて、それが重なるとすごく気持ちがいい。磁石に惹き付けられるように離れがたくなる。放っておいても身体が彼にくっついていってしまうみたいだった。

 私は海のことが好きだったし、そうなると心も体も放っておいたら海にくっついていってしまって、いつまでもこの関係から脱け出せないような気がした。

 海が自分の内側に抱えている暗い情熱を発散させるために私を征服したり支配したりするのをいつまでも続けるのはお互いに良くないと頭ではわかっているのだけれど、いざそうなると、私は海を止められないし、彼の気が済むようにしたらいい、と考えが自動的に切り替わってしまう。彼が満足するとほっとしてやっとその切り替わったモードから自分も解放されるような気持ちになった。

 この関係が何なのかわからないけれど、あまり健全とは言えないのは頭ではよくわかっていた。かと言って病んでいるとか不健全とも言い切れないような。一時的には仕方ないものなのかも、でもずっと続けるのはよくない。そんな感じがしていた。



 夜中に目が覚めてのどかわいていたので水を飲みに行こうと彼の腕の中から出ようとしたら、目を覚ました海に手首を掴まれた。驚いて彼を振り返ると、海が身を起こしながら

「どこ行くの?」

 と訊いたので、

「水のみに。喉が渇いたから。海も飲む?」

「うん」

「じゃあ持ってくるよ」

 私がそう言うと、海はそのまま目をつむってベッドに体を沈めた。手首を掴まれたままだったので自由な方の手でそっとその手を解くと、海は目を開けて私を見ていた。

 海のシャツを裸の身体に羽織ってボタンを留めた。大きめのシャツが腰まですっぽり覆っていたのでそれだけで出ようかと思ったけれどやっぱり下着も身につけスカートもはいてから部屋を出た。台所からは明かりが漏れていて陸がいるのが分かったのでシャツのボタンを上までしっかり留めてから台所に入って行った。

 風呂上りらしい濡れた髪の陸がペットボトルを片手に私を見た。

「おっす」

 私は黙って頷いた。

 そのまま冷蔵庫から水のペットボトルを取ってコップを二つ手に持って出て行こうとしたら

「何かあったの?」

 と陸が訊いてきた。

 私が陸を見ると、彼はリビングの方に目をやった。置きっ放しで片づけてない夕食のあとを見て言っているんだなとわかったので

「朝になったら片づけるよ」

 そう私が言うと

「別にそういうことじゃない」

 そのまま彼は私を見ていた。

「海をあまり甘やかすなよ」

 そう彼は言った。

「なにそれ」

「まんまだよ。海はおまえに甘えてるんだよ。でもそれ、あんまり続けると海にもおまえにもよくない」

 何となく言いいたいことはわかったので、私は頷いた。

 陸はちょっと吐息をついて私に言った。

「前に神奈が言っていただろう。自分だって階堂かいどうみたいになるかもしれない、絶対にそうならないとは言えない、人間はいつだって変化の途上にあるから不安定なものだって。海があんな風になってもいいのか」

 私はちょっとショックを受けていた。

 海が? そこは考えてみたことがなかった。

「一歩間違えて海が吸血鬼みたいになったらどうすんだよ。おまえが生贄になるようなものだぞ」

 私の顔色が変わったのを陸は淡々とした様子で眺めていた。

「自分でもわかっているんなら、よく考えろ。目を覚ませ。今おまえらはもの凄く危ういバランスで何とか立っているけれど、このままいけばそれはどこかで崩れる。どっちにしろいずれ崩れるバランスだから、どこでそうするか、どうやってそうするのか、よく考えろ」

 真っ直ぐに私を見てそう言う陸に、私は目を上げ合わせた。パズルのピースがかちりとはまったような感じがした。

「ありがとう」

 陸はちょっと吐息をついた。

「目が変わったな。神奈、そうやっておまえがしっかりしてろよ」

「うん、わかった。ありがとう」

 私がそう言うと、陸は私を見てちょっと笑った。

「そうそう、その目でいろ」

 どんな目だ、と思いながらも、私は改めて感謝を込めて彼を見た。

「そういえば、沙羅さらがおまえにどっかに付き合ってほしいようなこと言ってたぞ」

「そうなの?」

「そのうち連絡来るかも」

「わかった」

 私たちはおやすみ、と言ってそこで別れた。

 部屋に戻ると、海が目を覚ました。

「飲む?」

 勉強机の上にコップを置いてひとつに水を注ぎながら声をかけると、海は身を起こした。私がコップを渡すと彼はお礼を言って受け取り一気に飲み干した。

「まだいる?」

「うん」

 海の手にあるコップに水を注ぐと、それも一気に飲み干した。そして私にコップを返した。私はそれに自分の分を注いで飲んだ。

 海は私を眺めていた。

 水が少し残ったコップを机に置いてベッドに戻ると、海は私を抱き寄せてから組み敷くようにしてベッドに沈めた。シャツのボタンを外しながら好きだとか愛してるとか呪文みたいにささやいて額や頬や唇や耳や首筋にキスの雨を優しく降らせて私から衣類を全てぎ取ると、そのまま肌を重ねて身体を絡ませてきた。丁寧に優しく壊れものでも扱うみたいに私に触れている。

 力づくで私を扱うのも海だし、本当に優しく丁寧に扱ってくれるのも海で、その極端な差も振り幅も全部含めて彼なのだなあ、と何となく思いながら身を任せていた。いつも受身だけど、こっちから動いたらどうなるのかな、何となくそう思って海に自分から腕を絡ませてみたら、海は私を見つめた。私を測るように見ている。

「俺のこと好き?」

 うんと頷くと、彼は私に口づけてからまた私を見た。

「愛してる?」

 うん、と頷くと彼は私をきつく抱きしめた。

 私の名前を何度も呼びながら。

「海?」

「うん」

「どうしたらいい?」

 海は私をじっと見ていた。

 そして私の額にキスして言った。

「俺の名前呼んでほしい」

 私は彼を見つめた。

「それって、その最中に?」

「そう」

 そうか、と頷くと、彼は私に笑って言った。

「あと、もっと積極的になってほしい」

 抽象的だな。具体的に言ってほしいな。

 そう思っていたら、海は笑いながら私に軽くキスした。

「そんなに難しく考えなくていいよ」

 何となく囁くようにそんなことを近い距離で話していたら、彼の雰囲気が明るいものになってきたので、そうか、こういうのも身体も全部使ったコミュニケーションなんだ、と何となく納得した。暗闇にどんどんのみこんでいくようなものもあれば、それを解放的なものにすることもできるのかも? でもそれは海と心も身体も魂も全部を使って全身全霊みたいなコミュニケーションをとっていくうちに、彼が教えてくれそうな気がした。

「神奈の目が昔みたいになった」

 笑いながら海は私を抱きしめた。なんか喜んでる。

「なにそれ」

「俺を見る目がきらきらしてる」

 私は笑った。

「なにそれ、マンガみたい」

「ちゃんと俺を見てる。そういう目だよ」

 意外に真面目に海はそう答えた。

「ふーん?」

 自分でどんな目をしているのか今この瞬間に見ることができないのでわからないけれど、何となく自分の瞳に力が戻ってきたのは自分でもわかった。しっかり今を見よう、という力。これから見れるものが何なのか、何となくわくわくしているような力。それに関心を持って楽しもうとしている力。それは私の今の心境そのものだから。

「今までの神奈はなんとなく本当の魂が抜けた抜け殻みたいだった。身体だけはそこにあるけど」

 海はそんなことをぽつりと言っていた。



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