マザー・レミには愛がある

ろん

第1話




「ばかな……まだあどけない少女ではないか」


 男は、写真をデスクの上に放り投げた。

 デスク越しに直立不動の姿勢を保っている男も、彼と同じ深緑色の制服を身に纏っている。


「いいえ、間違いありません。我が隊も後衛とはいえ、同じ西方から進んでおりましたので。精鋭揃いの第一小隊でしたが、ほぼ彼女一人によって壊滅させられたと言っても過言ではありません」


 堅苦しい敬語を噛みしめるように一点を見つめ、窓側にいる男はふうっと息を吐いた。


「では、『竜人』が実在したと。我々もたびたび竜を戦地に投入してきたが、結論、敵味方かまわず襲いかかるものを兵器とは呼べん……そういう意味で、我が軍は先を越されたということだな」


 上官の自虐には沈黙で応える。そんな彼の姿勢にとことん感服しながら、男は背もたれに深く腰かけた。


「まあいい、わかった。それで、集計された第一小隊の死者数は?」

「ゼロであります、大尉」


 その沈黙は、思慮と誇りにあふれた先ほどのそれとはまったく別物だった。しばらくして、大尉と呼ばれた男の口から失笑がもれる。


「何を言う。先ほど、第一小隊は壊滅したといっただろう」

「ええ、壊滅です。しかしその……何と申し上げるべきか……」

「何だ、はっきり報告せんか」


 上官の困惑が苛立ちに変わろうとしている。その気配を察した彼が、限りなく正確な情報を伝えなければならないという制約の下で発した言葉は、次のようなものだった。


「彼女は、産むのです」

「うむ?」

「はい。これは私見ですが、おそらくは丸呑みにした兵士の肉体を、自らと同種の幼体に作り変える機能が備わっているのでしょう。最後はそれを卵にして……穴から……」

「ふ、ふざけ、イタッ」


 急に立ち上がったせいで、男はデスクの裏に太ももを強打する。


「なんと……なんと冒涜的な。そんなもの、間違っても生き残りとして数えるんじゃない! 女の尻を生涯で二度もくぐった男など、軍人として死んだも同然だ!」

「も、申し訳ありません!」


 加速した息を落ち着かせようと、男は一度だけ深呼吸をする。そうして吐き出された息は、まるで無意味なビブラートのように震えていた。


「今、この場でお前に命令する。どんな手を使ってでもこの女をさらって来い。我が兵を喰らうだけならまだしも、彼らの尊厳すら踏みにじってくれたこの女には、我々が直接鉄槌をくだす義務がある」

「はっ!」


 部下は敬礼し、くるりと踵を返した。「出ていけ」という上官の意図を言外に感じ取ったのだろう。扉が静かに閉じられた後、男は顔を赤らめたまま、拳をデスクへと叩きつける。


「何が竜人だ……我々をばかにしおって」


 ポラロイド写真の中で笑う可憐な少女。

 拳の衝撃でずれたもう一枚の写真には、同じ空を背景に咆哮する、巨大な竜の姿があった。



ーーーーー



「ねぇレミちゃん……やっぱりそういう服は……」

「似合ってない?」


 くせが多いミディアムの茶髪を揺らしながら、少女はぷぅとガムを膨らませる。紫色のキャミソールの下に革のホットパンツを履き、ボア付きのモッズコートを羽織って歩いているだけでも人目をひくのに、その首には、八方にトゲの突き出したチョーカーまで巻かれている。


「似合ってるよ! すごく似合ってるし、大人っぽいけど……この前もそれで面倒なことに……」


 もう一人の少女は対照的だ。すらりと長い脚によって、すれ違う男子にも負けない目線の高さを稼いでいるレミより、一段と小柄な彼女は、白無地のスカートで太ももを、淡いブルーのニットで胸元を「きちんと」隠している。

 

「レミちゃん!」


 横を通りかけた若い男が突然、何の前触れもなくよろめき、レミの進路を塞ぐように出てくる。早足の彼女は止まることができず、そのまま男の肩に顔をぶつけた。ぎらぎらと光るスカジャンの上に、ベチャッ、と良からぬ音がする。


「うえーっ、何してくれてんの」


 男はレミから離れると、肩についたチューインガムを不快そうに見つめる。しかし視線をレミの胸や顔へと移した瞬間、その表情はころりと笑顔になった。


「……やっべ、可愛いすぎてびっくりした。俺って結構潔癖症なんだけど、今回はさすがに許しちゃうわ」

「マジ? さんきゅー」


 感謝の言葉だけを置いて、レミは男の横を通りすぎようとした。その道を再び塞ぐように、男はさっと斜め後ろに動く。


「おいおいおい、待ってよ。それでも一言くらい謝るのが礼儀じゃん。もし友達の前で恥ずかしいなら、この後一緒に遊んでくれるとかでもいいよ?」

「んー、レミとお兄さんじゃ噛み合わないと思うよ。あたし、別に潔癖でもないし」

「わかんないって。とりま飯とか行ってみようよ。なんか、そういう趣味とか合いそうな気がするんだよねー」


 男は肩に付いたガムを引きはがすと、それを迷いなく口に含み、くちゃくちゃと噛み始める。


「ほら、青リンゴ味。俺も好きだよ」


 ひっ、と声を漏らしたのはもう一人の少女だ。レミの手を取ってその場を立ち去ろうとした彼女の二の腕を、男は驚くべき速さでつかむ。


「いたっ!」

「ごめんごめん。言うのが遅れたけど、君も十分可愛いよ。だから三人で遊ぶのも全然……あれ?」


 レミがおもむろに男の手首を掴む。それぞれの手が触れている部位こそ違うが、これで三人は一つの円となった。


「おっと、その気になってくれた?」


 うつむいたレミの目は、庇のように下りた前髪の陰に隠れている。しかし次にその口から発せられた言葉は、今までの声色とだいぶ異なっていた。


「うちのユツキに触らないでくれる?」


 通りに響く男の悲鳴。続いてこだまする果てしない「ギブ」の声。しかし解放される条件がそんな単語の羅列でなく、涙声による「ごめんなさい」の一言だと彼が気づく頃には、その手首は見事に腫れ上がっていた。


「さっきレミのこと褒めといてよかったねー。じゃなきゃ普通に折ってたよ」

「どうして、君……女の子なのに……」


 地面にうずくまる男を尻目に、今度はレミがユツキの手を取る番だった。


「待ってよ……俺の何がそんなに……」

「んー、なんかいろいろ焦ってる感じ? ちょっとダサいかも」


 なおも会話を続けようとする男を「バイバイ」と切り捨て、レミはユツキと共にその場を離れる。

 大きな通りを三本ほど越えて、ようやくレミが発した言葉は「ごめん」だった。


「どうして謝るの?」

「レミがこんな格好してるせいで、またユツキに迷惑かけちゃった。次からは学校用の服着てくる」

「ああ……それならさっき私が言ったこと、全部忘れて。今日はっきりと分かったから」

「え?」


 ユツキの固い表情を前に、レミの顔が一瞬こわばる。

 しかしそれを見て、ユツキはにっこりと笑った。


「どんな問題に巻き込まれそうになっても、レミちゃんは必ず私を守ってくれるってこと!」

「うぅ……ユツキぃ」


 さっき男の前で見せた迫力はどこへやら、骨を抜かれたようにユツキの肩へもたれかかるレミ。場所を移したとはいえ人通りの多い街路で、誰かが冷やかすように口笛を吹く。


「そ、それに学校用の服って、レミちゃん、学校でもそういう格好してるでしょ!」

「うーん……バレた」

「当たり前。でもかっこよかったのは本当だよ?」

「そりゃ、一カ月ぶりにユツキとデートしてるんだもん。邪魔者はみんなレミが食べ……」


 彼女はその先を言いよどんだ。


「食べ?」

「はは……やばい、お腹空きすぎて変なこと言い出しそう。とりま、飯とか行ってみよう?」

「その言い方はやめて」

「ごめん」


 二人は飲食店が立ち並ぶ繁華街へと向かう。


 その後をゆっくりと尾けていく、一人の影があった。




ーーーーー




 目抜き通りを曲がり、しばらく歩いた先にその店はあった。木の扉に金文字で店名が彫られているだけの外観からは、格式高い名店の雰囲気が漂っている。


「ちょっと、レミちゃん。ここって昨日の新聞に出てたレストランじゃない?」

「安いところは混んでるからね。心配しなくても、レミがちゃんとお金出すよ」

「それが嫌なの! いつも奢られてばかりいるこっちの身にもなってよ。私だって、今日のためにちゃんとお小遣い貯めてきたんだから!」

「六万ジェリカ」


 ポシェットから財布を取り出そうとしたユツキの手が、その一言で凍りつく。


「ろく……?」

「レギュラーランチでね。割り勘なら一人三万だけど、『普通』の十五歳ってそんなにお金持ってるの?」

「そ、それは……」


 小さながま口財布が、ゆっくりとポシェットの中に沈んでいく。


「だから、ユツキはそんなこと気にしなくていいの。ほら、いこう」


 カランカラン、とベルを鳴らして店に入る。近くのテーブル席に座った後、グラスを持ってやって来たウェイターの青年に対して、レミは指を二本立てた。


「レギュラーランチ、二つで」


 爽やかな表情で頷いた彼が下がってから、レミはユツキの方を見る。

 あろうことか、彼女は目に涙を浮かべていた。


「ユ、ユツ……え?」

「レミちゃんの、バカ」


 穏やかな彼女の口には似つかわしくない暴言に、レミはぽかんとしている。

 ユツキは続けた。


「お店なんて安くて良いよ。混んでても、二人でお話しながら待てばいいだけじゃん。それより私は、もっと、レミちゃんと、対等に、遊びたい」


 肩を揺らしてしゃくり上げるユツキを前に、レミはしばらく狼狽えたが、それでも最終的に、テーブル上の紙ナプキンを取って彼女に渡した。


「ありがとう」

「ううん、ごめん。次からは……もう少し気楽な店にするから」


 ユツキは首をぶんぶんと横に振る。


「こっちこそ、酷いこと言ってごめん。それから、対等がいいなんて言ったことも。私とレミちゃんじゃ、全然立場が違うのにね」

「……立場なんて一緒だよ。イリステス中等学校、三年二組」

「クラスはね。でも私は、戦時に国から召集されるような人間じゃない。レミちゃんみたいに、国から直接お給金が貰えるような才能、私にはないもん」


 ユツキはやや伏し目がちに言った。


「うちの担任が他の先生に自慢してたよ。今回のパレタ皇国との戦いで、うちのレミは、たった一本の剣で百人もの敵を倒したって。それって本当?」

「あぁ……うん、一応ね」

「すごい。レミちゃんが男子や先生より力持ちなのは知ってるけど、剣まで扱えるんだ……すごい」


 その言葉のうしろに続く微かな溜め息を、レミは聴き逃さなかった。


「……レミの大好きな人にさぁ、ユツキっていう女の子がいるんだけど。すっごい優しくて、すっごい賢くて、すっごい可愛いの。レミに話しかけてくれるのはその子だけだし、レミが召集で休んだ間の勉強を教えてくれるのもその子だけ。レミの頭があんまりよくないから、同じこと何回も聞いちゃったり、その子が行きたくない店に勝手に入っちゃったりするんだけど、なぜかいつも一緒にいるの。何でだろーね?」


 レミがそう言い終える頃、ユツキの顔は真っ赤に染まっていた。


「それはきっと……ユツキの大好きな人に……レ、レミちゃんっていう子がいて……」


 しどろもどろに喋るユツキの顔から、レミは少しも視線をずらそうとしない。そのことを目の端で確かめるたびに、ユツキは顔を赤らめ、レミはどんどん口元を綻ばせていく。


 その時、ユツキの一言一言を身を乗り出して聞こうとするレミの隣に、背の高い男がすっと現れた。


「店員さん? オーダーならさっき……」


 しかしレミはすぐに、その男がここの店員ではないことに気づく。彼はエプロンではなく、黒いスーツとサングラスを身につけ、無言でレミの方を見据えていた。

 それを見た彼女の口から、奈落のように深い溜め息がもれる。


「……ユツキ、ごめん。すぐに戻るから、ちょっとだけ待っててくれる?」

「う、うん」


 レミは椅子から立ち上がると、身をテーブルの反対側に乗り出し、唐突にユツキの唇を奪った。チュッ、という少し大げさな音が店内に響く。


「身代わり、ここにおいとくね」


 とろけきったユツキの表情を見て、今日一番の笑みを輝かせる彼女だったが、椅子を戻し、黒ずくめの男を連れて店の外へと向かう頃には、その顔は別人のように冷めきっていた。



ーーー



「おじさんたち、空気読んでくれないよね。別に今日じゃなくてもいいじゃん」

「いくつか連絡事項がある」

「はいはい、どーぞ」


 レストランから少し離れた路地裏。

 無機質に話す男と向かい合い、レミは気だるく先を促した。


「まずは前回の報酬の件だが、今日付で君の口座に振り込んでおいた。契約どおり敵兵一人につき、十万ジェリカで計算してある」

「まいどありー。こりゃ、ランチはスペシャルに格上げかな」


 ユツキの喜ぶ顔でも思い浮かべたのか、レミはにやにやとした表情を浮かべる。

 男はハナから聞く耳を持たない様子だ。


「さて、今回の戦いで君が地獄へと送った敵兵、その数一〇二名だ。これは我が軍の兵士一人あたりが撃破した人数としては、二十年前にレガーソン准将が記録した九十九名を超え、そのことを『現在の』レガーソン閣下は大変お褒めになっている。君は正式な兵ではないから、表立った授与式などは行われないが、閣下としては、ぜひ君に勲章を……」

「いらないよ。別に仕事だからやっただけだし」

「……承知した。ではそう伝えよう」


 退屈そうに髪をかきむしるレミをよそに、男は続けた。


「最後に一件、今後の君の召集についてだ。我が軍は現在、隣国のパレタ皇国を年内にも完全降伏させるつもりでいる。よって引きつづき君にも協力をお願いしたい。今後はより、戦火の激しい地域への召集となるが……」

「いいよ。レミ、普通に強いし」

「頼もしい限りだ。マザー・レミ」


 一閃。

 ヒュッ、と風をきって振り上げられたレミのかかとが、男の顔のすぐ横へと叩きつけられる。彼の身代わりとなった岩壁は一部が崩れ、無残な砂粒に変わった。


「おじさんも産み直してあげよっか? 次にその名前で呼んだら、マジで怒るからね」

「じょ、冗談だ。す……まない」


 恐怖の中、男はこぼれ落ちる砂粒を追うようにへたり込む。大胆に開かれたレミの股間に彼が下心を抱く余裕など、おそらく微塵もないだろう。




「あれっ……おじさん、サングラス変えた?」


 わずかな雰囲気の違いに気づき、レミはふいに問いかける。すると男は慌ててサングラスをかけ直し、逃げるような速さで遠くへ走り去っていった。


「変なの」


 そのとき、レミの脳裏を嫌な予感がかすめる。まさか、という思いとともに踏み出された足は、二歩、三歩と少しずつ速くなっていき、レストランがある通りに戻る頃には、その体は風のごとく疾走していた。


 店内に駆け込み、自分たちが座っていた席に戻ると、そこは既にもぬけの殻。まだ料理の来ていないテーブルの上には、布地を引き裂かれたがま口財布が無造作に転がっている。


 はぁはぁと息を切らしながら、レミは伝票入れに突っ込まれていた紙を手に取る。そこには青いインクで走り書きがされていた。



『親愛なるマザー・レミへ。ラクト埠頭、二番倉庫で待つ』



 くしゃっ、と手の中で紙を握りつぶすレミ。その腹に沸く激しい憤りは、人さらいではなく彼女自身に向けられたものだった。


 ——どんな問題に巻き込まれそうになっても、レミちゃんは必ず私を守ってくれるってこと!


 脳裏に浮かぶユツキの言葉さえ苦しい。自分自身にも聴こえないような声で「ごめん」と呟いてから、レミは自分の財布から紙幣をすべて引っ張り出し、それをテーブルにあるユツキの財布と置き換える。


 くるりと踵を返し、彼女は店を飛び出した。




ーーー




 埠頭にはボラードが等間隔に並んでいる。仕事を終えたばかりなのか、ヘルメットを付けたまま並んで歩く作業員の間を、レミは猛スピードで走り抜ける。左側に並ぶ倉庫の壁に描かれた数字が徐々に小さくなり、やがてそれが「2」になった所で彼女は急停止した。ひとつ隣にある一番倉庫の先はもう海だ。


 他の倉庫の扉がすべて閉じられている中、二番倉庫の扉だけ、不自然な隙間がある。その開き具合はちょうど、この埠頭で働く筋肉隆々の男たちを拒みながらも、十五歳の少女が通り抜けるには十分な幅だった。


 両側の錆をコートの袖でこそげ落としながら、レミはその扉をくぐる。


「レミちゃん!」


 聞きなれた声は頭上から響く。倉庫内には、素人目には用途の分からない機材がうず高く積み上げられ、その二階部分にあたる細い橋の上に、ユツキはへたり込んでいた。可哀想に、高いところが苦手な彼女の足元に張られているのは鉄板ではなく、金網だ。


「……足の速い子だ。あの町からもうここにたどり着くとは」


 ジャラジャラと鎖を引きずり、その男は橋の右側からゆっくりと歩いてくる。鎖は彼の黒革のベルトか ら伸び、ユツキの腰に巻かれた同じベルトに繋がれていた。

 

「さて。よく来てくれた、マザー・レミ」

「マザー……?」


 友人の名前に付けられた聞き慣れない冠称に、ユツキは困惑の表情を浮かべる。

 レミの舌打ちが倉庫内に響く。


「意味わかんないなぁ。私たち、普通にランチ食べに来ただけだよ。おじさん、人違いしてるんじゃない?」


 男の口から漏れたのは、彼女の舌打ちにも負けないほど大きな失笑だった。


「なるほど、強さは一流でも演技は三流か。君が分かりやすいよう、こんな敵国まで軍服を着て来たというのに」


 ユツキの様子にばかり気を取られていたせいで、レミはそう言われるまで、男が深緑色の将校服に身を包んでいることに気づかなかった。


「……ちょっと見覚えあるかも。おじさん、もしかしてパレタ皇国の人?」

「いかにも。正しくは『おじさん達』だがね」


 ガァン、という音がして振り返ってみれば、上にいる男よりやや色の薄い服を着た男が、倉庫の扉を完全に閉めきるところだった。彼と同じ迷彩をまとった兵士がぞろぞろと物陰から現れ、あっという間にレミを取り囲む。

 人数は六人。全員が腰の鞘から剣を抜いていた。


「……自己紹介が遅くなったね。私はパレタ皇国軍のマグナ中尉。部下の人望もなく、男尊女卑が激しいだけで、おまけに髪も薄い上官に君を『拉致』してくるように言われた、つくづく貧乏くじの多いおじさんだよ。まだ40歳だけどね」


 マグナは自虐的な笑いを浮かべ、腰の前で両手を組んだ。


「さあ、お友達を無事に解放したければ、君もおとなしく捕まることだ」


 その言葉を暗に指示と受け取ったのか、兵士たちはじりじりとレミに詰めよっていく。しかし次の瞬間、その様子を見かねたように動いたのは、両手をまだ拘束されていないユツキだった。


「レミちゃん、これ使って!」


 彼女はマグナが不用意にも人質を押さえている側に携えていたサーベルを抜き、それをレミの方に放り投げた。

 部下たちが構えている物より、幾分装飾の多いサーベルがその足元に転がる。

 マグナは両手を頭に当てて叫んだ。


「何てことだ! 今日連れてきた兵士は新米ばかりだというのに!」


 しかし、その表情はどこか得意げだ。

 レミはサーベルをゆっくりと拾い上げると、どう見ても片手剣のそれを両手で握り、向かってきた兵士を迎え撃つ。相手の攻撃を刃の部分で受けたためか、歯こぼれした鉄の欠片がいきなり床にばら撒かれる。


 その後も続々と斬りかかってくる兵士の攻撃を、右に左に受け流していく。相手の動きこそしっかり見えているようだが、その剣の扱いぶりは明らかに素人だった。


「レミちゃん……?」

「どうも彼女は調子が悪いようだね……それとも今年の新兵は、なべて剣豪揃いということかな?」

「そんな訳ない! レミ、どうして……」


 強く振り下ろされた一撃を受けきれず、レミの剣の上半分が鈍い音を立てて宙を舞う。その音はまるで、ユツキの期待をまるごと打ち砕くようだった。

 レミはそのまま兵士に突き飛ばされ、床に尻もちをつく。


「……見たかね、お嬢ちゃん。君の言う『レミちゃん』が今まで君にどんな嘘をついていたか知らないが、彼女の剣の実力などあの程度さ」

「冗談言わないで! レミちゃんは何度も戦場を経験してるし、国からお金だって貰ってるくらいなの! それにもしそうなら、おじさん達はどうして私たちを狙うの?」

「いやはや、もっともな疑問だが……その答えは『レミちゃん』に聞いた方が良いんじゃないか?」


 そう言われたユツキの視線は、四方八方から剣を向けられているレミへと注がれる。そのことを知ってか知らずか、彼女はじっと目を伏せたまま、しばらく沈黙を貫いていた。


「……ユツキ、お願いがある」


 それでもやがて、絞り出すように口を開く。


「私が良いって言うまで、絶対に目を開けないでくれる?」


 きょとんとした顔を浮かべるユツキの横で、マグナは「おいおい」と唸った。声色には若干の焦りが生じている。


「マザー・レミ、本気で言っているのか? 君が人の気持ちを理解できない少女であることを考慮して言わせてもらうが、おそらくここにいるユツキ君ほど、君の正体に興味のある人間はいないんじゃないか? そんな彼女が君の『勇姿』を前に、じっと目を閉じていられるとは到底……」

「わかった」


 理由を尋ねることもなく、ユツキはレミの言葉に従った。


「……ありがとう」

「お前たち、早くその子を捕らえろ!」


 百戦錬磨の兵であれば、そのように降ってきた命令を一秒と経たず実行に移しただろう。しかし残念なことに、「新米ばかり連れてきている」という彼の言葉は真実だった。彼らが愚直に上官の姿を見上げた隙をつき、レミは倉庫内のより開けた場所に移動する。


 兵士たちが再びレミを視界に捉えたとき、もう変化は始まっていた。


 脱ぎ捨てたモッズコートのそばで四つん這いになった彼女の身体は、みるみるうちにその径を増していく。首に巻いていたチョーカーはブチン、と盛大に引きちぎられ、その様子を唖然と見つめる兵士たちの頭上を飛んでいく。十五という歳の割にふくよかな胸も、内側から肥大化する筋肉の波に飲まれ、他の部位と同じ濃紺に染まっていく。小さな八重歯は伸びて牙となり、目は大きく裂け、下半身からは尻尾が生えてくる。


 いよいよ人間らしいシルエットが完全に失われたとき、その形を「竜」と呼ぶか「トカゲ」と呼ぶかは人によりそうだ。その姿が少女だった頃の名残といえば、元の色を引き継いだ茶色いたてがみと、より深淵さを増した青い瞳くらいのものだが、きめ細やかな鱗で全身を覆い、四本の太い脚で巨大な体躯を支える姿になってなお、そこだけ色素が薄く、筋肉とは別の曲線を描く腹回りには、まだ微かに女性らしさが残っている。


「う、うわああっ!」

「馬鹿、一人で行くな!」


 上官の命令に応えられなかった悔しさと、得体の知れない怪物に対する恐怖の間で半狂乱になったのか、最も小柄な兵士が剣を前に突き出したまま突っ込んでいく。


 しかし竜が前脚を軽く横に掻いただけで、彼の剣はあっさり弾き飛ばされる。


「ひっ……!」


 間髪を入れず、竜はグバッと大口を開ける。それはもはや威嚇ではなかった。唾液の飛沫で顔面がびしょ濡れになったことに嫌悪感を示す間も与えられず、兵士は一口にかかとまで咥えこまれる。このとき、血しぶきや骨の砕ける音に備えた人間がいたかは分からないが、そのような事は一切なく、その身体は頭から『彼女』に丸呑みにされた。


 ゴキュン——!


 分厚い肉壁が収縮し、哀れな一人目を腹の中へ送り込む。その瞬間、喉から下腹部にかけて鱗の色が薄くなっている部分が、まるで過去に多くの獲物が同じ道を通ってきたことを示す「轍」のように見えたのは、目を閉じているユツキを除き、その場にいる誰もが感じたことだった。


 その先は語るに及ばない。兵士は一人、また一人と竜に呑み込まれていき、「彼女」の腹を弓なりに膨ませていく。高い場所にいれば自分だけは安全だと高をくくっていたマグナの目論見も、相手が巨大化してしまっては意味をなさない。竜は積み重ねられた機材を足がかりに、すでに六人もの人間を食した口を彼に近づける位置まで迫っていた。


「近づくな! こいつに手を出されたくなければ……!」


 剣とは逆の腰に着けていた小型ナイフを抜き、その先端をユツキの首筋に押し当てるマグナ。

 しかし当のユツキは、目を閉じたままじっと前を向いていた。


「……レミちゃん。今、私のこと疑ってるでしょ。実は薄目を開けてるんじゃないかって」


 肯定でも否定でもない、そもそも言葉が通じているのかさえ分からないが、竜はそれに対して低く唸る。

 ユツキがふっと頰を緩める。


「大丈夫だよ。私、本当に何も見えてないから……証明してあげるね」


 彼女はそう言うと、マグナの脇をすり抜け、迷いもなく橋から飛び降りた。


「馬鹿な!」


 落下するユツキに引っ張られ、二人を繋ぐ鎖が凄まじい速さで伸びていく。マグナはおそらく、この橋の高さでは鎖が完全に「伸びきる」ことはないと察したのだろう。純粋に彼女を助けようとしてか、あるいは人質を失うことを恐れてか、彼もとっさに反対側から身を投げる。


「ウッ」


 その甲斐あって鎖は伸びきり、ユツキの身体は床に激突する寸前で止まった。マグナの体重に引き上げられる形で、その身体は少しずつ上昇していく。


 対してマグナの身体は重力に従い、ゆっくりと地球の中心に向かっていく。

 しかし、その先に床はない。彼が落ちていく先に待ち構えていたのは、赤黒い喉をてらてらと光らせた竜だった。


「や、やめろ……いやだ……!」


 迫り来る恐怖という意味では、その感覚は棘のついた天井が降りてくることにも等しいだろう。しかし実際に彼の足を呑み込んだ竜の口内は柔らかく、得も言われぬような温もりに包まれていた。


 獲物を完全に口の中に収めてから、竜は門を閉じるように上下の牙を噛み合わせる。マグナにとって良いニュースは、その間に自分の腕がなかったこと。悪いニュースは、光ある世界と自分を繋いでいた唯一の鎖が、ついに噛みちぎられてしまったことだ。


「きゃああああっ!」


 マグナという重りを失ったユツキの身体が、橋の上の方から再び落下する。それを見た竜は、邪魔な先客をゴクリと呑み込み、落ちてきた友人を柔らかい舌で受け止めた。

 処刑室へと繋がる前室のような空間から一転、竜の口はVIPルームのごとく丁寧に彼女を包み込み、その身を安全な床へゆっくりと下ろす。その動きは深い優しさにあふれていた。


「レミちゃん……?」


 強い湿気に晒され、唾液をべっとりと顔に付けられてなお、ユツキはまだ固く目を閉じていた。そのまま両袖で顔をぬぐい、姿の見えない友人に向かって微笑みかける。


「わかってるよ。まだ『良い』って言われてないもんね」


 聞こえるのは遠いさざなみと、巨大な風船に空気が出入りするような呼吸、そして男たちのくぐもった呻き声だけだ。


 それから十五分くらい経っただろうか。グポッ、という何かが排出される音とともに、固いとも柔らかいともつかない、重量感のある塊が床に転がる。その音はしばらく間を置いて、十回ほど繰り返された。






「ユツキ、目を開けていいよ」


 懐かしいレミの声を聞き、ユツキは目やにで接着されたまぶたを引き上げた。少し傾いた陽が窓から射し込み、宙に舞う塵をキラキラと輝かせる中、レミはすらりとした片脚に重心を寄せて立ち、やや曇った表情でユツキの方を見つめていた。その周りには六つ、彼女の腰ほどの高さがある卵が集まっていた。


「レミちゃん……それは?」

「ごめんね。迷惑かけちゃって」


 レミは質問に答えることなく、床に落ちていた剣を拾い、腰をベルトで拘束されているユツキの背後に回り込み、ベルトを切った。


「ねえ、レミ……んぅ」


 少し強引に、ユツキは唇を奪われる。

 しかしレストランで別れた時と違い、今回はむしろ焦っているのはレミの方だった。その先を聞かれたくない、話題を逸らしたいという欲求が、ユツキの両手を押さえ、その口を完全に塞ごうとする大胆さに表れている。十五歳という年齢に似つかわしくない濃厚なキスは一分ほど続き、ようやく理解を得られたと感じたのか、ユツキを解放したとき、彼女の顔には疲労と、少しばかりの達成感がにじんでいた。


「ぷはっ」


 洗面器から顔を上げたときのように、ユツキは新鮮な空気を取り入れる。レミの思惑どおり、白旗を上げたユツキの口からは、もう何の質問も出てこなかった。


「ユツキ……あれ、動かすの手伝ってくれる?」


 ユツキは黙ったまま頷き、レミの手を借りてゆっくりと立ち上がる。

 二人は煮込みすぎた魚のような臭いを放つ巨大な卵を、倉庫の外へ転がして移動させ後、レミの指示のもと、それを一個ずつ海へ落としていった。海中に沈むか沈まないか微妙な浮き具合を保ったまま、卵は潮の引きに乗って岸を離れていく。


 しかし最後の一個を「せーの」で海に押し出そうとしたとき、ユツキは突然手を止める。


「レミちゃん、やっぱり……」


 まるで稲妻のよう。不穏な口ぶりを察したレミの動きの素早さときたら、先ほど敵の剣先を翻したときの比ではない。ところが口封じの呪いをもう一度仕掛けようとする彼女に対し、今度はユツキも自分の唇をさっと手で覆う。鬼気迫る勢いに負け、あっという間に地面に押し倒されてしまうが、ユツキはしゃべる時間を稼ぐことができた。


「違うの……私、今、頭の中でいろんなこと考えてるけど……レミちゃんが言ってほしくないなら絶対に言わないし、別に何とも思ってないから!」


 口を覆う手に付いた卵の粘液。そこから漂う強烈な臭いは当分取れそうにない。

 ユツキは続けた。


「そうじゃなくて……やっぱりこんな大きな卵、勝手に海に流しちゃだめだよ! 埠頭の人に怒られちゃうし、卵がかわいそう!」

「ユツキ、お願い。後でレミのこと殴ってもいいから、今だけは言うことを聞いて。早くしないと……」

「嫌だ! レミちゃん、さっきからお願いばっかり!」


 首を横に振るユツキの手を口元から引きはがし、レミは唇を近づけていく。ユツキが全力で抗う理由は、一度彼女のそれに口を塞がれてしまえば、ゆうに数分は理性的な発言ができなくなると、すでに身をもって知っているからだ。

 

 しかし二人の唇が触れ合う直前、ピキッ、という鋭い音が辺りに走る。レミは溜め息まじりに、ユツキは何事かといった表情で、それぞれが卵の方に視線を向ける。その表面にはヒビが入り、細かい殻の破片がてっぺんから噴石のように飛び散っていた。


「あー……間に合わなかった」


 卵の上半分が砕け、中から腫れぼったい目をした生き物が顔を出す。淡いブルーの鱗で全身を覆ったトカゲのような見た目だ。

 

「レミちゃん、この子……」

「ははは、どう見てもドラゴンの赤ちゃんだよね。めずらしー」

「ううん、そうじゃなくて……」

 

 着々と殻を破りはじめたドラゴンの首に巻き付いている物を指さし、ユツキは声を震わせる。赤ん坊と同様、透明な粘液にまみれているそれは、彼女にとって何より見覚えのある、かつて自分自身とマグナの体を繋いでいた鎖の一部だった。

 生命誕生の瞬間にはふさわしくない「異物」の存在に、もはや言い逃れられないと思ったのか、レミはがくんと肩を落とす。

 

「えっと、まあ……そういうこと。ざっくり言えば、レミが大きな竜に変身して、あいつら全員呑み込んで、卵にしたんだよ。マジで自分でも、もっと真面目な闘い方できないのかって思うけどさ……変身するとめっちゃお腹が熱くなって、それ以外のこと考えられなくなるっていうか……」

 

 それまで唇で封じ込めてきた質問の答えを返すように、レミはつらつらと言葉を並べる。



 

「レミちゃん、顔をあげて」

 

 その願いに従ったレミの目に飛び込んできたのは、殻を脱ぎ捨ててよちよちと歩く小さなドラゴンと、その粘ついた身体を優しく胸に受け入れるユツキの姿だった。

 

「私、嬉しいよ。また一個、レミちゃんの特別な部分を知ることができたんだから。それより……」

 

 ニットに染みが付くのも構わず、彼女はきゅうと鳴く赤ん坊を抱きしめる。


「この子、私たちで育ててみない?」


 沈黙の中、少し高めの波が岸に打ちつける。返答に窮しているレミを前に、ユツキはふふっと一笑した。


「ごめんね、急に変なこと言っちゃって。でもレミちゃん、私のこと好きだよね」

「うん」

「私もレミちゃんが好き。私たち、きっと将来結婚するんだよ」


 今日ユツキが散々見せた、嬉しさと気恥ずかしさに焼かれたような表情。今度はそれをレミが見せる番だった。


「……うん」

「ねっ。たとえ元があの『マグナ』っていう男の人でも、レミちゃんが産んでくれたこの子なら、私、大事にできると思う」


 瞳の中の垢まで洗い出されたかのように澄んだ目で、ドラゴンはユツキの顔をじっと見つめている。レミ自身、今まで彼らを「我が子」として捉えたことがないようで、ユツキの胸の中が気に入った様子の赤ん坊に注がれる視線は、強い好奇の色に満ちていた。


「決まりね。名前は……どうせなら新しい名前を付けてあげたいけど、まあ、後で考えよっか」



 ——新しい家族を連れ、二人は帰路につく。



「でもレミちゃん、敵ってたしか、この子を含めて七人いたよね。卵は六個しかなかったのに」

「ああ、うん、最初の一人は普通に食べちゃった。ちょっとムカついてたんだよね……あいつらのせいでランチ食べられなかったし」

「それは……言わないでほしかったな」

「ごめん!」


 露骨に離れて歩こうとするユツキの手を、レミは両手で握りしめた。



おわり

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マザー・レミには愛がある ろん @longinus2001

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ