過ぎ去りし時6

 頬擦りするように顔を近づけまだ泪の流れる双眸を強く瞑る。

 それから私は思い出した。包み込む腕や頭に触れる手の感触、彼女から伝わってくる温もりや匂い。まるで今もそうしてくれてるように鮮明に。それだけに集中した。

 すると不思議な事にすぐ傍に千代さんが居て、私ごと真口様を抱き締めてくれてるような感じがした。実際はどうなのかは(俗に言う現実にはいないと思うが)関係なくそれはとても心強くて落ち着くものだった。

 だからより一層、より自然に千代さんの言った通り集中することが出来た。

 そして私が真口様に抱き付き千代さんを思い出してからどれくらいの時間が経ったんだろう。というより私はどれだけこうしていればいいんだろうか? 別に今の状況が嫌という訳でもないしきっと長い間そうしていられるとは思うけど、私は一刻でも早く真口様を助けてあげたかった。

 すると私の方へ近づいていた足音がすぐ傍で止まり、その直後に寿々木さんの声が耳へと届いた。


「そんなに悲しまなくても大丈夫だよ。きっと――」


 だが慰めるような彼の言葉を遮り辺りに轟くガラスの破壊音。その音に一瞬ビクつかせた私の体には次の瞬間、無数のガラス片――ではなく叩きつけるような大量の雨粒が降り注ぎ始めた。冷たくあっという間にずぶ濡れにしてしまう大雨に加え、吹き飛ばされてしまいそうな強い風。真夏だというのに私の体から次々と熱を奪い、群衆の立てる喧騒のような雨音は他の音を寄せ付けなかった。

 しかしその雨音に紛れたその音だけは鮮明に聞こえた。それは小さいが私の耳元で確かに鳴っていた。まるで私の想いに応えるように、真口様の心臓が一回。また一回、と脈打つ音。命の鼓動が。

 それは段々と間隔を狭めテンポ良く、生命力に満ち溢れていく。


「これは……驚いた」


 そして私の体を押し退けるように真口様はゆっくりと起き上がり始めた。その姿に最初は一驚したがすぐに喜色満面で彼に抱き付いた。


「真君!」


 さっきまでの気持ちを込めるように強く、強く抱き締めた。少しの間そうした後、真口様の顔を見ようと手が離れぬ程度の距離を取る。私の方をじっと見つめるその表情は何かを問いたそうだったが、


「どうしたの?」

「――いや、何でもない」


 その何かを口にすることは無かった。

 そして真口様の視線は本題とも言うべき寿々木さんへと向けられた。私もそれを追い顔を動かす。

 そこにはすぐそこで佇む寿々木さんの姿があり、真口様がこうしてもう一度体を起こしたことに驚愕を見せながらもどこか嬉しそうな表情を浮かべていた。

 すると彼は急に何かを確認するように空を見上げ始める。叩きつけるような雨を正面から受け止め何かを見ているようだった。


「これほどまでの力が一体どうやって――」


 言葉と共に空から真口様へと戻された視線だったがチラッと私の方を見遣ると口は動きを止めた。


「いや、理由なんてどうでもいいか。今までもそうだったようにね。それに人間の感情の激動と秘めたる力は僕もよく知ってる」


 一方で真っすぐ寿々木さんを鋭い眼差しで見据えていた真口様は私を傍にやり立ち上がり始めた。

 そして寿々木さんの声が雨音に消えると二人の間に異様な沈黙が漂う。それは傍にいる私でさえ指先一つ動かす事すら躊躇う程の緊張感を含んだ沈黙。いつまでも続きそうで、今すぐにでも終わりそうな時間の中、私は二人から目を離すことは出来なかった。元よりその行く末を最後まで見守るつもりだったから離すことは無いのだけど。

 猛烈な雨風の中を沈黙が支配するという矛盾を孕んだ空間に包み込まれ一分か二分ぐらいだろうか(体感ではもっと長い時間が経過していたが)。人知れず開戦の合図が鳴り響くと突如、寿々木さんは大きく退き真口様は逆にそれを追うように走り出した。

 そんな真口様を止めるように寿々木さんから(数えるのが億劫になる数の)あの触手が降りしきる雨のような攻撃を開始。

 だが真口様は軽快な動きとその身に宿した武器を駆使し流れるようにその中を前進した。そしてあっという間に寿々木さんの取った距離を詰めるともはや浸水とも言うべき水溜まりを蹴り、獅子王が如き洗練された荒々しさで飛び掛かった。

 一方で寿々木さんはあの時を再現するかのように束になった触手で真口様を迎え撃つ。

 だが今回は、真口様の大きく開き牙が睨みを利かせた口がその一撃を受け止めた。互いに退くことは無く、気も筋細胞一つでさえ緩める事を許されないといったその光景はさながら達人同士の鍔迫り合い。

 それからほんの数秒、完璧なまでに釣り合った力の均衡により触手と真口様は、また私があの自分の世界へと入ってしまったんじゃないかと思わせるような静止状態となった。

 でもそうじゃない事を真口様は降り頻る雨と共に触手を噛み千切る事で証明してくれた。

 そして触手の破片と共に一度地面へと落ちていった真口様だったが、足が地に着くのとほぼ同時に寿々木さんへ再度牙を剥いた。

 それに対し距離を取ろうとしているのか寿々木さんは既に後傾姿勢。だが一度地面を蹴った事で速度が最速に戻った真口様は彼を逃がさずあっという間に喉元に牙を突き立てた。

 勢いそのまま地面へと押し倒すと前足で体を押さえつけ更に牙を喰い込ませる。

 それに合わせ触手は蒸発するように消えていき、水と混じった血液は辺り一面に広がっていった。

 少しの間、喉元に噛み付いたままじっと動かなかった真口様だったが寿々木さんの抵抗が無くなったのを確認したのか、ゆっくりと口を離し顔を上げた。

 すると今の今まで私の体へ打ち付けていた雨も風も嘘のように止み、雲から姿を見せたお月様が私たちを照らし始める。

 私は一度空を見上げ、それから真口様へ視線を戻すと駆け寄る為に立ち上がった。

 だがどういう訳か一歩目を踏み出そうとした時、まるで電源を切られたテレビのように私の意識はプツリ――そこで途切れた。

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