過ぎ去りし時5

 その姿をちょっとだけ見つめてから立ち上がった私は早足で彼女の後を追った。丁度、千代さんが寿々木さんの前で立ち止まったところで追いつくと一歩後ろで足を止め彼女の陰に隠れた。それはさながら知らない人物に人見知りし母の後ろに隠れる子ども。


「怖い?」

「だって真君が……」


 私は後ろを振り返り真口様へ視線を向けた。

 だがすぐに顔は逸らし千代さんの服を握り締めた手に力が入る。


「千代さんも気を付けてね」

「ありがとう。でも私は大丈夫よ。さっきも言ったけど私は実在と幻影の狭間の存在。彼は直接的には触れることすらできない。逆もまた然りだけどね」


 そう言いながら千代さんは寿々木さんの肩へ手を伸ばした。だが彼女の言った通りその手は肩をすり抜け貫通してしまった。その間もピクリとさえ動かない寿々木さん。

 私は彼を見上げると千代さんの服は掴んだまま恐々近づき脚に手を伸ばしてみる。徐々に近づいてゆく手。そして指先が服越しの脚に触れるとタイムでも競うかのように素早く手を引っ込め千代さんの陰へ戻った。

 さっきの目を疑うような光景にもしかしたら私もそうなんじゃないかって思ったけどそれは違って私は触れた。そこに残った感覚を見るように指先を見つめていた私は確認するように千代さんの脚にも服越しに触れてみる。触れた。


「ふふっ。不思議ね」


 そんな私の一連の行動を見ていた千代さんはどこか楽しそうだった。

 そして私が見上げ返すと彼女は少し目を合わせた後に視線を寿々木さんへ。


「でも本当ならあのまま力尽きて欲しかったのだけど。やっぱりそうもいかなかったみたいね」

「私が鍵を見つけちゃって箱も開けちゃったの。ごめんなさい」


 確かにあの時の事を思い出し肩を落としはしたがそこに自責の念はあまり無かった。それは千代さんのおかげなんだと思う。


「そうなの? 凄いわね。私も色々と策は講じたつもりだったけど、あなたの方が上手だったかしら?」


 多分、千代さんは私を元気付けようとしてくれたんだろう。それか落ち込まないように。どちらにせよ彼女の誉め言葉と頭を撫でてくれた手のおかげで私の顔は綻んだ。

 私は見上げ彼女は見下ろし、交差する二つの笑顔。

 するとその内の一つ、千代さんの方は私から去り寿々木さんへと移動した。ただその時にはもう既に笑みは消えてしまっていたが。

 それから少しの間、彼女は何かを考えるような表情で彼を見ていた。一方で私の視線は千代さんと寿々木さんを行ったり来たり。


「さて。そろそろね」


 その声で私の視線は千代さんの顔へと引っ張られた。


「おいで」


 後ろを振り返った千代さんは私を見下ろしそう言うと、ベッタリくっ付いた私の背へ押すように手を添え一緒に歩き出した。参道を進み真口様の元まで戻った。

 傷だらけで血に塗れた真口様。見ているだけで涙ぐんでしまった私は千代さんへ逸らした顔を埋めるように強く抱き付く。そんな私に対し彼女はしゃがみ込み何も言わず抱き締め返してくれた。少しの間だけぎゅっと私を守ってくれる。

 でもそれは本当に少しの間だけ。すぐに私から離れ顔を見交わせると彼女の両手は私の(肩下の)腕へと触れた。


「あなたは彼の事好き?」


 それは彼というのが誰かを問う必要も考える必要もない質問だった。


「うん! 私、神様と初めて会ったの。でももう私と真君はお友達なんだよ。すっごい仲良しなの。だから大好き!」

「そう。良かったわ」

「千代さんも好き?」

「えぇ。もちろん好きよ。そしてあなたの事もね」


 あなたという言葉と共に千代さんは私の鼻先に何度かつつくように指先で触れた。それに思わず笑みが零れる。


「だから私はあなたと彼のことを助けてあげたいの。でもその為には彼の力がいる」


 そう言う千代さんの視線の先には真口様の姿があった。


「でも……」

「大丈夫よ。最初にも言ったけどこの神社と裏の森に張った結界は私の力の結晶。それを彼に与えれば」

「元気になる?」


 千代さんの言葉を待たずして尋ねた。


「えぇ。でもその為にはあなたの協力がいるの。出来る?」


 出来る、そう即答したかったが私は俯いてしまった。また真口様にとって悪い事をしてしまうんじゃないかって懸念がそこにはあったから。

 でもそんな私の頬に千代さんは「大丈夫よ」言うように手を触れさせた。


「彼に触れたままで私を思い浮かべるだけ。私の感覚に意識を集中させるだけでいいのよ。――彼の封印も解けて、あの鍵も見つけて、あの箱も開けた。あなたって自分が思ってる以上に凄いのよ。だから私は出来ると思う。いえ、そう信じてるわ」


 何故だろうか。彼女にそう言われるとなんだが出来る気がする。


「だからお願い」


 不思議とさっきまでの沈んでいた気持ちはどこかへ消え去り、根拠は無いが確かな自信がそこには存在していた。


「うん! 私頑張る!」

「ありがとう」


 千代さんはそう言って莞爾として笑った。

 だが何故かその笑みはどこか寂しそうにも見えた。理由は分からない。でも私はそう感じてしまった。

 だからその事について尋ねようとしたがそれより一歩先に千代さんは私を抱き寄せた。より強く、そしてより優しく。


「戻ったらあなたは最初と同じようにまだ泣いているはずよ。涙と悲しみで溢れ返ってると思う。でも頑張って堪えて。そして彼に――真口神に触れてこの感覚を思い出すのよ。いい?」

「うん。分かった」

「良い子ね。とても強くて良い子だわ」


 その言葉と共に千代さんの手は私の頭に触れると何度も愛撫した。まるで我が子のように愛情の籠った手で。


「私とあなたは随分と遠いけど、ビックリするぐらいに近いみたい。――あなたは一人じゃない。これからもどんな時も。私が傍にいる。それだけは覚えておいて。見守ってるわ。あなたも、その先も」


 一体何を言っているのか私には分からなかった。でもその言葉の安心感が私の心の奥底に確かな記憶として刻み込まれたということを否定する余地はない。まるで昼間には燦々と輝く太陽が空に昇り、夜には皓々たる月が空には存在してるかのようにそれは確かな事だった。

 そして私からゆっくりと離れた千代さんは最後に顔を見合わせ女神のような笑みを浮かべ、私の額に口づけをひとつ。温柔で愛情の籠った感覚が額から広がると私は導かれるように目を瞑った。

 暗闇が視界を覆い、いつの間にか体に触れる千代さんの手の温もりはどこにもない。突然の孤独を感じながらも私は内から湧き水の如く溢れ出す悲感と頬を流れる止めどない泪を順に感じ始めた。

 気が付けば私は真口様の前で慟哭していた。私の意志など関係ないと言うように声も泪も外へ飛び出していく。そしてすぐに希望もなく怒りすらない、哀一色に染められた私は何も考える事が出来なくなっていた。ただ内側から溢れる感情を楽になるまで零すしかない。ついさっきした千代さんとの約束なんて頭のどこにもなかった。

 だがそれは単なる幻触か一人泣き崩れるしかなかった私だったが、ふと手に温もりを感じた。

 優しく安心感を与えてくれたあの温もりを。それは前にも――いや、ついさっきまで感じていたものだ。千代さん。その温もりが手から体中へ広がるのに合わせ彼女の姿が鮮明になっていく。そして彼女との約束も。

 温もりから彼女を感じられたお陰で少し落ち着きを取り戻した私はまず千代さんの言葉を思い出した。


『泪と悲しみで溢れ返ってると思う。でも頑張って堪えて』


 どうやったら泪が止まるかなんて分からなかったけど言われた通り私は頑張って堪えた。もしかしたらただ必死に泣くのを我慢しようとしたのが良かったのかもしれない。そのおかげで悲感から目を背けることができたのかも。

 そして完全に止まった訳じゃないけどある程度、泪の勢いが弱まり少しばかりの余裕が生まれると次の言葉を思い出す。


『そして真口神に触れてこの感覚を思い出すのよ』


 そう言って彼女がしてくれたように私は真口様に抱き付いた。

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