過ぎ去りし時4

「……嫌だよ」


 声は震えを帯び、


「ヤだ」


 頻りに鼻を啜り、


「――だって私が助けるって言ったもん」


 息も上手く吸えない。

 段々と揺らす手に力は入らなくなっていき、目頭が熱を帯びていく。猩々緋、暗褐色、朱殷、白銀。色々な色の混じった真口様の姿に私は胸が締め付けられる思いだった。同時に脳裏でフラッシュバックするように流れる神社の階段を逸れた時の事や注連縄を潜り外した時の事、そして古い箱を開けた時の事。

 どんどん苦しさは増していきそれに合わせるように泪が込み上げてくる。


「神様でしょ? 私良い子にするから……約束も守るもん。ママの言う事もちゃんと聞くもん。だから……」


 続く言葉に取って代わった涕涙は頬をまるで夜空の流星のように流れたが、私の願いなど叶えてはくれやしなかった。

 そしてその一滴を境に両目からは泪が止めどなく流れ出した。溢れ出す泪と人目も憚らず上げる声。一気に箍が外れた私は痛哭し何も考えられなくなっていた。ただただ内から溢れる感情を吐き出し続けるだけ。


「……ごめんなさい」


 時折、涕泗と泣声に交じる謝罪の言葉。それは自責の念が心へ深く刻み込まれていたの証なのかもしれない。

 それからも私は神社外の雨に負けず劣らずの泪を流し、大声を上げて泣き続けた。その所為で当然ながら周りは見えてなかったし自分以外の音など気にも留めず、その時の私にとっては無いも同然。

 だからいつの間にか訪れていた周囲の変化にもその声が聞こえるまで全く気が付かなかった。


「あら、誰かと思えばこんな幼子だったなんてね。流石に驚きだわ」


 それは落ち着き払った優しい女性の声。自分の泣声に交じり聞こえたその声は違和感を覚える程に鮮明だった。

 そしてその声の後、軽い足音が私の隣で止まった。


「そんなに泣かなくても大丈夫よ」


 さっきよりも大きく聞こえたその声はやっぱり優しくてまるで春陽のようだった。心地好く包み込んでくれるような声。

 そしてそんな声に加え手の甲に触れる柔らかな感触。私は内側で溢れ出す感情がその勢いを弱めていくのを感じた。段々と泪も声も堪えられるぐらいには収まり私はぐちゃぐちゃになった顔を隣へと向けた。

 そこには聞こえていた声と同じような印象を与えてくれる女性が私と同じように膝立ちになり微笑んでいた。巫女衣装を身に纏い荒地に咲いた一輪の花のように逞しく艶やかな女性。

 そして私の手に重ねられたその手の甲には魚の小さな痣があった。


「少しは落ち着いた?」


 女性は言葉と共に私の頬に手を触れさせると流れる泪を指で拭った。不思議と彼女に触れられていると彼女の声を聞くと心が落ち着きを取り戻していく。

 そして少なくとも泪に視界を邪魔されない程には落ち着きを取り戻した私はコクリと頷く。女性はそれに対し、また笑みを見せた。


「お姉ちゃんだれ?」


 まだ涙の乾ききらぬ声で私は目の前の女性が誰なのかを尋ねた。この質問だけを取ってみても少しぐらいは頭の中も落ち着きを取り戻したのが分かる。


「私は、不破こちょうっていうのよ。――いえ、この場合はそっちじゃないわね。私は、天笠千代よ」


 私は一瞬、聞き覚えのある名前だなとしか思わなかった。

 だけどすぐにその名前は真口様が探していたお墓の人と同じだという事に気が付いた。


「私知ってるよ。千代は晴通で、晴通は千代で。違う名前だけどおんなじ人で。でも晴通のお墓に千代はいなくて……あれ?」


 自分で言ってて段々と訳が分からなくなってきた私は思わず首を傾げた。

 ふふっ、とそんな私を見て千代さんは笑いを零す。


「何を言ってるのか分からないけど、私と晴通は同じじゃないわよ。一体誰がそんなこと教えてくれたの?」

「真君」


 視線は千代さんへ向けながら真口様を指差した。


「ほんとに? でもそれは間違いよ。ちゃんと話した気もするけど多分、彼聞いてなかったのね」

「違うの?」

「えぇ、千代と晴通っていう二人の人間がいるの。私とあなたが違う人間なように、千代と晴通も違う人間。晴通は私の弟子で私の代わりにこの神社で仕事をしてくれたの。彼ったら私が引退するって言った時に天笠の名は途絶えさせてはいけないって引き留めてきてきてね。だから天笠の名を譲るってことで何とか納得してもらったわ。ちょっと大変だったけどね。でもそれから私は天笠千代という陰陽師を捨てて不破こちょうとして第二の人生を歩んだってわけ」

「でもそれはお墓の人の名前なんだよ。お墓っていなくなっちゃった人が眠る所なんでしょ?」


 ふふっ、と首を傾げる私を見て千代さんはまた同じように小さく笑った。


「そうよ。良く知ってるわね」


 彼女は頬に触れていた手を頭へ持っていくとこれまた優しく撫でた。


「だから私は厳密に言うと今は実在してないのよ。いえ、厳密に言うなら実在と幻影の狭間の存在ってところかしらね」

「実在? 幻影?」


 私は傾げていた顔を左右に行ったり来たりさせると千代さんへ手を伸ばした。ついさっきまでそうしてたように私は掌を彼女の頬に触れさせた。柔らかさと滑らかさと微かな熱が指先から伝わる。

 私には彼女が自分と同じようにちゃんと実在しているとしか思えなかった。


「この神社と森に施した結界は私の力の結晶。見方によれば私の欠片ともとれるわ。その力とあなたは強く共鳴し合い、あなたと私は特殊な繋がり方をした。そしてここ――あなたの内側で今こうして顔を合わせてるのよ」


 そう言うと千代さんは私の視線を誘導するように手を拝殿の方へ向けた。

 私もそれを追い同じ方を見遣ると、そこには階段から立ち上がろうとしている寿々木さんの姿があった。

 だが彼はどういう訳かその途中で止まっている。完全に。私はその理由を問うように千代さんへ視線を戻した。双眸に映る笑みを浮かべる彼女とその頬に伸びたままの私の手。

 すると彼女はそっと自分の頬に触れる私の手に自らの手を重ね合わせた。両方から伝わる温もりに手が挟まれているのを感じる。触れているだけで安心感をくれる優しい温もりだ。


「理解する必要はない。あなたなら感じれるはず。この特殊な空間を。もしそれが分からなくてもこれだけは信じて。何も怖がることはないのよ」


 それは根拠と言うより感覚。彼女の言葉を信用していいという説明できない感覚だった。そのちょっぴり不思議な感覚に若干戸惑いながらも私は真っすぐ千代さんを見つめて頷いた。


「良かった」


 嬉しそうな声と表情を見せた千代さんは私の手を頬から離すとそっと真口様の上に戻した。

 そして彼女は地面に横たわる真口様と寿々木さんの順で視線を移動させ状況を確認するように辺りを一見。それから最後は私へ。


「やっぱりここを探し当てて取り戻したのね。そして彼も駄目だった」


 少し表情を暗くした千代さんは、「彼」という単語と一緒に視線を真口様へ向けた。それに釣られるように私も顔を彼へ。


「ごめんなさい。私の所為なの。私が悪いの」


 思っていることを言葉にすることでそれはより鮮明なものとして私の元へ戻ってきた。

 そしてそれは改めて確認するように自分が悪いんだと自分に言い聞かせているような気分にさせた。


「私が悪い子だから……」


 段々と目には再び泪が溜まり折角拭ってくれた頬をまた濡らしてしまいそうになった。

 でもそんな私を千代さんの深い優しさは変わらず抱擁してくれた。


「大丈夫。あなたの所為じゃないわ。ただ私とあなたがとても似ていただけよ。あなたは悪くない」


 そして千代さんは文字通り私を両の腕で抱擁してくれた。それは優しくて温かいまるで母の腕の中のような安心感と心地好さ。あとお日様のようにいい香りがした。


「大丈夫。大丈夫よ」


 一人じゃないと言うように強くぎゅっと。それでいて優しく。千代さんの声は私の中へ抵抗なく浸透し、温かな飲み物が体中へ熱を伝えるのを感じるように彼女の言葉は私を慰めてくれた。

 そして彼女の腕の中で私の抱えていた不安や悲しみなどといった感情はその体温によって徐々に溶かされていき、代わりに何とも言えない安心感と幸福感が広がっていくのを感じた。

 おかげでこれ以上、泪を流すことも無くすっかり心の平穏を取り戻すことが出来た私は千代さんからゆっくりと離れる。少し名残惜しかったのは秘密だ。


「落ち着いた?」

「うん」

「良かった」


 私が微笑みを浮かべながら返事をしたからか彼女も同じような表情を見せると頭を軽く撫でてくれた。そしてその手はそのまま下へ撫で落ち頬は温もりに包み込まれた。


「本当にあなたは何も悪くないのよ。気にする必要は何もないんだから。強いて言うならこれは、運命の悪戯ってやつね」

「うんめい? 運命さんなんて私知らないよ?」


 会ったこともない全く知らない私にこんな酷い悪戯をするなんてきっと悪い子に違いない。なんて当時の私は思ったかもしれない(覚えては無いけど)。

 一方で千代さんは私のその発言に対して噴き出すように笑い出した。


「本当に知らない?」

「うん」

「それじゃあ運命さんに会ったら優しくしといた方がいいわよ」

「そうなの? でも私、意地悪する子は嫌い」

「そうね。だけど彼も悪気があってした訳じゃないと思うし。それに行動だけで判断するのは早すぎるわ。人間は自分以上に他人には疎いものなの。ちゃんと見て理解しようとしてあげないと見誤っちゃうわよ」


 少し難しい話になり私の頭上に半透明の疑問符が現れ始めたが、千代さんはそれを掻き消すように「さて」といいながら立ち上がった。

 そして彼女は真っすぐ寿々木さんの方へ足を進め始める。

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