過去8
文字通りそれは生死の賭かった戦いだったからだろう、真口様はその最中の事は何も覚えて無くて気が付けば巣穴だった洞窟の中でたった一匹、佇んでいたという。
それは寝て起きて狩ってきた獲物を食べ一匹の狼として群れの仲間と生きてきた洞窟。
だが今は人間と狼の死体が散乱し、もはや誰のかも分からない程に血と臓物が入り混じった悲惨な地獄絵図がそこには広がっていた。その中にただ一匹佇む真口様。
その時彼が感じていたのは仲間を殺した人間を一人残らず始末した達成感か、それとも激しい戦闘の末こうやってまだ息をし立てている事に対する勝利の優越感か。それとも人間をこの巣穴から生きて返さなかったが結果として仲間が生き返る訳でもなく自分以外何も残っていない寂寥感か。
真口様はそこを語りはしなかったが当時の私もそれを訊こうとはしなかった。ただその遠くを見つめる顔に触れ少しでも慰めになって欲しいと撫でただけ。
仲間を失った真口様は暫くの間、その洞窟で一匹過ごしていた。狼は基本的に群れで狩りをする為一匹での狩りはあまり得意じゃないらしく、真口様はその間小さな獲物を狩ったり人間の肉を食い生き繋いでいた(いくら心を許している神様だとしても子どもの私にとって人間を食べたという話は流石に怖かったのを今でも鮮明に覚えている)。
そんなある日。真口様の元に大勢の人間がやってきた。表から風に乗って流れ込んできた人間の匂いに、敵意を剥き出しにしながら洞窟から出た真口様。すぐにでも戦う準備は出来ていたが人間たちは武装をしておらず代わりに持っていたのは鹿や猪、兎なんかの肉。それを葉の上へ山盛りにしたものを目の前に置き全員で地に頭を擦り付ける程に平伏していた。
「どうかこれでお怒りをお納め下さいませ。我々はこれ以上、貴方様のお怒りに触れるような事は一切いたしませんので、どうかこれ以上我々を食べるのはお止め頂けるよう、ここにお願い申し上げます」
その光景に敵意は収まった訳ではないが、予想すらしていなかった出来事に真口様は洞窟の前で呆然としてしまっていた。じっと人々へ視線を向けたまま動かない真口様。人間たちはそれを見定めているとでも思っていたのか誰一人としてピクリとも動かずその姿勢を黙って保ち続けた。
初めは人間の若者が一匹の狼を殺し、その場でその若者も喰い殺され。その報復かそれとも狼が危険だと判断したのか人間たちは巣穴を探し出し狼を皆殺しにしようとした。だが最終的に生き残ったのは真口様だけ。
そしてそんな真口様を畏れた人間たちは今こうしている。
全てを無視しこの無防備な人間に襲い掛かる事も出来た。その選択肢は真口様の中に確実に存在しむしろ自分が死ぬまで一人でも多くの人間を喰い殺してやろうとさえ考えていたぐらいだ。
だが彼は人間達のその行動を目にした今――真口様はただならぬ敵意に支配されていた頭が段々と落ち着きを取り戻していくのを感じていた。でも同時にやはり人間共を一人残らず喰い殺せと仲間の仇を打てと囁く別の自分の声も聞こえる。
一番初め。もしあの時、自分があの人間を喰い殺していなければ仲間はまだ生きていたかもしれない。結局あの瞬間、衝動に駆られ復讐をしたがその結果得たものは何もない。むしろ失った。恐らく今、この衝動に駆られ人間たちを喰い殺したとしてもその先にあるのは血の海だけ。何もない。何一つ残りはしない。
冷静になった頭でそう考えると今から自分がしようとしていた事にも、あの日した事にも意味はなかったのかもしれない。何の意味も。
そう思った真口様は踵を返すと洞窟の中へ戻って行った。
そしてその日の夜。真口様は洞窟の前に残された肉へ牙を突き立てた。マズい人間のではない食べ慣れたその味に真口様の口は次々と肉を嚙み砕いては飲み込んでいく。
だがしかしこの行為が自身の運命を大きく変える決定的なものとなることを彼はまだ知らなかった。
それから人間は毎日のように洞窟へとやってきた。肉と祈りを捧げる為に。そして真口様も毎日その肉を食べては腹を満たしていた。
毎日。毎日。肉は用意され。祈りは捧げられ。それを真口様は口にした。信仰心とそれを受け入れる行為。人間達によって神格化されていた真口様は、それを受け入れることで本当に神化し始めていった。段々と善悪を見極める力と島を守るという使命感が生まれ始めたという。
そしてついにその時を迎える。肉体が役目を終え息を引き取った後、彼は一匹の狼から真口神として再び目を覚ましたのだ。
「そして儂は初めて人の村に降りた。人々はあの日のように平伏し儂を崇めた。そしてあの神社を建てた」
そう昔を語る真口様はどこか遠くを見つめていた。そんな彼の表情から溢れ出していたのは懐古の情だった。もちろんそれだけではなかったが最終的にはそれが彼の表情には残っていた。
「それから儂は神としてこれまでを過ごしてきた」
「じゃあどうしてここに閉じ込められちゃったの?」
「それはお前も知ってるだろ。儂が人を喰ったからだ。何人もの人をな。だから村人共は儂が怒ってると思ったらしい。それで初めのうちは更に供物や祈りを捧げていた。仕舞いには生贄まで寄こしおった」
「怒ってたの?」
「理由がない。ただ儂は儂の役割を全うしただけだ。だからいくら供物や祈りを捧げたとしても意味はない。ましてや人身御供などむしろ邪魔だ。あれは怒りではない。役割だ。だからいくらそれらをしようが必要があれば喰う。人数は問題じゃない」
「じゃあその人たちは悪い子で真君はヒーローだったんだ。カッコいい」
まるで休日の早朝にやってるヒーロー番組を見るように私は真口様を見ていた。そんな生々しいものではなく悪者を真口様が倒す。本当にそれぐらいに考えていた。
だがそんな私に対して彼は鼻を鳴らすように笑った。
「お前は一体何を持って奴らを悪と呼んでる?」
「だって真君は良い子と悪い子が分かるんでしょ?」
「善悪はそう単純ではない。お前と儂は違う。だから儂との境界線も違う。儂にとっての悪がお前にとっての悪とは限らん。その逆もまた然り。線の引き方でそれらは大きく変われば、その引き方に正しさはない」
言うまでもなく大人の私でさえ難しいその話を当時の私が理解できるはずもなかった。まだ正義の話もされてない私はただ首を傾げるだけ。
「神となった儂は奴らからの信仰心と引き換えにある使命を受け入れた。それは村をそしてこの島を守ることだ。儂は善悪を見極めることができる訳ではない。ただこの島や村に悪意を持って害を成そうとする者かどうかを見極めることが出来るだけだ。そういう意味で言えばこの島に害をなす者は悪、そうでない者は善だがお前の言う善悪はもっと広義なものだろう。だからそういう意味で儂に善悪を見極める力は無い。そもそもその善悪を定義することすら出来ん。分かったか?」
私はぽかんとした表情で真口様を見つめながらゆっくりと顔を横に振った。
「それもそうだな」
言葉の後、軽めの溜息をついた真口様は私から顔を逸らした。まるで意味がないのになぜ丁寧に話したのかと自分へ問いかけるように。
そんな彼に私は何となく気になった質問を投げかけた。
「私は?」
「何がだ?」
「私は良い子? 悪い子?」
「そうだな。儂という神としての限定的な判断で言うならば、お前はこの島に害をなそうとしていなければその力もまだない。つまり善人だ」
「やったぁ!」
神様に良い子と言われ私の心は喜びに浸かり、喜色を浮かべた。実を言うと心の隅ではこれで今年のクリスマスもちゃんとプレゼントが貰えるとホッとしていた。
「もういいだろ。儂は寝る」
そう言う真口様は何だかより疲れているように見えた。平然を装ってはいるが隠しきれてない分が表に出ている。仕事で酷く疲れているのに私の為に絵本を読んでくれてる時の父みたいだ。その時の私も丁度そんなことを考えていた。
「うん」
だからすっかり気分よくなった私は今日はもう帰ろうと身軽に立ち上がった。
「じゃあまたね」
そしてスキップ気味な足取りで私は洞窟を後にし神社の階段へと向かった。
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