過去7

「近頃、変なのがこの森を彷徨いている」

「オレも見たぜ。鹿を狩ってた。妙な物でな」

「だが、我々を見ても攻撃はしてこなかった」

「害がないのなら放っておいても問題ないだろう」


 島の森という同じ狩場で獲物を狩る人間と狼。だが彼らは暗黙のルールを守るかのように互いに手出しはしなかった。森で出くわしても沈黙しその場を立ち去る。まるで互いに互いが見えていないかのように。

 しかし小さな島の生き物を二つの勢力が狩ればその数が徐々に減っていくのは自然の摂理。元々多かった訳ではない鹿や猪は段々とその数を減らし始めていた。とは言っても当時はまだ橋は無く、当然ながら船を作り漕ぐ事の出来ない狼たちはこの島から出る事は出来ず選択の余地は無かった。しかしながら減少傾向にあるとはいえまだ島の環境は維持状態にあり、彼らの生存が脅かされる程ではないのも事実。

 だが時が経ったとある日に起きた一つの事件が、真口様を人生の岐路に立たせた。


 その日、いつものように仲間と狩りに出ていた真口様は獲物を探し森を歩いていた。すると突然、何の前触れもなく真口様の隣を歩いていた仲間の首に矢が突き刺さった。声を上げる余裕もなくその場に倒れた仲間に真口様を含め他の狼達はまずその見えない危険から身を守る為、同時に走り出し距離を取る。そして少し離れた場所から地面に横たわる仲間の方へ目をやった。まだ息はあるが呼吸するので精一杯な様子の仲間。

 そんな彼の傍へ駆け足でやってきたのは一人の若い人間だった。人間は駆け寄るや否や興奮気味の笑みを浮かべながら両膝を突いて近くに弓を置き、物でも掘り起こしたような手つきで仲間の狼を軽く持ち上げた。


「やった……。これで、俺も」

「おい! やったか?」


 その声と共に少し遅れてやってきたのはもう一人の同年代ぐらいの人間。


「あぁ。これを見ろ! これで俺も認められる」

「やったな! 早速帰ろう」


 もう助からない自分の仲間とその前で歓喜に浸る二人の人間。その光景を目にしながら真口様は自分の中で強く脈打つ鼓動を感じていた。

 そしてそれに動かされるように足を一歩前へ踏み出す。


「もう助からん」


 だけど仲間の一人の声に真口様の足はその一歩で止まった。でも視線は依然と前を向いたまま。先程よりも小さく燃える命の灯と手元の仲間を見下ろす散瞳した双眸。その二つを交互に行き交う真口様の視線。

 すると次第に鼓動と呼吸が感覚を支配し始め、この場を去ろうと提案する仲間の声は遠く自分とは関係のないものに聞こえてきた。視線の先に存在する光景だけがこの世界の全てであるかのように、それ以外の周囲がぼやける。更に呼吸と鼓動が大きく聞こえる。

 そして気が付けば止まっていたはずの足が動き始め、彼は走り出していた。視線は変わらず足は前へ。あっという間に仲間の元まで戻った真口様は先鋭な牙を剥き出しにし獲物を狩るが如く(仲間の狼の前で膝立ちになっている)人間に襲い掛かった。

 人間は真口様の存在に気が付くと自分が仕留めた狼から顔を向け咄嗟に両手で防御の姿勢をとろうとするが、それより先に真口様の牙が喉元に突き立てられた。皮膚を突き破り肉を貫いた牙との隙間から溢れ出す鮮血。

 そのまま人間を呼吸の止まる仲間の隣に押し倒すと真口様は抵抗がなくなるまで顎に力を入れ続けた。


「ひっ、ひぃぃぃ!」


 そして眼前で起きたその光景にもう一人の人間は恐れおののき尻餅をついていたが、すぐに狼狽えながらもその場から逃げ去った。そんな人間と入れ替わるように残りの仲間が真口様の元へ。彼らがもう息を引き取った仲間を囲う頃には人間の抵抗はなくなり喉元から牙が引き抜かれる。

 食料目的ではない獲物の血に塗れた口元と共に真口様は他の狼同様、目の前の仲間へ視線を落とした。天敵がいないとはいえ仲間の死は何度か目にしてきた彼らだったが、そこに横たわる死は初めて味わうものだった。

 そして彼らはその死に対して全員で目を閉じ俯くように顔を下げる。黙祷と言う言葉を当時知っていたかは分からないが彼らのそれは弔いの意を込めた行為で、少しの間その場で祈りを捧げていた。

 それが終わると彼らは傍に生えていた木の根元に穴を掘り仲間の体を埋めた。事実、カササギや象や犬は埋葬行為を行う事が確認されている。それと同じように彼らも仲間の死に対し埋葬を行ったとしても別に不思議じゃない。

 そして仲間の遺体を埋め終えるとその木に爪で印を付け彼らは狩りの続きへと戻った。

 その一件から数日後。狩りまでの間、外に出ていた真口様は森を少し歩いて回り、それからあの目印の木に立ち寄り巣穴へと帰った。

 だが巣穴に近づくにつれ森の匂いに混じり嗅ぎなれない匂いが鼻腔を通り抜け始める。最初の内は微かな違和感が胸の中で囁く程度だったが巣穴に近づくにつれその声は確かな警鐘へと変わっていった。それに伴い次第に駆け始める足。

 森を駆け抜け巣穴へ戻る頃には、荒々しく繰り返される呼吸と共にさっきよりも濃くなった人間の匂いが肺を満たしていた。同時にそれよりも濃い血の匂いも。

 真口様は少し離れた木の傍で立ち止まると自分が出た時とは随分と様変わりしてしまった巣穴を唖然としながら見つめていた。腕や脚を負傷した人間が二人いる入口と酷く濃い血の匂いが漂うその巣穴を。


「おい。どうした?」


 すると後方から聞き慣れた声が耳へと届いた。その声にどこか遠くへ行ってしまっていた意識が真口様の中へ戻り、彼は一気に後ろを振り向いた。

 そんな真口様を訝しげに見ながらそこにいた一匹の仲間は彼の横に並び同じように視線を巣穴へ。


「な、なんだ。あれは」


 たった今まで真口様が見ていたその光景に彼はまるでバケモノでも見るかのような表情を浮かべた。その横顔に真口様は切り抜かれたかのように覚えていないつい先ほどまでの時間、自分はこんな顔をしていたのかと他を見て己を知った。


「一足先に獲物でも捕えてきたのかと思ったが……」


 にしてはこの匂いはあまりにも濃すぎる、そう思ったが彼も分かっているだろうと、言ったところで何もならないと真口様は口を紡ぐ。


「おい。あれ見ろ」


 その声に視線を向けた先――巣穴から弓を背負った人間が後退りするように出て来たかと思うと、その前屈みになった人間が巣穴から引きずり出してきたモノに二匹は言葉を失う。

 それはレッドカーペットでも敷くように血の線を引く仲間の姿だった。閉じる事のない瞼と虚無を見つめる瞳、半開きの口から垂れた舌先が地面を舐め続けている。

 その瞬間、真口様の脳裏にはあの日の光景が浮かんだ。矢の突き刺さり倒れる仲間とその前で膝立ちをした喜色満面の人間。まるであの日の自分とリンクするように真口様の足は動き出した。そんな彼に後れを取ったもののもう一匹もそれに続いた。

 一気に巣穴へと駆け、近づいた真口様は真っ先に仲間を引きずる人間へ飛び掛かった。仲間の後ろ脚から手を離す隙も与えぬ間に。あの時同様に喉元へ牙を突き立て地面へと押し倒す。顎に嚙み千切らんばかりに力を入れるにつれ口中には血の味が広がった。鹿や猪とは違った血の味。それは復讐の味だった。

 一方、目の前で仲間が狼に襲われたのを見た(負傷した)人間は声を上げながらも武器を手に取ろうと伸ばす。だが手が武器に触れるのと同時に真口様の仲間によってその喉元から血を溢れさせることに。

 そして一人目を仕留めた真口様はもう一人の(負傷した)人間へすぐさま牙を突き立てた。

 それから外の騒動に巣穴から出て来た残りの人間に対しても二匹の狼は恐れも容赦もなく襲い掛かりあっという間に激しい戦闘が始まった。

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