人喰い神獣6

 それから私も(多分彼も)すっかり楽しくなったんだと思う。もうあの洞窟からどれぐらい離れた場所に居るのかも分からなかった。でもそれ程までにただ走っているだけで(もっとも走ってるのは私じゃないけど)楽しくて仕方なかったっていう事なのかもしれない。

 そんな楽しい時間を暫く過ごした後、やっぱり神様と言えど生き物という事を教えるようにその息はいつの間にか乱れていた。だけどそれを感じさせない速度で走り続けた神様の足は川のせせらぎが心地好く響く場所で止まった。

 神様が態勢を低くするとそれを合図に私は背中から飛び降りる。もちろん走ってない分、元気は有り余る程に残っていた(落ちないように耐えていた分は消費していたけどそれは誤差程度。子どもの元気は本当に無尽蔵なのかもしれない)。

 一方、私を下ろした神様は流れる川へ足を進めると喉を潤し始めた。


「これ私も飲んでいいの?」


 底までハッキリと見える澄んだ川(だが魚は一匹も見当たらない)を指差しながらそう尋ねると神様は水を滴らせながら顔をこっちへ向けた。


「別に誰のモノでもない。好きにしろ」


 正直に言うと「この水を飲んでも大丈夫なのか?」と訊きたかった訳だけど、何故かその言葉を貰うと顔を水面へ落とした。

 そして両手で川水を掬い上げると水筒を他所に一気に喉を通す。暑い所為か冷たくて喉を通り胃に到達しても尚、その存在感を主張し続けるその水は驚く程に美味しかった。激しい運動後に飲む水のように無限に飲める気がするあの美味しさと同等かそれ以上の味だ。毎日これを飲めるならもうジュースなんていらない。そう一瞬だけでも思わせたこの水は途轍もなく凄い(だけどやっぱりジュースは手放せずすぐにその考えは頭から放り出したけど)。

 でも無限に飲めるというのはあくまでも気分であって手二杯分を飲んだところで私の胃はすっかり満足感にも満たされていた。そして手で雑に口を拭いながら顔を上げ川の向こう側を見遣るとそこには周囲同様に木々が広がっていたわけだけど、視線の先にあるその木には子ども心をくすぐるモノが。

 私はそれに視線を釘付けにされながら少し後ずさりすると、全力で走り出し――跳んだ。そこまで幅がある川じゃなかったが、子どもの私が飛び越えられるかは何とも言えない距離。でも落ちて死ぬ心配も無ければ(びしょ濡れにはなるがどうせ帰る頃には汗だくだし、濡れたところですぐに乾くからそれは頭に浮かばない程に問題じゃなかった)、その時の私は視線の先にいるそれにすぐにでも近づきたいという気持ちが抑えられなかった。

 だから何の躊躇もなく跳んだ。水面に見上げられ、手を貸すような風を後方から感じ、対岸を目指し空中横断。みるみるうちに近づいてくる目的の木。

 しかし私の靴底はその全てで地面を受け止める事は出来なかった。半分程は見守ってくれていた水面と面と向かって挨拶を交わし、残りが私の手を引くように人事を尽くしてくれていた(この場合は人事ではなく靴事と言った方が正しいのかもしれない)。

 そのお陰もあってか私の反った体はすぐにではなく、徐々に徐々にと後方へ傾いていく。まるで誰かが私の時間をスローモーションにしたかのようにゆっくりと。

 でもそれでいて必死に回していた両腕だけは通常以上の速度で回転していた。藁にも縋る思いで無我夢中に抵抗する両腕だったけど、残念な事に私たち人間は空気を触る事も出来なければ風切羽も無い。両腕はただ虚しく空を切るだけ。

 ――このまま倒れてしまう。

 何となくだけど冷静に諦めが頭を過った。その時には既に重力がその身を抱き締め、ただ導きに従うしかなくなっていたから。

 だけどまだそこまで角度のついていない私の背中に触れたのは、川水の冷たさじゃなくてふわふわとしたクッションのような柔らかさだった。同時に後ろへ倒れていたはずの体が動きを止めた。

 突然の事に何が起きたのか分からず呆然としていると背中に触れているふわふわが優しく体を押し始める。私は当初の目的通り無事に岸へと上がることが出来たのだ。

 そして靴底が再びべったりと地面に着くと微かな温もりを残しながらふわふわは背中を離れてしまった。私はさっきまであんなに夢中に見つめていたものから視線を逸らすとそのふわふわの正体を確認する為、少し強めの鼓動を感じながら振り返る。

 私から遠ざかっている最中のそれは、神様の尻尾だった。長く逞しい、それでいてその毛並みの影響か愛らしくも見える尻尾。

 自分を助けてくれたのが神様だと分かると私は視線を尻尾から顔へと向けた。そこには相変わらずの表情と目つきがあって真っすぐ私を見つめていた。


「ありがとう」


 目が合うと笑みと共にお礼を言ったけど彼は何も言わず視線を逸らしてしまった。でも別に嫌な気はせずむしろお礼をちゃんと言って満足感に満たされた私は再度、目的の木へと視線を戻した。

 そこに止まっていたのは立派な三叉の角を持ったカブトムシ。場所が影響しているのか何故か今まで見たどのカブトムシとも同じなのにどこか違うような感じがする不思議なカブトムシだ。

 その大きな体に堂々と伸びた角は私の双眸を陽光の反射する水面のように輝かせた。私は感嘆の声を零しながらカブトムシへ手を伸ばすとその見事な鎧の光沢を間近で堪能させてもらった。本当は手にも乗せたかったけど流石に彼にとっては小さ過ぎるようだ。でもそれは仕方ない。名残惜しい気持ちはあったけど持って帰る訳にもいかないから私はカブトムシをそっと元の位置へ。

 暫しの休憩がてらに見つけた不思議なカブトムシから視線を外した私はそろそろ出発したいと思い後ろを振り返えろうとした。だが対岸に居ると思っていた神様がいつの間にか隣に立っていたから動き出した顔は半分程で止まった。


「海が見たい!」


 それは私の頭にふと浮かんだ景色だった。この島に来てから何度も見た表情豊かな海景色。何となくそれがまた見たくなり私は欲望のままに口を開いた。見られる場所があるかどうかは考えもせずただ見たいから見たいと言葉を口にした。

 だが彼はそんな私に愚痴を零すわけでもなく無言のままその場に伏せ、最初同様に私は背中へ飛び乗る。そしてまた二人で森を駆け始めた。


 どこまで行っても緑が絶えず地面は人間の手を拒んだあるがまま。でもそれは彼が神様だからかそれともそれだけ慣れ親しんでいる証なのか、誰かが歩くことなど考慮すらされていない自然の中を相変わらず軽快に駆け抜けて行った。背中に乗っているだけの私も爽快な気分にさせてくれるほどに。

 私の我が儘を聞いてくれた神様がどこに向かっているのかは分からないまま、ただ背中の上で落ちないようにしながらその疾走感を感じること数分。だろうか(正直、夢中で楽しんでいたからその時間の感覚は当てにならない。もしかしたら数十分だったかもしれない。でも一時間は経ってないのは確かだと思う)。

 とにかく出発してからの時間は定かではないがいくらか経過したその瞬間、彼の足が止まった。場所は山の山頂付近だろうか、そこにある少し突き出た場所。

 彼の足はそこで完全に止まったが――でも尚、体は荒れた呼吸で微かに上下している。それを感じてはいたはずだが眼前に広がる景色にすっかり意識を奪われ、風に撫でられる感覚も呼吸する感覚も神様の毛並みの触感すらも私の中から消えてしまっていた。

 もっと言えば私自身も消えてしまっていた。ただその景色を見ているという状況だけがぽつりと存在しているような感覚だったのかもしれない。


 でもそれもほんの一瞬の出来事ですぐに私は私に戻ってきた。感覚も全て正常に。そしてその状態で改めてそこにある景色を目にする。

 私の双眸に映ったのは先程と変わらず、夜までの間休憩している星たちが遊んでいるかのように煌めく海と雲の遊泳する心地好い蒼穹。

 やっぱりそれは改めて見ても確かな絶景だった。こんな高所から海全体を(と言っても本当の意味での全体からすれば、それは私自身で言うところのほんの髪先一ミリ程度だろうが)見るのは初めてだったけど、海と空の広大さがより顕著に感じられて自然の器の大きさや懐の深さとでも言うのだろうか、そういった壮大な何かを子どもながらに体感していた。

 そんな事を感じ我に返りながらもついつい言葉を失っていると神様の体がゆっくりと伏せ始めた。すっかり休憩態勢になると私も背中から降りて地べたに座り、その体に凭れかかる。

 今度は徐々に落ち着きを取り戻していく呼吸の動きをハッキリと感じることができ、その動きはまるで海上で穏やかな波に揺られるように心地好いものだった。

 そこからは二人してその景色を眺めながら緩やかな時の流れの中で、森を駆けるとはまた違った楽しい時間を過ごした。

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