もとより直観にすぎぬ

沢田和早

もとより直観にすぎぬ

 嘉助かすけの心は今日も重かった。

 忍びの里を抜けてから早二年。薬の行商をしながら渡り歩いた土地はどこもかしこも悲嘆と貧しさに満ちていた。応仁の大乱に端を発した戦国の世はすでに百年以上の長きに渡って続いている。国土は荒れ果て人心は疲弊し行く末には一筋の希望さえ見いだせない。


「このような世がいつまで続くのだろうな」


 嘉助が忍びの里を抜けたのは今の世に疑問を抱いたからに他ならなかった。強きが弱きを挫く下剋上の世。己が身に着けた薬師としての技は相手を害するためだけに用いられる。丸薬を飲ませて体を痺れさせ、怪しい香で心を乱し、焚きつけた煙によって気を失わせ、いとも簡単に命を奪う。


「人を害するためではなく助けるために薬を用いたい」


 里を抜ければ追手がかかり問答無用で命を奪われるとわかっていても嘉助は己の気持ちを抑えられなかった。野山を歩いて薬草を摘み、獣を狩って肝を取り、人家の片隅で虫を捕えて自家製の薬を調合しながら嘉助は村々を巡り歩いた。

 気の休まる時はなかった。追手は熟練の忍びである。常に周囲に気を配り怪しいと思えば直ちに姿を隠す日々。己の直観だけが頼りだった。


「船が出るぞー」


 船頭の声が聞こえた。大雨のために三日間続いていた川留めは今日やっと解除された。川留め直後とあって乗客が多い。最後に乗り込んだ嘉助はともに座った。が、一息つく間もなくただならぬ気配を感じた。渡し舟には何度も乗ったがこのような不穏な空気を感じるのは初めてだった。


「母上、まだですか」

「もう少しです。我慢なさい」


 近くに座る旅装束の男子と母の二人連れ。何の変哲もない旅人ではあるがその目付きは尋常ではない。まるで獲物を狙う鷹だ。


「昼間は陽射しがきついぜ」


 手拭いを巻き被りにした男は素知らぬ振りをしながら乗客の顔を一人一人吟味している。嘉助にも時折鋭い視線を向けてくるので気味が悪い。


「よき日和になりましたなあ」


 紙子羽織を着た初老の男は穏やかな声をしているが、その顔には驚きとも喜びともつかぬ表情が浮かんでいる。目が潤んでいるのはよほど感激しているからであろう。


「う~む……」


 だがその中で特に嘉助の気を引いたのは腹を押さえて呻いている道中合羽をまとった男だ。一分の隙も見せぬ目の配り方、身のこなし。そして時折嘉助に向けられる敵意を帯びた視線。嘉助の直観が働いた。


(間違いない、追手だ)


 これまで抜け忍狩りに遭遇したのは一度や二度ではない。その度に素早く身を隠し事無きを得てきた。だがここは渡し舟の上。逃げようがない。


「うう~む」


 道中合羽の男は呻き続けている。嘉助にはそれさえも芝居に見えた。油断させて一気に仕留めるつもりではないか、そう思えて仕方がなかった。

 だが額に浮かんだ脂汗や青白い顔色を見ているうちに、嘉助の持つ生来の優しさが頭をもたげてきた。里を抜けたのは薬によって苦しむ民を救うためだ。目の前で苦しむ男を放っておけるはずもない。嘉助は傍らに置いた荷から薬篭やくろうを取り出した。


「もし、そこのお方、腹の具合が悪いのではないか」

「うむ。夜明け前から急に痛み出した。なかなか治らず困り果てている」

「これを飲むといい。越中の反魂丹はんごんたんを真似て調合したものだ」

「かたじけない」


 薬はすぐ効いた。舟が対岸に着くころには男はすっかり元気になっていた。次々と下船する乗客たち。最後に降りた嘉助に先ほどの男が声を掛けた。


「おかげで具合もよくなった。これは礼だ」


 差し出された銭を嘉助は断った。


「それには及ばん。旅の途中で他人の難儀を助けるのは旅人ならば当然のこと。次はこちらが助けられる側になるかもしれぬのだからな」

「そうか。ではこれにて」


 男が去っていく。嘉助も歩き出す。だがまだ警戒を解いてはいない。あの男が追手であることは十中八九間違いないのだ。この先で待ち伏せしているかもしれない。嘉助は懐の匕首あいくちを握り締めながら用心深く歩を進めた。


(殺気!)


 素早く身をかわす嘉助。背後からすり抜けていったのは舟の上で手拭いを巻き被りにしていた男だ。手には短刀を握っている。


「その身のこなし。おまえ、やはり抜け忍だな」


 男の言葉に嘉助は驚いた。ただの旅人ではないと思っていたがまさかこの男が抜け忍狩りだったとは少しも気づかなかった。


「言いがかりだ。ただの薬売りに過ぎぬ。何を証拠にそのような戯言を申すのだ」

「直観だよ。甲賀の里では草を扱う忍びが多いからな。おまえもその一人なんだろう」


 嘉助は安堵した。抜けた里は甲賀ではなく伊賀である。この男、抜け忍狩りには違いないが己に向けられた者ではない。


「直観などに頼って人違いだったらどうするつもりだ」

「その時はその時だ。死ね」


 再び男が嘉助に襲い掛かろうとしたまさにその時、別の人影が嘉助の視界を横切った。


「ついに見つけたり。尋常に勝負しろ」


 舟で同乗していた親子連れだ。男子は抜き身の脇差を構えて男を睨み付けている。


「な、何だ、おまえたちは」


 狼狽する男に向かって男子が言い放つ。


「おまえは我が父の仇。ここで会ったが百年目。今こそ父の無念を晴らす時。覚悟せよ」

「待て、人違いだ。何の証拠があるんだ」

「直観です。その人相、その態度、左頬のほくろ。全てこの人相書きに瓜二つ」


 母親が掲げた和紙には確かにほくろのある男の顔が描かれている。しかし似ているとは言い難い。


「さあ勝負せよ」

「直観なんかに頼って人違いだったらどうするつもりだ」

「間違ってなどいない」

「お待ちくだされ」


 突然両者の間に割って入ったのは紙子羽織の男だ。脇差を構えた男子の前にひざまずくとその両手をしっかりと握り締めた。


「若、ようやく見つけました。赤子の時に悪党にさらわれてから幾星霜。諸国を巡り歩いて探し回った甲斐がありました。ささ、お屋敷へ戻りましょう。父君も首を長くして待っております」

「母上、これはまことの話なのですか」


 疑心暗鬼な男子の言葉を聞いて傍らに立っていた母が血相を変えて言った。


「何を申されます。この子の父はとうに亡くなっているのです。何を証拠にそのような偽りを申されるのですか」

「直観です。母譲りの丸顔、父譲りの大きな瞳、このお子は若に間違いございません」

「直観などに頼って人違いならばどうされるおつもりです」

「その時はお詫びの銭を支払いましょう。とにかくわしと一緒にお屋敷へ参りましょう」


 嘉助は呆然と事の成り行きを眺めていた。舟に乗り合わせた四人の客が己の直観をぶつけ合っている。そしてどの直観も外れているように思われる。


「ええい、そんなことより抜け忍狩りだ。話はその後にしてくれ」

「そうは参りません。まずは仇討ちが先です」

「若、一刻も早く屋敷に戻り、父君、母君に無事な姿を見せてやってくだされ」

「ははは。これはお困りのご様子」


 笑いながら現れたのは腹痛で苦しんでいた道中合羽の男だ。嘉助は身構えた。この男は追手なのだ。他の者たちの直観が外れても己の直観だけは正しいはずだ。


「何だ、おまえは」


 手拭いを被った男がうさん臭そうに言うと男は愉快そうに切り出した。


「舟にいたときから感じていたよ。あんたたちが腹に一物持っているってことはね。ここは拙者がもつれた糸を解いて進ぜよう。まずは紙子羽織の旦那。あんたはこの子を若君だと思っているようだが何か特徴はないのかね」

「あります。若の左肩には生まれつき丸い赤痣がありました。今でも残っているはずです」

「見せてやんな」


 母親が男子の小袖を肩脱ぎにさせた。露わになった左肩に痣はない。


「なんと! 単なる他人の空似でありましたか。これは失礼いたしました」


 初老の男は深々と頭を下げるとそそくさと立ち去った。道中合羽の男がしたり顔で母親に話し掛ける。


「さてお次は仇討ちだ。この人相書き、額に刀傷があるじゃないか。どうしてそれを確かめないんだい」


 確かに人相書きの額には真一文字に線が描かれている。仇と言われた男は巻き被りにしている手拭いを頭から取り去った。額には切り傷も擦り傷もない。


「母上、人違いだったようですね」

「せっかく仇に出会えたと思ったのに。無念です」


 二人連れの親子は重い足取りで去って行った。


「さあ、最後は抜け忍だ。この薬売りが忍びだって。それはあんたの勘違いだよ」

「勘違いなんかじゃねえ。オレの直観は外れたことがねえんだ。こいつは絶対忍びだ」


 嘉助はギクリとした。確かに己は忍びである。その意味ではこの男の直観は正しい。しかし半分は間違っている。この男が考えている忍びとは別人なのだから。


「どうしても手を引かないのかい」

「追い詰めた相手をみすみす見逃せるはずがないだろう」

「じゃあ仕方がない。あんたの追っている忍び、もしや霧丸という名ではないのかな」

「なっ、どうしてそれを」


 突然道中合羽が宙を舞った。一瞬男の姿が消え、次に現れた時には忍者装束を身にまとっていた。


「ははは。オレがその霧丸だ。おまえの相手はその薬売りではない。オレだ」

「くそっ。一杯食わされた。解きやがれ」


 知らぬ間に追手の男の体には縄が巻き付き近くの大木に括りつけられていた。なんという早業。嘉助は目を丸くした。


「貴殿は抜け忍なのか」

「そうだ」

「ならばなぜ素知らぬ振りをして逃げぬ。危険を冒して我らを助けても何の益もなかろう」

「薬の礼だよ。恩人のあんたを見捨てていけなかったのさ。オレが逃げおおせたら縄を解いてやってくれ。さらば」


 霧丸の姿はあっという間に見えなくなった。しばらくしてから嘉助は男の縄を解いてやった。


「くそっ、今度会ったら必ず捕まえてやる」


 男は忌々しそうにつぶやきながら走り去った。嘉助は静かになった街道にたたずみながら人の直観が如何に当てにならないかを痛感していた。己の直観すら間違っていたのだから。


「直観ばかりに頼るのも考えものだな」


 嘉助は歩き出した。これからどこへ行くかは直観ではなく茶屋の主人の話を聞いてから決めることにしよう、そう思った。



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