第39話 心残り

 門番の少女——————ディアナの意識は、黒い靄の中で深淵に飲み込まれ消えようとしていました。何かを考えようとしてもうまく思考がまとまりません。だけれども流れ出たアルビナの記憶を読み取ると、砕け散ったはずの心が一瞬だけ目覚めました。彼女には心残りがありました。この黒い靄は元々彼女と共にあったものなので、ある程度は自由に動き回ることができます。彼女はいつも携えていたあるものを探していました。


 黒い鳥籠。

 かつてこの闇の中で最初に手にした力。

 あの鳥籠でサンクチュアリを創り、徒花姫を招き、いろいろな魔法を行使しました。実は彼女が作り出したものではなく、おそらくはなにか他の存在から与えられたものでしたが―――、それが神であったか悪魔であったか今では確かめるすべもありません。何とも居心地悪く不気味ではありましたが、目的のためにかつての彼女はその力を大いに利用しました。それにその何者かのおかげでこんな状況になっても、鳥籠だけは黒い靄に還らずに闇の中で転がっているのを見つけることが出来ました。


“マリーゴールド、いますか?”


 門番は透明な腕で鳥籠の扉を開け放ちました。この中にはマリーゴールドの存在の核を閉じ込めていたのです。

 マリーゴールドはマリーゴールドは鳥籠の中から、黙って門番を見つめているようでした。


「門番。」


“はい。”


「いえ、本当の名前はディアナとか言いましたっけ?」


 鳥籠の中に居ながらもアルビナとディアナの記憶を見ていたらしいマリーゴールドは、むすっとした声色でそう言いました。


「わたくし、あなたのことがずっと大っ嫌いでした。サンクチュアリの維持のために徒花姫たちを道具として利用する、心のない出来損ない。敬愛するアルビナ《あの方》と同じ顔なのも気に入りませんでしたし、魔法でも適わないし。本っ当に大っ嫌いでしたわ。」


“知っています。あなたの言う通り、私は出来損ないです。自分勝手な願いのために、たくさんの人を振り回しました。”


「ええ、ええ、そうですわ。到底許せませんわよねぇ。だけど、うう……わたくしは、見てしまいましたから、あなたの過去を。心底むかつきますけれど、許しました!仕方なしに!」


“えっ?”


 聞き間違いかと、ディアナが思わず素っ頓狂な声を上げます。マリーゴールドは構わず捲し立てました。


「わたくしがアルビナ《あの方》の本を破ったのは、アルビナ《あの方》を記憶を消した上で目覚めさせるため。今いる徒花姫たちとならば幸せに過ごせるのではないかと思いました。それに例えアルビナ《あの方》が不安定になってサンクチュアリが消えるような事態になっても、あなたがこれ以上徒花姫たちを呼び込むのを阻止できるならそれでもいいと…。でもなんといいますか、あのー……事情を知らなかったとはいえ、というか一切教えなかったあなたが確実に悪いのですけれど!結果的にあなたが何もかもを捧げて大切に守ってきたものを踏みにじってしまったことには変わりありませんから…それについては謝りますわ。本当にごめんなさい。」


“マリーゴールド…”


 メイドのらしくないしおらしい謝罪に、ディアナはしばらく言葉を失いました。すると気まずくなったのかマリーゴールドは続けざまに言い捨てます。


「ふん、でも勘違いはなさらないで!もしもあなたの事情を知っていたとしても、わたくしはあなたのやり方には反対ですから。全力で妨害するのは変わりませんわ!」


 声だけでもマリーゴールドの表情が目に浮かぶようです。これが彼女と会話できる最後の機会でしょう。ディアナも隠さずに思っていることを伝えます。


“…前にも言いましたが、あなたが謝ることはありません。もし今回あなたが行動を起こさなくとも、私の心は気付かぬうちにだいぶひび割れていたようでしたから…遠からずこのような事態になったことでしょう。”


 マリーゴールドは鳥籠からようやく出ると、自分の姿を取り戻して黒い靄の中に降り立ちました。ディアナの言葉がさらに続きます。


“…もっとあなたを信じられたら良かったですね。あなたを鳥籠に閉じ込めたこと、それが私の心残りでした。…さぁ、行ってください。彼女たちにはあなたが必要です。”


「…あなたはもう手遅れですの?」


 虚空に問いかけた言葉に返事はありません。

 マリーゴールドはしばらく複雑な表情で俯いていましたが、不意に別の誰かに呼ばれたような気がして顔を上げました。


「…もしかして、あなたですの?」


「そう、わたくしです。…変わりましたね、マリーゴールド。」


「……姫様。」


 アルビナの姿は見えませんが、確かにそこに彼女の存在を感じます。両頬に優しく包み込まれるような温かさを感じて、マリーゴールドはそっと目を閉じました。


「…あなたは…怒っていらっしゃらないんですの?わたくしの勝手な行動を。…合わせる顔も、ありませんわ。」


 勇気を出して絞り出した一言に、アルビナは優しい声で応えます。


「怒るわけがありません。だってあなたは、わたくしやみなさんを思いやってそうしたのでしょう?あなたの行動の根底にある感情は疑うべくもないのですから。」


 言われている意味が分からず、マリーゴールドは怪訝な顔で立ち尽くしました。


「それは…どういう……」


「…ああ、ラン。そこにいますね?あなたもこちらに。二人に話しておきたいことがあります。」


 はっとして振り向くと、いつのまにか少し離れた場所に、まさに今姿を取り戻したらしいランが驚いた表情で佇んでいました。


 「姫様…?姫様なのですか?」


 「ええ、そうです。わたくしは靄の中に溶け込んだまま、あなたたちと話しています。…時間がないので、単刀直入に尋ねましょう。かつてわたくしの心が砕けた日のことです。どうしてあなたたちににその欠片を分け与えたのかわかりますか?」


 アルビナの問いかけにランとマリーゴールドは困惑して顔を見合わせました。

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