第37話 はじまりの数百年

 薄暗く何もない空間に少女がひとり。


 少女の名はアルビナ。とある王国の姫君でした。彼女は辺りを見回すと、傍らに落ちていたお気に入りの人形———ランとマリーゴールドを抱きしめ立ち上がり、遥か彼方から漏れているひとすじの光の方へゆっくりと歩いていきました。だんだんと温かな光が近付くにつれ、彼女は自分の置かれた状況を理解し始めます。


 現世での命を終えたアルビナは、神様のところに向かっているところなのでした。不思議と怖い気持ちはなく、それどころか光に包まれた全身は軽やかです。まるで日向で微睡まどろんでいる時の幸福感にも似ていて、何とも良い心地でした。


 だけど。


 彼女は急にぴたりと歩みを止めました。とても大切なことを思い出したのです。


 「…あの子はどうしているかしら。」


 誰も寄り付かない尖塔の上、暗く冷たい部屋の中に閉じ込められた少女。それはアルビナの、存在を隠蔽いんぺいされた双子の妹でした。


 「わたくしが先に行ってしまったら、あの子はどうなるのかしら…。」



 背後からどこからともなく、誰かの声が聞こえたような気がしました。それがアルビナには、ひとりぼっちで泣きじゃくっている妹のものに思えてなりません。

 だけどもしも振り返ってしまったなら、目指す光の先に待っているであろう祝福は露と消えてしまう。そう直感が告げています。


 それでも。


 彼女は振り返ったのです。そうせずにはいられなかった。


 瞬間、アルビナは黒い靄のようなものに一気に包み込まれ、ぐんっとそのまま足元が抜けたように下へ下へと落ちていきました。










 次に目を開けると彼女は、また見知らぬ場所に佇んでいました。


 「ここは…どこ……?」


 そこは幻のように美しい庭園でした。大きな館の前、きらきらとした噴水の水を呆然と眺めていると、抱きしめていたランとマリーゴールドの人形が急に輝き始め、人の形に変わっていくではありませんか。驚きのあまり声を失っていると、奥から誰かが近付いてきます。雰囲気や服装が変わっていましたが、それは紛れもなく探し求めていた彼女の妹でした。


 「ディアナ!ディアナなの?」


 再会できた喜びに、少女は弾かれたように駆け寄ります。だけど妹———ディアナは顔色一つ変えず、冷たい硝子ガラスのような目でアルビナを一瞥すると、一冊の本を手渡しながらただ一言こう告げました。


 「ようこそ。サンクチュアリは、あなたを歓迎します。」

 




 最初の何年かは、まだ戸惑いの中にありました。


 ディアナはアルビナのことなどまるで忘れてしまったかのように振舞い、何を話しても反応を示しません。ランとマリーゴールドの方は人形であった頃から本質的にあまり変化がなく、ただ命令をこなすだけの絡繰からくりといった風情ふぜいです。


 次の何十年かは、疑いと調査に費やしました。


 ディアナがそのうち何か思い出すかも。にこやかに接していればランとマリーゴールドにも心が芽生えてくるかも。アルビナがひそかに抱き続けていたわずかな期待は諦念に変化しつつありました。


 これは悪い夢ではないかしら?ディアナの姿をした彼女は…本当にディアナなのかしら?


 そう考えたアルビナはサンクチュアリから出る方法を探して、たったひとりこの世界をくまなく調べ続けました。繰り返し続ける単調な毎日にはさすがに飽き飽きしていて、この世界から解き放たれることだけが唯一の希望でした。だけど身をもって調べて考えて出した結論は無慈悲なものでした。どうやらサンクチュアリから出る方法はないのです。

 

 そう悟ったアルビナがそれから過ごした何百年かは、まさに地獄のような日々でした。ここは暖かく美しく何不自由ない世界。だけど何の変化もない灰色の牢獄に、ひとりぼっち。


 ある時ぼんやりと彼女は考えていました。ディアナの顔をした、ディアナではない誰かを見つめながら。

 

 ディアナは…、あの子は、生まれてからずっとこんな苦痛の中にいたのかしら。


 出られる望みのない狭い部屋の中ひとりぼっちで…、何を考えていたの?


 「わたくしは…あなたの苦しみを、少しもわかってあげられてなかったわね。」


 アルビナはゆっくりと目を伏せました。その脳裏に一つの考えが思い浮かびます。


 これはもしかすると、神様が与えた罰なのかもしれない。

 ディアナにあんな運命をしてしまったわたくしという罪深い存在への。


 真綿で首を絞められるような苦痛の中、浮かんだこの考えが、彼女の唯一の存在理由になりました。


 それから彼女は永遠にも思われる時の中、延々と懺悔ざんげして後悔して懺悔して後悔して懺悔して…


 ついに自分の形すら忘れ果て、砕け散ったのです……

 




 徒花姫たちは黒いもやの中で揺蕩たゆたいながら、勝手に流れ込んでくるアルビナとディアナの記憶を見つめていました。どこかでずっと「ごめんなさい」とすすり泣く、誰かの声が聞こえていました。


                                     

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