第七章 それぞれの物語
第34話 Once upon a time
むかしむかし、あるところに、
国中の誰からも愛された可憐で心優しいお姫様がいました。
雪のような白い肌に、金糸のように輝く長い髪。彼女が微笑みかければ赤子も泣き止み、歩いた後には花のように甘い香りが漂います。召使たちをねぎらうのも、彼女にとって自然な事でした。お城には笑顔が溢れ、活気で満ち溢れていました。
お姫様はまた、時折お城の外に出かけては、町の人たちとも交流を深めていました。彼女の誰にも増して稀有なところは、困っている人に何の気負いもなくその手を差し出すことができるところでした。彼女の去った後も町はいつでもお祭り騒ぎで、「枯木から芽が出た」だとか「手を握られただけで目が見えるようになった」とか、様々な噂話でもちきりになったほどでした。
ですが幸せな時代は唐突に終わりを告げました。
不幸なことにお姫様は、若くしてその命を儚く散らしてしまったのです。
鮮やかな花々を敷き詰めた美しく豪奢な棺の中に、まるでまだ生きているかのように美しい彼女の身体が横たわっていました。棺の中には彼女が幼い頃から大切にしていた二体の人形が一緒に入れられ、たくさんの人々が見守る中、暗い土の中に埋葬されました。
お姫様がいなくなった後の王国は、まるで全てが色褪せてしまったかのようでした。国中が嘆き悲しみ、誰もがが「せめてあちらの世界では幸せでありますように」と必死に祈りを捧げました。
だけど誰も知らなかったのです。
お姫様には双子の姉妹がいたということを。
「あなたは何もかもを持っていました。可憐で優しく、儚げで朗らか。吐息は薔薇のように甘く、揺れる髪の一本まで愛しく。」
「あなたは…わたし??」
唖然としていた少女がやっと絞り出した言葉に、門番は静かに首を横に振ります。
「いいえ、まさか。私とは何もかもが違うあなた。私はあなたという太陽を見上げては目を焼かれる呪われた夜。」
悲しそうに目を伏せた門番の背後から地鳴りが遠雷のように響きます。かつて少女の心が砕けた時と同じ、サンクチュアリが端から徐々に消滅し始めたことを示す音。門番は祈るような気持ちで地上を見つめました。もう迷っている時間はありません。少女に失った記憶を取り戻させて、世界の崩壊を止めなくては…。ですが同時に彼女の脳裏にマリーゴールドの最後の言葉が思い浮かびます。
“…本当に、わかりませんの?”
少女の方を振り向くと、彼女は驚いた表情でまだ先程の体勢のまま固まっています。人を疑うことを知らない澄みきった瞳。目の前にいる彼女の姿や言葉、立ち振る舞いは、かつての彼女の本来の姿。ずっと会いたかった彼女そのもの。しかしもし記憶を取り戻したなら、彼女の時間は逆戻りして、心を砕いたあの時に戻ってしまうでしょう。この澄んだ美しい瞳が真っ暗に淀んで狂気のうちに張り裂けたあの時に。
門番は躊躇しました。だからといって何もしなければサンクチュアリは崩壊してしまう。今まで何百年間とたくさんの徒花姫を招き続けて存続させてきた大切な
(徒花姫たち、マリーゴールド……私には踏みにじった者として責任がある…!この願いをなんとしても―――)
願い?
はた、と門番の動きが止まりました。
願い。願い。私の願いは何だっけ。
なんのためにサンクチュアリを作ったんだっけ。
彼女とずっと一緒にいるために?
…そう。そうだけど。こうして一緒にいても何かが違う。
耳元で何かがひび割れるようなピシピシという音がかすかに聞こえたようでした。
門番は呆然とした顔のまま、再び少女を見つめました。深紅と紺碧の瞳がお互いの姿を映します。目の前にいるのはずっと会いたかった彼女なのに、彼女の中にはもはや自分はいない。共有する思い出の一つもない。
(違う…私が会いたかったのは…何百年を捧げても再び会いたかったのは…)
ここに在るのは初対面の彼女と、変わり果てた自分だけ。
いつのまにか二人の間に横たわってしまっていた絶望的な溝の深さ。
パキン
全てを悟った瞬間、今度は明瞭に門番は聞きました。自分の心が砕ける音を。
(ああ、そうか…。私の願いは、あの時の私たちにしか…叶えられないものだったのね…。)
倒れて落下していく門番に、目を見開いた少女が急いで手を伸ばします。その光景を、時が止まったかのようにゆっくりと感じながら、門番は見つめていました。
(…願わくば、何のしがらみもない、小さな子供になって……もう一度…)
意識を失う直前、自分の胸の前に小さな球体が浮き出たのを門番は見ました。悪夢のような色をしたその小さな球体は、夜の闇に沈むサンクチュアリに閃光を放ち、黒い靄のようなものを迸らせながら膨れ上がっていきます。
瞬間、門番は大きな間違いに気付きました。
どうして今までその可能性に思い至らなかったのだろう。
(そんな…私も…だった……なんて…)
胸を切り裂くような激しい痛みにとうとう意識を手放すと、門番―――サンクチュアリのもう一つの心臓であった彼女は、この世界を終わらせる災厄そのものとなって地に落ちていきました。
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