第33話 選択

 苦しむ少女の胸に浮かぶ球体に手を伸ばしつつ、一華姫いちげひめはまだ迷っていました。


 確かにここまで、固い決意を胸にやって来たのです。どんなに過酷でも、もう逃げたりしない。過去に戻ってあやまちを正すことはできないけれど、今度こそ自分が心から納得できる道を選び取りたい。大切な人との別れと落ち着いて向き合えるようになってきて、ようやくこの足で立ち上がったというのに、早速迫られた選択に左右されてしまうのは自分の運命だけではないというのです。


 (違う……)


 一華姫は唇を噛み締めて、伸ばしかけた指を止めました。


 (こんなことしたって…また後悔が増えるだけ…!)


 心の中から迷いを追い出すように、一華姫は少女に近付き顔を覗き込みました。


 「しっかりして…!私を見て!!」


 「あ、あ…」


 見開いた瞳に虚空を映して叫んでいた少女は、呼びかけられると少し我に返ったのかわずかな反応を見せました。半透明の彼女に触れることができないのはわかっていましたが、一華姫は両手を彼女の頬にそっとあてがうように添わせてみます。すると少女の瞳にゆっくりと光が戻り、二人の目が合いました。少女は泣きそうな顔になって、割れた窓の方へ後ずさりながら言いました。


 「何か…何か大事なことを思い出せそうなの……でもわかる…、思い出してしまったらきっと良くないことが起きるって…。わたくしから離れて…!」


 少女の片足が窓枠の外に踏み出し、身体が大きくぐらりと傾きます。しかし落下すると思った瞬間、一華姫がその手を間一髪で繋ぎ留めました。透き通っていたはずの彼女の手に今はしっかり感触がありましたが、不思議と一華姫は驚きませんでした。なぜか今なら触れられるという確信があったのです。二人の手は共に氷のように冷たく、震えて、凍えているようでした。


 「……大丈夫。」


 月明かりの逆光の中に二人の影が重なって見えます。驚いた少女の瞳の中に、一華姫は泣いているような微笑んでいるような、何とも言えない表情で映っていました。


 「大丈夫。ほら、さわれた。あなたは亡霊なんかじゃない。」


 少女の胸の前にぽっかり空いていた真っ暗な穴が、少しずつ収縮して幻のように消えました。吹き荒れていた風も収まり、少女の長い髪の毛がゆっくりと重みをまとって降下します。その隙間から可愛らしい丸い目がいまだにぱちくりと瞬きを繰り返していました。


 「どうやって…わたくしに触れたの?さっきは確かに…」


 まじまじと見つめた自らの手はやはりうっすらと透けたままです。その手を一華姫はまた両手で包み込み、真剣な表情で話しかけました。


 「あなたは記憶を失っているみたいだけど…思い出しても思い出さなくても、あなたはあなた。安心して。」


 「え…?」


 「過去にとらわれずに生きていくことも、過去と向き合って生きていくことも……どちらも素晴らしいことだから…胸を張って選んでね。」


 それは先程別れ際に睡莉姫ねむりひめに掛けてもらった言葉の受け売りでしたが、言いながら一華姫の目からは涙が溢れてきました。少女にまっすぐ伝えようとすればするほど、自分の胸に突き刺さって来るのです。


 少女はそっと指で一華姫の涙をぬぐうと、柔らかな笑顔を浮かべました。


 「ありがとう。あなたは優しい方ね。今度こそお名前を聞かせて?」


 「…わたしは…一華姫。」


 「美しい名前だわ。わたくしは…」


 自己紹介しようとして少女は動きを止めました。そしてゆっくり首を傾げます。


 「わたくしの名前は…なんだったかしら?」


 その瞬間二人の目の前にさっと黒いもやが浮かび出てきたかと思うと、急に門番が現れました。彼女は驚く暇もないくらいの速さで少女を抱えると、もろとも再び煙のように消えてしまいました。刹那の間に全てが幻のように消え去ってしまい、一華姫は呆然として暗い部屋の中に立っていましたが、窓から身を乗り出して外を見てみると、満ちた月に向かって黒い影が飛来していくのが見えました。


 (さらわれた…?!)


 一華姫は困惑しながらも、館の門のそばで寝ている睡莉姫のもとへ急いで引き返しました。




 門番は少女を抱きかかえたまま高く飛んで月を見下ろす上空まで来ると、突然すとんと彼女を空中に下ろしました。少女は驚いて小さな悲鳴を上げましたが、足元にはまるで硝子ガラスの円盤でもあるかのように普通に立つことができました。


 「…まぁ、驚いたわ。あなたは魔法使いさん?」


 少女は自分をここへ運んできた者の方を振り返りましたが、いつの間にか彼女はヴェールを纏っていてその顔を見ることはできません。手に携えた鳥籠の中に赤黒い炎があやしく揺らめいていましたが、不思議と怖い感じはしなかったので少女はにっこりと微笑みかけました。


 「素敵な夜ね。お月様がこんなに低いところにあるなんて知らなかったわ!」


 「…このサンクチュアリは夢の世界。もちろん現実とは違います。」


 「そう、ここはサンクチュアリというのね。なんだか懐かしい響きだわ。」


 少女は怖がることもなくその場でくるくると回り始めました。そして可憐な笑顔を浮かべつつ、自然に門番の手を取ると流れるようにワルツを踊り始めます。門番は驚きながらも慌ててついていこうとしましたが、ぴたりと足を止めると言いました。


 「……私にはできません。」


 「ごめんなさい、ダンスはお好きじゃなかった?」


 少女は肩をすくめて苦笑いしました。


 「わたくし少しはしゃぎすぎてしまったわ。なぜだかあなたに会えてとても嬉しい気持ちになったものだから。…もしかしてお会いしたことがあるのかしら?」


 その言葉に門番はハッと顔を上げ、ヴェールの奥から少女の顔をじっと見つめました。沈黙の中、彼女の頬を伝ってゆっくりと涙が滴り落ちていきます。少女はそれを見ると神妙な顔つきになりそっと涙をぬぐってやりつつ、指先を少しずらして門番の顔を隠しているヴェールをめくりました。


 「……あなたは、誰なの?」


 静かに涙を流す深紅の瞳の彼女の顔は、自分と全く同じ造形をしていました。

                  

        

                        第七章へつづく

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