第五章 反転の花園

第22話 後悔


 夢をみていた。 


 あなたと私。一緒にいられない、いてはいけない二人が、震える手を取って。


 「どうしてこんなにも雁字搦がんじがらめなのかしら。自由になれたらいいのに。」


 “自由”、とらえきれない響き。


 私たちからは一番遠きもの。


 「もしも自由になったら、何をしたいですか?」


 「…お花いっぱいの美しい庭園でね、ゆっくり二人でお茶会をしましょう。こんなふうに夜の闇にまぎれてこそこそ隠れる必要もない。わたくしたちは堂々と、誰の目も気にせずに過ごすの。」


 それはまさに絵空事えそらごと。叶うことないささやかな夢。


 「きっといつか、そんなお茶会をしましょう。約束ね!」


 ……あの約束が今も、私の心に突き刺さったまま。






 門番の少女は閉じていた目をゆっくりと開けました。

 睡蓮すいれんの花の咲き誇る池のほとり、映し出された蒼白そうはくな自分の顔が責めるような視線でこちらを射抜きます。


 「…大丈夫。きっともうすぐ。」


 言葉とは裏腹に不安と苦悶くもんの表情。だけど神様に祈ることなど今更できない彼女は、また全てを胸の奥にしまい込んで、いつものような無表情に戻るのです。心を殺すことには慣れ切っていました。ずっと絶望に身を浸しながら生きてきたのです。今更辛いことなんてない。


 …彼女はそう、思っていました。









 うららかな日差しが降り注ぎ、花々が匂い立つ額縁がくぶちの中のように美しい風景の中、いつも通り自分のガゼボで過ごしていた一華姫いちげひめは、何気なく絵本をめくっていました。それはサンクチュアリに来た時に門番から渡された“自分の物語”の絵本。自動的に行動が記録されていくという、不思議なものです。


 一華姫の本はほとんど全てのページの絵が同じでした。今この瞬間と同じように、ガゼボの中でじっと座っている姿。だけど一ページだけ他とは違い、美しいアネモネ畑が描いてあります。一華姫は目を細めてその絵をじっと見つめ、指先でゆっくりとなぞりました。


 ランはあれから時折、一華姫の様子をこっそりと見に来ています。本人は垣根かきねや茂みにうまく隠れたつもりのようでしたが、大きな帽子の青い薔薇がとても目立つので、一華姫は気付かない振りをするのも一苦労でした。


 一華姫はパタンと本を閉じてまたかたわらに置くと、今度はおもむろにランからもらった花飾りを頭から外して見つめました。そしてため息をつき、目を閉じます。


 (私は…ここに来るべきじゃなかった…)


 最近考えれば考えるほど、彼女はこの思考に囚われていきました。一華姫がサンクチュアリにやって来たのは、大切な人を失った現実をどうしても受け入れられなかったからです。今でもそれは変わりません。だけど…


 (あの人はこんなこと、望んでなかったのに。)


 時間は止まらないし、彼は帰ってこない。それがわかっているのに現実から逃げ続けて、こんな所にまで辿り着いてしまった。悲しみ続けるのが正しいことで、忘れていくのは悪いことで、そんな独りよがりな考えに縛られてしまっていた…。


 しかしその考えにたどり着いた先に、底の見えない真っ暗な穴がぽっかりと口を開けて待っていることも、一華姫は知っていました。

 彼女がいくら気持ちをしっかりと持って深淵しんえんの前に立とうとしても、深淵はいとも簡単に全てをみ込んでしまうでしょう。


 (サンクチュアリからは出られない。もう、取り返しがつかないの…?)


 一華姫はぐらぐらと視界がぼやけるのを感じて、手で顔を覆いました。激しい頭痛と凍えていく身体。なんとか呼吸を整えつつ、気持ちを落ち着けようとしていると、急にどこからか物音が聞こえてきました。


 「ふわぁ~…」


 こちらの体の力まで思わず抜けていくような、長い長い欠伸あくび


 いつのまにか、ガゼボの目の前には見知らぬ少女が立っていました。柔らかそうなネグリジェに身を包み、日傘を差して、ふかふかの枕が入ったバスケットを携えています。中でも目を引くのはリスのように大きなふわふわのしっぽでした。

 一華姫が呆気あっけにとられている間、少女はとても眠そうな様子で涙の滲んだ目をこすりながら、ふらふらと佇んでいました。そしてしばらくしてふとこちらの様子に気が付くと、ゆっくりとした足取りで歩み寄り、唐突にぺこりとお辞儀をして言いました。


 「おやすみなさい。」


 「…!?」


 少女はそのまま一華姫のひざの上に倒れ込み、安らかな寝息を立て始めたではありませんか。一華姫は突然の出来事に何が起きたのかわからず体を硬直させながら、眠る少女の顔をまじまじと見つめました。上に乗っかられてしまったのでもう逃げることもできませんが、それはあまりに安らかな寝顔。気持ちよさそうな吐息がくうくうと聞こえて、一華姫はなんだか脱力してしまいました。


 (寝ぼけて私を誰かと間違えたのかしら…?)


 首を傾げつつも、彼女はこの少女が目覚めるまでじっと待っていてあげることにしました。ですが人肌の温かさのせいでしょうか。一華姫のまぶたは次第に重くなり、うつらうつらし始めたかと思うと、とうとう眠り始めてしまいました。彼女がサンクチュアリに来てから睡眠をとったのは、これが初めてのことでした。


 意識を手放す直前、遠くの方を歩く人影が見えました。


 (あれは…マリーゴールド……?)


 それは彼女にはめずらしく、どこか呆然としたようなゆっくりとした歩き方でした。少し気になりましたが眠気にはあらがえず、一華姫はそのまま眠りに落ちていきました。

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