第四章 青薔薇の追憶

第16話 遠き目覚めの日

 「ふぅ…これで全部か…。」 


 たずえた大きなはさみへいに立てかけ、ランは一息つきつつ周囲を見渡しました。青い薔薇で飾られた日よけの帽子をかぶりなおし、近くの花に微笑みかけます。 


 「うん、さすがに少し疲れたよ。……ふふ、そうだね、少し休もうかな。」


 ランがたった今終えた作業とは庭園の修繕でした。なぜだかいたるところに車輪のあとが付いているのを見つけたので、急いで黙々と直していたのです。花たちに聞かずとも、こんなことができるのはマリーゴールドくらいのものです。ランは内心怒りつつ地面の凹凸を埋め、かれた花をよみがえらせ、折れた枝を拾い集めました。


 広大な庭園であるサンクチュアリですが、庭師はラン一人だけ。ここでは花が枯れず、加えてランには魔法のはさみがあるので普段は困りませんが、こうした不測の事態に見舞われると忙しくなるのは必然でした。


 一息ついたランはふと空を見上げました。いつも変わらない穏やかな青。


 「……久々に行ってみようかな、あそこへ。」


 小さく呟くとランは、はさみを手に取り歩き出しました。




 そこは今となっては滅多に誰も訪れることはない、庭園の外れ。大きく育った木立こだちを抜けて、木苺きいちごの茂みをかき分けていくと、もはやランの他には知る者もいない硝子ガラス張りの小さな建物がありました。


 全体をつる性植物に覆われたその建物は、一見すると荒れ果てた廃墟はいきょのよう。ですがランが時折訪れては手入れしているために、滑らかに空いた扉の奥は綺麗に整えられていました。


 棚に並んだびんの中には、たくさんの植物の種や球根が丁寧に保管されています。その横をすり抜け少し進むと、こじんまりとして年季ねんきの入った木造きづくりの机が置いてありました。かたわらには古ぼけた顕微鏡けんびきょうと、黄ばんだ大量の紙の山。ランはその前に立ち止まると、まるでそこに誰かがいるかのように話しかけ始めました。


 「こんにちは。遊びに来ました、百花姫ひゃっかひめ。」


 砕けた硝子の隙間から、甘い匂いの風が吹き込み、ランの前髪を揺らしました。





 人間と違ってドレッサーの誕生の時は曖昧あいまいです。夢の世界であるサンクチュアリと、それに付随して生まれたドレッサー。「気が付いたら存在していた」といった表現が一番近いかもしれません。


 ですがランにとって自分の誕生と呼べる瞬間は明確にありました。そしてそれは同時にこのサンクチュアリがかつて消滅の危機にひんした瞬間でもありました。


 景色が鮮やかに色付いたその時を、ランは今でもよく覚えています。


 頭の中に一気にたくさんのものが流れ込み、駆け巡る、さながら激流のような衝撃の中で、ランは目の前で起こった出来事の取り返しのつかなさを悟ってしばらく微動だにすることができませんでした。 


 言葉もなく立ち尽くしていたのは門番の少女とマリーゴールドも同じでした。門番の目からは涙がこぼれ落ち、それを見ていたランの胸にもじわじわとした痛みが広がっていきました。それが初めて味わう「哀しみ」だったと知るのはずっとずっと後のこと。






 これは目覚めたばかりのランと、とある徒花姫のおはなし。



(こんなの、あんまりだ。)


 静まり返ったサンクチュアリ。暗い顔をして座り込むマリーゴールドの様子を遠くからうかがいつつ、ランはぼんやり考えていました。

 陽光の温かさにも、花々や土の香りにも、この前までは何も感じることはありませんでした。だけど今は、どうしてだろう。こんなにも愛おしい。それなのに。


 (それなのに、もうおしまいなんて……。)


 穏やかに見える世界が、静かに音もなくはしから溶けていくのをランは感じていました。それはサンクチュアリと運命を共にするドレッサーだからこそわかる確信めいたものでした。仕方がない。自分たちは失敗したんだから。あの人を幸せにはしてあげられなかったんだから。“心臓”を失ったこの世界は間もなく消滅していくのです。


 ランはゆっくりとマリーゴールドに近付いていきました。


 「……ねぇ、君はどう思う。どうしてあの人は私たちに心を与え、最後の時を迎えさせたのだろう。」


 俯いていたマリーゴールドはゆっくりと青ざめた顔を上げてランを見つめ、かすれた声で応えました。


 「…そんなの、決まっているじゃありませんか。うらんでいたのですわ。わたくしたちを…自分と同じ目に合わせたかったのですわ。」


 「なるほど、……そうかもしれないね。」


 ランは力なく微笑み、自分の胸に手を当てました。心を与えられなければ、確かに何も考えずに消えていくことができたでしょう。


 「では君も…あの人を、恨むかい?」


 ランの言葉にマリーゴールドは何も答えず、場に再び静寂せいじゃくが訪れます。するとそこに煙のように、突然門番の少女が現れました。先程は涙を流していた彼女でしたが、すでにいつも通りの無表情に戻っています。


 「二人ともわかっていますね、この世界に近付く終焉しゅうえんを。」


 鳥籠を持った彼女は静かな声で話し始めました。


 「確かに何もしなければ、サンクチュアリはもうすぐ消滅してしまうでしょう。だけど私はどうしても、それを止めたいのです。“心臓”は砕け散りましたが、いつかまた目覚めるかもしれません。その可能性がある限り、私にはこの世界を守り通す義務があります。」


 その言葉にランとマリーゴールドは耳を疑いました。


 「一体どうすると?」


 尋ねると、門番の少女は揺るぎない強い瞳で言い放ちました。


 「新しい徒花姫あだばなひめを招くのです。徒花姫さえいれば、サンクチュアリは存在意義を失わず、消滅をまぬがれることができるでしょう。」

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