第8話・風の花

 どうしてランに付いていくことを選んだのか、一華姫は自分でもわかりませんでした。断ることだってできたのに。心を閉ざしてしまえばよかったのに。やはりガゼボに戻ろうか、と足が止まりかけた時、うつむいた視界に真新しく輝く靴がうつりました。

 

 (こんなの…いらないのに……。)


 “かわいそうって、言って欲しいんですの?”


 マリーゴールドの放った言葉が、一華姫の胸の奥でまたちくりと痛みました。


 (そんなんじゃ…ない。私は、ただ……)


 この指先に触れていた、あの人の大きくて温かい手はどこへ行ってしまったのだろう。

 愛しい人がいなくなっても進みゆく世界。一華姫にはとても受け入れられませんでした。そして彼女は自分が変わっていくこともゆるせずに、このサンクチュアリへやってきたのです。永遠に悲しみに身を浸し続けるために。


 「一華姫、もうすぐ着きます。」


 ランの言葉に一華姫は急に怖くなってびくっと歩みを止めました。

 もしもアネモネ畑に辿り着いてしまったら、もう後戻りできないような気がしたのです。

 一華姫にとってアネモネは大切な思い出の花だからこそ、改めて見るのには相当の覚悟が必要でした。


 動かなくなってしまった一華姫を、ランはかさずに少し先でじっと待っていました。そしておもむろに帽子のふちを引っ張って顔を隠すと、ぽつりと呟きました。


 「……最初は、たったの一輪いちりんでした。」


 「……?」


 言葉の意味が分からず、一華姫が戸惑うような表情を浮かべます。

 ランの閉じたまぶたの裏には、いつも飄々ひょうひょうとしていたなつかしい顔が思い浮かんでいました。


 「ずっとずっと昔。私が庭師としてとても未熟だった頃の話です。植物の研究に没頭し続ける、少し風変わりな徒花姫がいました。彼女は庭園に新種の植物をたくさん生み出しました。今向かっているアネモネ畑も、彼女が残した一輪を大切に育て、私がやして作ったものです。」


 その徒花姫がどうなったのかは、聞くまでもなくわかりました。優しい風が吹き、帽子の陰から垣間かいま見えたランの表情を見ただけで、十分すぎるほど伝わってしまったからです。


 初めて二人の目が長い時間、合いました。ランは一華姫にすっと片手を差し出して言いました。


 「一華姫、あなたに見て欲しいんです。あの人のアネモネを。私がずっと守ってきた思い出の欠片を。」


 (思い出の…欠片……)


 一華姫は迷いながらも一歩を踏み出し、ランに近付いていきました。あと三歩、二歩、一歩…。

 慣れない手つきでおずおずと一華姫の冷たい指を引き寄せながら、ランは少しだけ微笑ほほえんだように見えました。


 「…アネモネには“花一華はないちげ”の他にも、呼び方があるのをご存じですか?」


 一華姫は首を横に振ります。


 「アネモネは不思議な花です。あたたかな日当たりを好みながらも、冬の寒さに当たらないとつぼみが付かない。そして春のはじまり、穏やかな風が吹き始める季節に花を咲かせるのです。」


 振り返った一華姫の視界に、鮮やかな色彩が飛び込んできました。


 「だから“風の花”と、そう呼ばれているそうですよ。」


 そよ風に揺れるアネモネ畑のざわめきが、一華姫には歌っているように聞こえました。

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