第26話 遥かなる日溜まりを祈る
鈍い音がして、胡蝶は意識を現実に引き戻された。
「…………」
「……胡蝶……」
顔の正面から、喉仏を貫通して刺さるのは宝石でできた槍だ。血が、口の端から溢れてこぼれる。
〈感情が規定値を突破しました。これにより安全機構が作動します。対象を速やかに沈黙させます〉
機械的な警告音声と共に二本目、三本目、とそれが首を貫く。首から背中まで、次々に貫いていく。獄幻立葵の仕業だ。この体にあいつは、安全装置を仕込んだのだ。
胡蝶は最後の力を振り絞って、左手の薬指に嵌めてある指輪を口で抜き取った。
鉱石には魔力が籠っている。どんなに小さくても、だ。魔力で指輪を噛み砕き、飲み込んだ。最早、執念としか言うことのできないその思いで、彼女は魔法を起動させる。
「“氷葬……酷寒の流星”」
手を握ると同時に、氷の槍が砕け崩落していく。松仙に当たるかは五分五分だろう。
ヴァルハライドのコアである宝石が砕けて地面に落ちていく。胡蝶は目を細めてた。その日差しの中に、彼の面影があるような気がしたのだ。
けれども黒くくすんでしまったそれにはどこにもなくて。なんでか、泣きたい気持ちになった。
「…………灰。臆病なのは、私も同じだ」
飽和した魔力が、緩やかに肉体を砕き始める。
傍にいたいと言うには、あまりにも血濡れていた。
愛していると言うには、あまりにも幼かった。
砕け行くヴァルハライドのコアに唇を押し付ける。
だから今なら、言える。もう取り返しがつかない今ならば。
「………………――愛してる、灰。他の誰よりも」
ああ。
こんなにも死に最も近い場所で、ようやく穏やかに笑えた。
***
拘束が消失した時雨は一足で大きく飛んだ。その両腕を伸ばし、バカな彼女の体を受け止めて、抱き締める。
「時雨、痛いよ」
「胡蝶っ……この、バカ。何故、こんなことをした」
「…………うん。ごめんな」
「バカ……キミまで、ボクを置いてくのかよ」
彼の頭をそっと撫でる。
それでも許せなかったのだと言えば、笑ってくれるだろうか。分かっていって置いていったことも。松仙の裏切りも。全部。最早、何が許せないのか分からなくなっていって。
「……ごめんな。お前に、かつて見れなかった光景を、見せられなくて」
「そんなこと、どうでもいいのに!! だって、だってボクとキミは同じじゃないか……同じ苦しみの上に、生きてるじゃないか」
朦朧とした頭に告げられた言葉に笑うことすらできない。もしそうならばどれ程によかったろうか。
次第に緩やかに冷たくなり始めた手で、彼を慰める。もうそれしかできない。
「胡蝶。生きたいって言え。そしたらボクがどうにかしてやる。生きたいって……生き延びたいって、願ってよ」
懇願するような声で、彼が泣いていた。その透明で暖かい、誰かのための涙がこぼれ落ちて雨のように降り注ぐ。
「…………ごめんな」
「なんで謝るんだよっ……ただ願えばいいだけじゃないか! 願って、生きたいって……それで、どこにもいかないでよ」
「ごめんな。それは、できない」
時雨の頬を撫でる。
時雨と胡蝶は、多分似ていると、胡蝶は思う。
お互いに相容れないと思うところがあるのは、相手の人生をよく理解できてしまうからだろう。自分の人生を俯瞰で見せられているような気持ちになるのだ。
いつだってそう。
自分達は願いを諦めてしまう。
「死にたいんだ。もう、終わりにしたい。苦しいよ」
「……………………」
涙を指先でぬぐった。
「代わりに、ひとつ願いを叶えてやるよ。私の命と引き換えに、さ」
「………………胡蝶」
「ん?」
雨が、明ける。日差しで照らされた彼の表情は曇天のようだった。彼は更に項垂れる。
「キミは、誰かの願いのために生きて、そして誰かの願いのために死ぬの?」
手の動きが僅かに引き留められた。けれども、手を伸ばし、白くてふさふさの頭を優しく撫でる。さわり心地のよい髪は……彼によく、似ていた。
「ああ」
「…………」
「私は、そう言う風に生きるしかないんだ」
どうせ願いは叶わない。どうせ望みは叶わない。
それならばいっそ、望まないで生きた方がずっと楽だ。そして望まないのならば、誰かのために生きて死のう。
望むがままに、望まれるがままに。
それがあの家が胡蝶に定めた命題なのだから。ならばその通りに生きて、死のう。
「こんな燃えかすみたいな命だけど、願いの対価になれるならそれ以上に望むことはないよ。なにより、いつも諦めてきたお前の願いを叶えられるならば……」
時雨は項垂れた。
願わない、と言う選択肢はなかった。そして彼女が望んでいない以上、彼女の生存は向こうが却下してしまうだろう。
「…………ボクの、願いは」
目蓋の裏に思い浮かぶのは、時雨の親友だ。
優しくて、強くて、真面目な旧友。黒髪を靡かせて、勇者ではないけれどといいながら世界を救うために身を殉じた彼の姿。
罪深い願いだと分かっていたから、口に出したことなどなかった。見つけ出して、名前をつけて、慈しんでくれた彼に宛てた感情は名前がつかないほどにいりくんでいて。
時雨のたった一つの願い。
唯一不変の望み。
時雨はその、口先まででかかった望みを飲み干すと、永遠に胸の箱の中に鍵をかけて閉まった。叶えるべきは、きっとそれじゃない。
「……ボクの、願いは簡単だ。胡蝶、ボクの願いは」
夜道に篝火を掲げるように。
新月の夜に星屑が道を照らすように。
夜明けの闇を新星が切り開くように。
どんな絶望の箱にも、必ず底に残るものがある。彼女の持つ、その黒く濁った箱にも何か残るのならば。
それが、希望であってほしい。
「灰を――――――――たい」
願いを口にした時、胡蝶は驚いたように目を見開いた。彼女は多分、自分の胸の内を見透かしていたのだと思う。
「それで本当にいいのか?」
「勿論」
躊躇いはなかった。
後悔もない。
こんな未熟な願いでどうなるかは、時雨にも分からない。そもそも時雨の望みが叶うかも未知数だ。
だけど。それでも。
「例えば、季節が移ろって、未来が変わって、世界が新しくなって、ボクらも変わって……何もかもが、見る影がなかったとしても」
彼女の体の表面に薄いひび割れが入る。もうタイムアップだ。
「…………同じ天地で、また、出逢おう」
叶わない約束だけが残ったのならば、その約束を増やそう。彼女の足の先から緩やかに、蝶が飛び立ち始める。過剰な魔力による肉体の分解だ。
「…………うん。きっとだ。きっと、出逢おう」
穏やかな表情で彼女が笑った。
それまで、そんな顔を見たことがなかった。当然だろう。彼女の生い立ちでそんな表情ができる余裕があるはずがなかった。
彼女はそれから、諦めたように笑った。あまりにも絶望に濡れていて、もう彼女が救えないのは、火を見るより明らかだった。
「ああ、次があるなら……もう二度と……幸せになりたい、なんて…………願わない……」
黄金の蝶が天に向かって飛び立っていく。乾いた音を立てて白骨が地面に落下した。
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