第25話 草木生えぬ荒野だけが《Ⅲ》
例えばこうして対峙した時に、何かを感じられるような人間でありたかった。
裏切られたことに傷付いて、分かり会えないことに苦しんで、大切なものを蔑ろにされたと怒りを覚えて、この原因を強く憎めたなら。
そうあれたなら、どれ程よかっただろうか。
なにも、なかった。
喜びも、悲しみも、怒りも、憤りも、全てが曖昧になり、空白だけが残る。何も感じない。何も思わない。裏切りを咎める気持ちも、ない。
ただ、ああ、彼はそういう人間なのかという落胆だけが胸を焦がす。心が凍り付いたからか。それとも……そもそも、そんな感情、幻想だったのか。
もうどうだっていい。
あまりにも、疲れてしまった。
「可哀想なユキ。本当に、可哀想」
「……なにがだ」
幼い彼女は首をかしげて、ウサギのぬいぐるみを抱き締めている。ホワイトアウトした世界で彼女を胡蝶はただ見下ろす。
「英雄がしょーせんの邪魔になるって分かってたのにね。人は裏切るって知ってたのに。本当はそうじゃないんじゃないかって可能性にすがっちゃったのね」
「ッ…………!! 知ったような口を!!」
「知ったような、もなにもないじゃないですか。私は貴女。貴女は私。そうでしょう?」
言葉をつぐみ、掌に爪が食い込むほどきつく握りしめた。赤い血が皮膚を縫って、流れていく。
「……英雄はなんで排除される」
「邪魔だからよ」
「なんで邪魔になる」
「悪を力をもって廃したから。だから彼らは、次の悪になったのよ」
「………………そうか」
胡蝶は歩き出す。彼女の横を通りすぎて、そのまま暗い、日の差さぬ方へと。彼女は僅かに驚いたように、振り向いた。
「どこにいくの? 彼はそちらに貴方がいくのを望んでないわ」
「それでもだ」
それでも、こちらにいこう。
彼の愛した全てを踏みにじろう。英雄が要らないなどと、ほざけないように、この世の全ての悪を体現して見せよう。
彼女は苦しそうにぬいぐるみを抱き締める。
「……そう。貴女は、また、私をおいていくのね」
「弱い私は要らない。夢を見ていたいだけなら家にでも帰れ」
「…………分かってるわ。それもまた、貴女の選択よ。そして私はそれを……受け入れるわ」
掌で溶ける雪のように、彼女の声も虚空に溶けた。
胡蝶は瞳を開き、掌を天に翳す。
一本の巨大な氷の槍が作り出される。それは先端を螺旋状に捻り、狙いを定め始めた。
「――……胡蝶」
「“
振り下ろされた腕と共に、凶器は放たれた。
落下してきたそれは、地面に落ちた衝撃で無数の氷の破片を撒き散らしながら、氷でできた蓮の花を咲かせた。砕け散った破片は繋がり、蓮の根となり、弾けながら更に花を綻ばせていく。
花弁に触れただけで皮膚から血が飛び散った。松仙は根を滑りながら、花を避けつつ胡蝶との距離を詰める。氷の根は踏み砕き、その破片から更に花が咲く。
殺傷能の高いその魔法は、まる女神のように幻想的で美しかった。氷でできた地獄を越えて、雪煙の中に彼女の影を松仙は目測した。
「ッ…………胡蝶ぉおおおおおおお!!」
咆哮に、胡蝶が首をこちらに向けた。感情を持たない瞳がこちらを補足する。手に持つ棒をきつく、固く、握り締める。勝負は一か八か。ここで彼女の意識を奪えなければ、胡蝶は。
「大地の神に願い奉るッ……この一撃、外すこと」
祝詞の最中、雪煙が一瞬晴れて地面に無数の魔法陣が張り巡らされているのが見えた。
それは、松仙の知らない、黒い光を放つ魔法陣だった。彼女の魔法について、松仙は全て暗記している。彼女が何をどう扱うのが好きで、どのような系統の魔法に秀でているのか。
足元に蜘蛛の糸のように張り巡らされているそれは、彼女の好む穏やかな春のような夢や幻の魔法でも、氷のような冷たく張りつめた威圧的な魔法でも、なかった。
ただ底無しの深淵と底無しの地獄が、顔を覗かせている。彼女はただ無邪気に嗤った。
「分かっていてもどうか、一夜だけは踊ってくださいな?」
「ッ…………!!」
聞いたことのない声音で、感じたことのない雰囲気で彼女が囁きかけてきた。
松仙は即座に祝詞を破棄した。そのペナルティで左腕が痺れる。だが構わない。
「“黒の定理”――」
結界によって、視界に収まる世界の全てが、断面図のように平面化されていく。胡蝶は魔力を指先に込めて微笑んだ。
眼帯の紐を迷わずにほどく。左右で僅かに色味のことなる瞳が見開かれた。
「“破却”」
「“散れ”ッ!!」
松仙の咆哮により、魔力が瞳を煌めかせた。輝く美しい緑が魔力の流れを乱れさせ、胡蝶の魔法を無効化する。散った魔力は花弁となって静かにこぼれ落ちていった。
「…………天衣無縫の心眼ですか」
「胡蝶……どうして」
降り注ぐ花弁の中、今にも折れそうな声で松仙はそう言った。
「どうして?」
「……どうして分かってくれないんだ。どうして、幸せになることを受け入れてくれないんだ。どうして、どうして……胡蝶。願いを叶えてくれる神なんだろう? ならもう、ぼくのために、幸せになることを、受け入れてよ。こんなこと、やめようよ……」
彼女の指先がわずかに震えた。
松仙から聞きたくなかった、その言葉に胡蝶は目を見開いた。彼は気が付かずに、ただ懇願の言葉を重ねる。
「償うから、許してくれ。きみを、傷付けたくない、傷付けさせないで……お願いだ…………」
「……だったら」
罪を償うと言うのなら。
魔力が黒く染まる。破滅と闇の力を込めたそれを松仙に向かって伸ばす。都合のいい、耳障りのいい言葉だけを並べるその男に胡蝶は嗤った。
「死ねよ、松仙」
愕然とした表情で、彼は目を見開いた。
死は死でしか贖えない。彼の代わりはもうなにもない。無数の黒い蝶が飛び立つ。彼は抵抗を止めて、膝をついていた。
「“黒死蝶”」
「掌に拡がるは自己快楽の地獄。平安汚す羅刹の門。独り善がりの罪を、蝕み、啄み、歌いなさい。“地獄開花・
松仙へと群がろうとした蝶を引き裂き、黒い彼岸花が花開いた。引き裂かれた蝶は魔力へと代わりながら地面へと落下する。
「…………彼岸花」
「ずいぶんな変容具合ね、失敗作」
美しい黒髪を揺らしながら現れたのは、獄幻 彼岸であった。彼女は、松仙を庇うように立ち塞がる。胡蝶は顔色ひとつ変えずに見下ろした。
状況を飲み込めずに呆然としていた、拘束されている時雨が大きく目を開く。怒りが彼の精神を焼き尽くすほどに、沸き立った。それはさながら、豪雨のごとく。
「彼岸花ァアァアァアアア!! 貴様ッ、何故ここにいる!!」
「あらあら、種明かしが少し早すぎたかしら」
現れた彼岸は薄紅の瞳を妖しく細める。神返りにより、僅かに拘束が緩くなった鎖を、時雨はその限界まで引っ張り睨み付ける。
「貴様っ、まさか、松仙に何かしたのか……!」
「うっふふふふ、鼻が弱ってらして? 彼にしたマーキングに気が付かないなんて……ずいぶん人間風情に染まってしまったのね。老いたわしや」
「ラジアータ!!!」
「…………どういう、ことだ?」
松仙の問いに時雨が答えを言うよりも前に、胡蝶が指を弾いた。
三人の視線がこちらに向く。
胡蝶の頭上で氷の槍がゆっくりと構成されていく。その瞳はなんの感情も、慈悲も、抱いていない。
「……人格停止。疑似人格システム起動」
「胡蝶……?」
「生命維持システム、停止。防衛機構、停止。人類滅亡理論――立証。私は人間の全てを滅ぼし、この星全てを凍土にする」
瞳が黄金色へと変革し、人間性が損なわれていく。
彼女は一切の躊躇いもなく、人であることを今、捨てた。その事を理解した瞬間、肝がぞっと冷えて、目の前の彼女が喪われていくのが感覚として理解していく。
「”氷葬――」
左手の、薬指の付け根が締め付けるように痛んだ。
まるで引き留めるように、優しく、力強く彼の吐息すら感じるほどに。その優しさと言うにはあまりにも力強い愛情に、凍り付いてなくなったはずの涙が頬を伝う。
灰。
私の願いを気にかけてくれた、誰かの幸福を己の命より優先した優しい人。
貴方は持つ者として誰かを救うのは当然だと言った。人として当然、困ってる誰かを救うべきで、その救える範囲が広いから己はそこまでするのだと。そしてそれを押し付けなかった貴方。
隣にいることを許してくれて、死の責任から解き放ってくれた貴方。
何度でも探してくれると言った貴方。
探し出すと誓った貴方。
どうかもう二度と探さないで。見つけないで。愛さないで。理解しないで。抱き締めないで。
自分はもう十分もらったから。
だからもう、なにも貴方から受け取らないし、奪わない。貴方からの施しは、何一つとして要らない。貴方はどこか遠くで幸せになって。
春の、日溜まりのようなその場所が、永遠に幸福であるように、闇の中で戦い続けるから。
ああ。貴方は優しかったから、きっと考えたこともなかったのでしょう。貴方が死んだのならば、その時はきっと――草木の生えぬ荒野だけが、私の全てになるだろう。
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