第27話 そして事は円環へと至る《 Ⅰ 》

 心地よい静寂が、その茶室を満たしている。

 獄幻 立葵は穏やかに茶を啜っていた。

 例え、その開け放たれた襖から覗く、整頓された日本庭園が幻影だろうと、窓の外と茶室とが時間空間共に隔てた遠い催し物だとしても、彼の心は常に波風立たぬ、穏やかな様子だった。

 不意に窓からぴゅるり、と高い音を発しながら一羽の鷹が立葵の近くの止まり木に止まった。


「全て終わりました、立葵様」

「良くやったな、ハゲ丸。報告をして見よ」

「はっ。報告いたします。獄幻 ■■様は己の命と引き換えに慈雨様の願いを成就なさられ、死亡。慈雨様はその結果、星からの罰を受け常磐の森に無期限の幽閉されました」

「顛末はどうでも良いわ。儂にも同じものが見えておる。それよりも――はどうなった」


 ハゲ丸と呼ばれた鷹は一つ頷く。


「無事、孵化なさりました」

「……はっ、はは、ははは……はははは!! そうかそうか、孵化したか! ははははははは!!」

 立葵の高笑いが茶室に響き渡る。

 彼はそれからハゲ丸の頭をそっと、慈しむように撫でる。だが、その瞳は春か彼方、彼岸を写していた。

「彼岸、孵化したぞ。お前は儂が踊っていると思っているようだが、どだい、それは勘違いよ」

 男は無垢な、ある種凶悪な笑みを浮かべた。

 指先で絡めとる。彼岸など生ぬるい。立葵にとってこの世界はただの広い箱庭。そもそもの視点が違うのだ。

「ここは儂の遊技場。そしてそなたは儂の駒よ……哀れな彼岸だ。儂の思惑など露知らず、踊らされてることにする気が付けず」


 不意に固い音が響いた。廊下に面した障子に豪奢な着物を着た信者の影が写る。

「……立葵様。報告がございます」

 振り向いた老人は――二十代後半の青年の顔をしていた。その顔は胡蝶と良く似ており、髪は薄い金髪だ。日本人とは思えない髪を揺らしながら、彼は笑う。

「いいよ、報告なさい」

「はっ。胡蝶様が御亡くなりになられました。その事について鶴野閣下が助言を求めにいらしております」

「ほう。あの鶴野 松仙がか。ずいぶん殊勝な心掛けだな。通してやりなさい」

「しかし……」

「お前は、儂に意見するのか?」

 年若い当主は小鳥を指先に止めて戯れるように、そう問いかけた。


「儂はこうして封じられているとは言えど、この家の主よ。今も昔もそれが変わることはない。分かるか? この家は儂のために立てたのだ」

「はい。了解しております」

 障子が蹴り飛ばされた。

 立葵は慣れた様子で、若い姿のまま振り上げられたナイフを指先一つで受け止める。指に触れるすんでで見えざる力によって隔離されたナイフに刺客は目を見開く。

「ッ……このように若い子供が……!! 彼岸様を!」

「ほう、彼岸の差し金か。そうさほど予想外ではないがな。だが今日は気分が良い。特別に魅せてやろう」


 立葵は指を弾いた。

 刹那、茶室は宇宙空間に変じていた。

「………………は?」

幻像ヴィジョンよ。弟子に己の魔法の理論を説明するときに良く使うものだ。そして、これが儂の視点よ」


 宇宙空間に生える銀色の大樹の先で戯れる。それは無数の可能性。無数の選択。無数のあり得たかもしれない『モシモ』。


 それは無限に広がる可能性宇宙の――。


「………………な、んだ、これ」

「儂の魔法よ。極上の、な」

「極上? そんな言葉ですまされるものか……かの時計塔の若き天才ダーニック・ラングフォードですら……このような」

「かか。貴様らは本当に人と比べるのが好きよな。儂は他と比べるのは好かん。何故か分かるか」


 立葵は笑う。小馬鹿にしたようなその笑みは、見下すように傲慢で。されど、この景色の主としては相応しく。


「この世はどちらかだ。儂か、それ以外かだ」


 天上天下唯我独尊。

 我こそが世界でただ一人正しく尊い。


 獄幻立葵はそれを心底から信じている。そしてそれこそが彼をここまで至らせた。獄幻家の主にして、その初代家長。二千年生きる化け物。

 魔力で編んだ蝶を立葵は掌に止まらせた。

「特別に儂の魔法を味会わせてやる。最も、味わったことすら忘れるだろうがな」


 掌に止まった蝶が羽ばたいた。ゆらりと、一つ。優雅に羽ばたく。それを力を込めて、握り潰した。


 周囲の景色は先ほどの茶室に戻っていた。立葵は涼しい顔で置いてある、暖かい淹れたばかりの茶を啜る。

「立葵様」

 障子の向こうに

 だが立葵は極めて落ち着いた様子で唇から湯呑みを離した。


「どうかしたか?」

「神子様が御亡くなりになられました。この件について鶴野閣下が助言を賜りたいと訪れております」

 個性の無い、平坦な声が聞こえてきた。先の刺客とは異なるその声に、立葵はただ茶を穏やかに飲む。


「通せ」

「御意」

「ああ、それと楓を呼べ」

「どのような用件でございましょうか」

「行方不明になっておる〈禁忌七宝〉の一つを探してもらう」

「御意」


 ロボットのような単調な受け答えに立葵は満足そうに微笑む。やはり獄幻に仕えるのならばこうでなければならない。

「気分が良いな」

「左様にございますか」

 個でなく集でなければならない。

 立葵がほしいのは立葵と“子供達”に仕える忠実な僕であり、自らの意思を持つものではない。そのような欠陥品、必要ない。


「長かった。これでようやく、要素が揃ったな。後の事は最早、儂の知る由ではない」


 賽は投げられた。

 運命と言う坂を転がり始めた岩は最早、止めることも止まることもできずに転がり、やがて砕けることしかないのだ。


***


 血が、流れていく。

 血が、流れてくる。

 変われない、終われない地獄。


 彼女を、救えないのだ。

 彼女を、救わないのだ。


 この世界は残酷で優しくて惨たらしく慈しみをもって彼女を殺す。救えない。救われない。救うことすら赦されない。


 血の地獄のなか、オレは薄い壁越しに彼女を見つめている。彼女は必死に本にしがみついて、なにかを綴っている。


「……諦めては、ダメ。私が最後の砦なの。終わらせない。貴女の救済は。大丈夫。この世界はダメで、貴女がこの宇宙のどこに逃げても、必ず――必ず、彼は追い付く」


 ああ、そんな風に信じないでくれ。

 そんな風に祈らないでくれ。


「彼は皆を救う。貴女の、自分勝手な救済で彼は赦されたりしない。そして、この星の自分勝手な救済に、彼を使わせたりしない」


 世を刻み、時を刻む万年筆。

 今それが、何よりも憎い。

 介入できるのはたった一度。

 でもその一度は失敗した時だけ。

 君はいったい、どれほどに傷付いてきたんだ。


 なあ、なんで君なんだ。

 君じゃなくても、世界は良かったろうに。


「……それでも私は君の幸福を祈る」

「……それならば私の幸福を捨てる」


 どうして、どうして。

 もう疲れたんだ。諦めてくれ。バッドエンドで良いじゃないか。君が傷付く姿を見るのがいつも耐えられないんだ。


 涙を堪えて、必死にここで待ってる。

 誰も来ない最果ての白。死人の魂だけがたどり着ける最果て。何度世界をリセットして壊したんだろうか。ただ君にできるのは待つこと。傷付いたオレに苦しそうな顔をすること。なあ、どうしてだ。


 責務を課したことをどうして苦しむ。

 それはオレが背負ったものなのに。


 どうして幸福になってくれと祈る。

 誰も君の幸福を祈らないのに、君は、どうして他人の幸福を祈り、この悲劇に謝る。

 君の幸福は、それなら、誰が祈るんだよ。


 お願いだ。もう諦めてくれ。疲れてしまった。もう君が傷付く姿を見たくない。どうして傷付くんだ。君にはただ、優しい日溜まりで――笑っていて、ほしかったのに。


「……ダメ、諦めないで。泣くことも赦さない。だって彼は、私の英雄なの。世界のじゃなくて、私の暮明に日溜まりをくれた……私だけの」


 …………オレは、オレを呪う。

 オレの失敗、間違いを。人を救わずにいきようとすることを赦さない。赦すわけがない。ただ一人、幸福を祈られることすら赦されない人間がここで戦う限り――オレは、彼女を救うために戦わなければならないんだ。


 人を救え。

 救わなければお前の人生に意味はない。

 そうして救った先に、彼女を救えないのなら、その人生には一切の意味がないんだ。

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