第17話 揺れて、歪み、やがて朽ちて《 Ⅱ 》

 いつの間にか隊員がちらほら抜け始めていた。

 遠くで桜華と飲み比べをしてるらしい歓声が聞こえてくる。灰も顔馴染みの兵士と会談しているようだ。


 席に残っているのは、松仙と胡蝶だけになっていた。

「…………胡蝶は、ぼくと出会った日のこと、覚えてる?」

 酒気を帯びて赤くなった頬と酩酊したような、されど落ち着いた声音で松仙がそう訪ねてきた。

「お前の下手くそな日本語ならよぉく覚えてるよ」

「ふふふ、もう、意地悪だなあ、ぼくの銀の弾丸は」

 子供のようなあどけない顔で笑いを溢した松仙の、骨張って傷だらけの手に手を重ねる。


「……あの翌日、胡蝶が、ぼくの世界を変えたんだ」

「あ?」

「…………殺されるかもしれないって怯えるぼくの手を引いて、きみといった廃棄区画は……薄汚かったのに、いつも暮らしてる町と同じ人間がそこにいた」

 同じ人間だったんだ、と言葉を重ねる。

「でも彼らは幸せじゃなかった。きみが、豪語した。ここにいる全てを助けるって。ぼくはその夢が眩しくて、羨まして……憧れたんだ」

 綺麗で、美しくて、正しくて、素敵だった。

 だから憧れて、叶えたいと思った。その素敵な願いの先にあるものを見てみたいと、本気でそう思ったのだ。

「だから、時々不安になる」

「うん?」

「ぼくは、みんなとおなじ目線にいられてる? 良いところの出のぼくは、きみたちと、きちんと視線を共有できてる?」

「…………お前は普通の人間だから、それがきっとお前の強みになる」

 松仙はその言葉に瞳を細めた。


 時計の針が動く。もうすぐ日付が変わる時間だ。そして、多分、終わりの時間だ。魔法が解ける時間なのだ。

「……胡蝶。『貴方、幸せ、願う、ずっと』」

 辿々しい日本語で告げられた言葉に、松仙の腕に銀色の蝶の模様をした、契約の印が浮かび上がった。これは出会った日に刻んだ契約だ。彼が願いを叶えるその日まで――国をとるまで、胡蝶が必ず願いを叶えられるように力を尽くすと言う契約。


 返しの言葉は決めていない。

 そんなものは必要ないからだ。けれども、胡蝶は魔力を込めて声を震わせる。

「……『貴方の幸福な未来を、ただ遠く、祈ってる』……貴方に、出会えて良かった」

 魔力刻印が消えた。


 それでも手を離さずに、握り締める。目蓋を閉じた彼の頭をそっと撫でながら、改めて口を開いた。

「…………本当にありがとう。『お父さん』」


***


 宴会会場を後にして胡蝶は自室の扉を開けた。ベッドを無視して隣の書斎へ足を踏み入れる。

「ずいぶんセンチメンタルな顔をしてるな」

「……ん、早かったな」

 明日の朝までと告げたはずの名簿を夜蝶の手から受け取る。その手はにはまだ、絶たれた松仙との魔力の繋がりを感じる気がした。

「ずいぶん残るんだな」

「アゲハ団員は狂信者ですからね」

「ふん。私に心酔してどうするんだか」

 名簿表を確認して可決の印を押す。

「住所については明日以降、松仙に掛け合うことになるだろうな」

「離反組の中から古都や海外での暮らしに興味があるやつがいないかも探しておいてくれ」

「リョーカイ。んで? 話したいことって?」

「……市井に下る団員のことだ」

 水をがらすのこっぷに注ぎ入れ、精神安定剤の錠剤を机から取り出す。


「これまでアゲハ団員が危険な目にあうリスクがあっても私が直接カバーできる距離にあった。だが市井に下ればそうもいかない」

 生活に二十四時間密着できるわけではない。どうしても以前よりも高いリスクを取ることになってしまう。そして――。

「そして、アゲハは協力してくれる人間を見捨てない。決してだ」

「……おう。分かった。それでどうするつもりだ?」

「非戦闘のアゲハ団員として囲むか……善意の情報提供者として囲むかの二択だと思うんだが」

「異論はないな。だが、どっちにしても恐らく被害は同じだ。アゲハが憎悪を買えば遠くない未来、必ず非戦闘員でも善意の状況提供者も被害を被る可能性がある……が」

 首をかしげる。夜蝶はなにかを考えている。緩やかに張り巡らされていくのは夜蝶の思考の糸だ。

「…………非戦闘員よりも匿名の善意の情報提供者の方が良いかもしれないな」

「なんか悪いこと考えてないか?」

「悪いことはいつも考えてるっつーの。ただ民間に完全に紛れ込ませようかなって思うんだ」

「つまり?」

「なあなあ、胡蝶。この街、獄幻家からもらえねえか?」


 胡蝶は錠剤を飲み込む。そしてコップを、わざと音を立てて置いた。彼女のカラメル色の瞳が己の部下を見上げる。

「交渉するのはオレだぞ」

「だからあんたに話してるんじゃないか」

「…………労いのために、灰のつくったタルトが三つ食いたい」

「どれだ?」

「チーズケーキベースの、イチゴとレモンと……あとは灰のオススメ」

「分かった。そっちはこっちで交渉しといてやる」

 メモに取ってくれたらしい。灰の作るタルトは本当に美味しいのだ……と言うか。灰は物を作るのが異様にうまいのでそのせいかもしれない。そんな気がしてきた。


「…………松仙と、契約を切ったんだ」

「は?」

「契約満了。あいつのほしい願いを、叶えられたからな」

 言葉にならない寂しさのようなものだけが、今やのこっていた。もしかしたらこういうのを、なんと言うか、惜しいとか、悲しいとか、言うのかもしれない。


 松仙の願いの頂を見た。

 今日、見たあの光景こそが、多分彼の願いの頂だ。

 他人の熱と、人々の笑い声、遠くから眺める松仙とその共犯者の二人。誰もが幸せを分かち合っていた。

 明日不幸でも、あの宴の瞬間が幸福であったことはきっと真実なのだ。

「……寂しいって言うのはきっと冒涜だよな」

 あの景色のために、自分の罪があるのなら良かった。本当に、良かった。


「でもそれで終わりじゃないからな」

「どういう意味だ?」

「契約が終わっても、あんたと松仙さんは会う。明日も明後日も関係は続く……分からないでしょうけど、人ってのは目的が終わって『ハイさようなら』じゃねえんですよ」

 そんなこと、胡蝶は知らない。人と人との関係なんて、分からない。理解できない。夜蝶の手が、普段は気張っていて力強い彼女の、幼く小さな頭を撫でる。

「だから、寂しいなら寂しいって言って、甘えれば良いんですよ。寂しいって思うのは、思えるだけの関係だったってことなんですから」

「…………そうか」

 夜の帳が緩やかに、彼女がその後に溢した弱音を覆い隠した。一ノ瀬 夜蝶にできるのはそれだけだ。

 それだけ、なのだ。


 ――夜の闇がごぽりと落ちる。

 胡蝶が夜蝶に思いの丈を打ち明けている頃、松仙はふらり、ふらりと酩酊した足取りで廊下を歩いていた。

 鶴野 松仙は凡人だ。普通の人間だ。至って、普通の。臆病と言えば聞こえは良いが猜疑心の強い男だ。気が弱くて、器は大きいのに、臆病。長として心を殺しその役に徹することのできる男も、仮面を剥いでしまえばただの臆病者だ。


「眠れないのかしら」

「…………誰かな」

 闇に満たされた廊下に響いた声は、甘く熟れた声だ。女は松仙の問いかけに、月明かりの下――顔の見えるところまで出てくる。


 艶やかな美しい黒髪と、ぽってりとした扇情的な唇が笑みを描いた。

「ふふ、ごめんなさい。お疲れと見えたからここから話しかけてしまったわ」

「……誰だい、きみは」

わたくし? 私の名前は彼岸。明日から貴方に秘書としてお仕えする、彼岸ですわ、ミスター」

 悪意と言う種が新たな土壌に溢れ落ちる。

 芽吹くのなど造作もない。如何なる悪環境であろうと、悪意と言うのは必ず芽生えるのだから――そう。必ず。

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