宿業の章 英雄という業
第12話 英雄という業《 Ⅰ 》
夜が更けてきた頃。胡蝶の自室の扉がノックされた。扉の向こうにいたのは、時雨だった。
「どうした?」
「……少し話したくて。今、暇かな?」
「ん、ちょっと待ってろ。上着を取ってくる」
普段着ている黒いコートを迷った末に羽織り、部屋を出た。時雨の後ろをポツポツと歩いていく。
月明かりが石畳の敷かれたアゲハの洋館の中庭を照らし出す。軍部の清掃は時間がかかりそうだからとあの後こちらに招待したのはある意味良かったのかもしれない。
「……胡蝶。ボクは、キミに感謝をしてるんだ」
「なんだよ急に。お前らしくもない」
時雨はただふらりふらりと歩いていく。その声はやけに優しくて落ち着いていた。まるで木々に降り注ぐ夏の雨のように。
「…………〈英雄〉についてキミはどれくらい知ってるかな」
「伝承に出てくる存在ってことくらいは」
「まあ、うん。それで間違いはないんだけどね……」
時雨の声はどこか不安定で暗い、影を帯びていた。
彼はいつもどこか適当だ。彼は神で、人ではない。だからまあ、そうなるのはあるかもしれない。けれども、人間のことをニンゲンというのもそうだし、人でないということを抜いても多分……彼は、雑だ。
まるで期待していないように。
諦めてしまったかのように。
彼は手すりの上に飛び乗るとバランスを取りながらふらりふらりと歩いていく。
「……〈聖剣〉って言うのがあってね。聖剣は英雄を選ぶんだ。いわゆる、担い手を選ぶの。そしてその担い手は世界に奉仕することを義務付けられる」
この星の防衛機構のひとつだ、と時雨は付け足した。仮に人が滅ぼうとも星が滅びることなく持続できるようにするためのシステム。防衛機構。
「昔、ボクを見つけてくれた人がいた。その人はボクに名前をくれて、そして……命と引き換えに、星を守った」
息を思わず飲んだ。時雨はただ遠い空の彼方を見つめている。なにを思って、なにを描いてるのだろうか。その果てのない空に。
「聖剣に彼は選ばれた。選ばれていた。彼は、人のために死ぬことを定められていたんだ。でもボクは、それが彼の決断ならって……彼が、それを選ぶならって……思ってた。最初の百年が過ぎるまでは」
顔を覆い、身体を彼は丸くする。言葉にならない苦痛を耐えしのぐように、頭を掻きむしる。
「誰に救われたのかも忘れてッ……誰が死んだのかも忘れてッ! ニンゲンは!! 彼のことをすっかり忘れた!!」
誰のお陰でこの世界が存続できているのか、忘れきって。それどころか、まるで悪者のように。無数の英雄を彼らは使い捨て始めた。
「彼らを贄として世界の安寧を祈り始めた!! 命は命だろう!! 消費して良いものじゃない! 死んでくれてよかった、なんて……死んでくれ、なんて」
恵みの雨はあまねく全てを見つめる。
英雄に彼らは言った。死んでくれ、と。
お前が死ねば世界は安定するのだと。
誰のお陰でこの世界があるのだ。誰のお陰でこの未来があるのだ。彼らの犠牲を少しも省みないで。
雨足が強くなっていく。恵みの雨が損なわれていく。ニンゲンへの憎悪が強くなる。自分勝手で、なにも考えていない、忘却するだけの、空っぽの脳みその、怪物どもが。
許せない。許してあげてくれ。許せない。許したいんだ。許せない。赦せない――許さない。
「…………そんな時に出会ったのが、灰だった」
赦せない、赦さない、そんな存在の幼体。
看取ってから食らってやろうと、そう思った。傷だらけで、こんな子供すら彼らは食い物にするのかと、雨の音で思考の全てが掻き消されて。
「……………………あったんだ」
「なにが」
「黄金の印が……聖剣に選ばれた英雄の証明が」
腕に刻まれていたんだ、と泣くような声で彼は告げた。
怒りとも、憎悪とも、悲痛とも、慟哭とも、解らない無数の感情が胸を占めた。それでも、そう、ようやく会えたのだ……と、思った。
「ボクの希望。ボクの光。一目見て分かった。この子を生かさなきゃいけない。この子を殺しちゃダメだ。この子を、星の贄になんてするものかって」
「時雨」
「血を分け与えた。そして、森の奥深く……誰も触れられぬ恵みの雨の底に、しまいこんだ。そして聞いた。何度も確認した。確認するのが怖いけど、せずにはいられなかった。キミは……」
キミは、生きたいよね?
掠れた声で、その言葉を口にした。
時雨は星に近い存在だ。人のための、人による神ではない。神そのものが星による、星のための存在だから。だから、灰が嫌だと言えば手離さなければならなかった。
だからこそ何度も、何度も、何度も。
死が恐ろしいと、死にたいと思わないように、無私の奉仕の愚かさを、教えてきた。或いは最後、肉親の情でも良いから、時雨のために生きることを選んでくれたのならば、それで……それだけでいい。
「多くは望まないよ。彼が生きてればそれでいい。世界全部が敵に回っても知るものか。あの子はボクの子だ。あの子はボクが守る。寿命で死ぬならまだしも、殺されるなんてそんなの、許さない」
憎悪は灰への愛へと変わった。執着は愛しい庇護欲へと変化して、雨は恵みの雨に戻った。
恐怖と常に板挟みだったけれど、時雨はそれでも逃げなかった。
「……灰にはね、ボクの英雄の血が流れてるんだ。ほんの少し、とても薄くだけど。だからボクはますます怖かった」
「…………おう」
「だから灰が、キミに興味を示したとき嬉しかった。彼が生きる理由がまた増えたって……でも、もっと嬉しかったのは、キミが灰に笑顔をあげたことだ。それだけは、きっと父親のボクにはできない」
銀髪が月明かりに浮かぶ。
松仙と胡蝶と桜華と灰。笑い会ってる光景を見たときに、時雨の心は満たされた。
「……バカだな。アイツが笑えるのは、お前が守ってやってるからだろ」
「へへ、そうかなあ」
「だから、きちんと傍にいてやれよ」
キョトンと、目を丸くする。
空の彼方で瞬く星を見ながら……散っていった、散らした命を考えながら。
「お前もいるから、アイツは笑顔なんだ……傍にいてやれよ」
「…………なんでもお見通し?」
「さぁな。ただ……オレにはちと、アイツは眩しすぎる」
彼はまるで星のようだ。その清く正しくあろうとする姿が、業に濡れてなお、そうあろうとする姿は……血溜まりでぐちゃぐちゃに濡れた胡蝶には、眩しすぎる。
「ま、そう言うことだ。私は部屋に戻るけど、時雨はどうする?」
「もう少し、星を眺めてからきちんと戻るよ」
時雨の言葉にヒラリと手を振って答えた。
「……胡蝶。ありがとう」
「ん」
部屋に戻るために廊下を歩く。当たり前のことだ。だが、足が進まなかった。夜のまだどこか冷え込む空気が肺を真空のようにしていく。
「…………」
終わったのだ。彼があの話をしたのはのは多分、もう灰の命が脅かされることがないと実感したからだろう。
終わった。戦争は終わった。
それでも指先がまだ強ばっている。ガラスに映るのはネルシャツを着て、コートを羽織った痩せた子供だ。引き金の感触と、血の温度を思い出す。
「…………最悪だ」
戦争は終わった。
英雄はエンディングの横断幕を飛び越えて、称賛の嵐の中で笑っている。
ならば胡蝶はどこに行く?
ならばここに、居場所はあるのか?
廃棄区画で育った子供が、今更、普通の人生を歩めるのか?
見えない足枷が、この長い廊下の果てまで延びているような気がした。そしてそれが、二度と逃れられないものであるような気がした。
顔を覆って呻く声には、闇ですらも答えなかった。
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