第6話 獄幻家
カコン、と鹿威しの音が鳴り響いた。
美しい庭園に響き渡る美しい音にも、皺と髭を蓄えた老人は決して動じなかった。ただ粛々と茶をたてていく。
不意に、茶室の襖が開き彼岸が現れた。彼女はベールを脱ぎ去り、その美しい黒髪を日の元に晒す。
「座れ。話があるのだろう」
「ええ、勿論」
勧められるがまま、彼岸は老人と向かい合うように置かれた座布団の上に正座をした。そして差し出された茶を一口含むと、美しい微笑みを浮かべた。
「……どうやら、貴方の最高傑作は早々にこの家を見限ったようですわね。獄幻
向かいに座る老人は、シワだらけの頬を無理矢理持ち上げたような笑みを浮かべる。心からの笑みであろうそれは、皺だらけの、若い時の面影を見えぬ顔ではひきつった笑みに映るのは何故だろうか。
「関係ないわ。あやつがわしらを見限るのであれば、それはしょせん人の心に縛られた偽りの神に過ぎぬ代物であったと言うこと。その点、そなたは違うであろうな、
日の光に照らし出されたその顔は、胡蝶の顔とよく似ていた。最も、細部は違うが。
あれの底冷えした、世界を静観し、それでいて注視するジト目のような目は、男を誘惑するような甘い視線をこぼしつつ獲物を狙う垂れ目となっている。
あれの一文字に結ばれて世界の情報を単調に飲み干すだけの声は、甘く香る果実のような女の声へと変わっていた。
思惑の読めぬような淑やかな笑みでこちらを見つめるそれは、ただの狐の皮だ。本性は人間の心臓を食らう、おぞましい化け物である。
「ふふ、厳しいお言葉。この彼岸もしょせんは偽りの神にありますか? ふふ」
「バカなことを言う。それとも、耄碌したとはいえ全てを見通すこの目を欺けると、そのように思うておるのか? ラジアータ」
彼女は、笑みを崩さなかった。
立葵はいまや骨ばかりとなった手でそっと茶碗を手に取り唇に押し付けた。この程度で演技を崩すような者は獄幻家では生き残れない。
獄幻家には十二人の“娘”がいる。死んだのを数えればきりがないが、生きているものだけならば十二人。
現在は鬼灯家に養子相続をし、いずれ獄幻家を率いる九人衆と並ぶとされる鬼灯 桜華。
失敗作と扱き下ろされているが紛れもなく最高傑作である獄幻 胡蝶。
メルカトラ家により悲願のために身を粉にしている極彩色の魔女であるレム・メルカトラ。
他の九人を取っても決して劣るところのない娘ばかりだ。
そして、その中の一人にいるのがこの女。
男を誘うような女だが、同時に捕食者でもあるこれは立葵の最大の悩みの種。舵の取れない乗り物など、道を違える理由にしかならない。
で、あるならば。
「好きにせよ、彼岸」
その言葉を、くれてやった。
彼女の瞳が今度こそ見開かれる。意外だと言わんばかりな視線を無視する。
「良いのかしら? 私の好きにすると言うことは」
「よいよい。くれてやる。そなたの思う浄土をこの世に築いて見せよ、彼岸」
嬉しそうに持ち上げられた唇をよそ目に立葵は静かに茶を飲み込んだ。
「ふふ、ふふふ。お爺様、貴方は本当に何もかもお見通しなのですね」
「儂にとってこの世は最早、現の形をとどめてはいない。そなたにも感じとれぬものよ。故に儂はただひとつ、唯一にして絶対の『救済』を求むのだ」
人は、神なくしては生きてはいけない。
信仰はそれすなわち、生きる糧であり人生の支柱だ。神がないと語るのも、それもまたひとつの信仰の形であるなれば。
「儂は既存の神は要らぬ。しかし、人全てが神になればよいとも思わぬ。彼岸。神は一人で充分だ。そして、その神は人に尽くし、人のために生き、人のために死ぬ者でなくばならん」
「ええ、お爺様。存じております」
「そして善き方へ導くだけが救済ではない。儂は魔法師としての義務として、儂の救い方でのみ人を救おう。他の家のやり方など知ったものか」
獄幻家当主はそう言って嗤う。
彼岸をもってしても殺せぬ男は、嗤う。
獄幻家は、極東にあるにも関わらず世界的に人類社会の保存、魔法の発展に貢献し続けている。そしてそれは永劫、変わらないだろう。故に、その義務から外されている。それを果たすことを除外されている。
だから立葵は言ったのだ。
己を救うために、己だけを救うために、世界を捨て去ると。
彼らは隠遁する賢者。〈久遠の金剛石〉と呼ばれる獄幻家の、その由来となった男はエゴで世界を消費する。
「のう、彼岸。やってみよ。そなたが興味を持った唯一の、我が家の悲願、そなたに預けてやろう。して、そなたは儂に何を見せる?」
「…………ふふ。無論、救済をなしますわ」
彼岸は立ち上がり、茶室を後にした。
立葵は思わず笑ってしまった。ああ、ああ、ああ! 何度やろうともこの瞬間の笑いが堪えられない。
彼岸。哀れなる彼岸。
あの女をこそ、真に道化と呼ぶのだ。
「儂は賽を投げたぞ。そなたは今度こそ、この極みに上ってこれるかのう? なぁ、胡蝶よ」
雨垂れでも穿てぬ金剛石は大局を前にしようが、終演を解き放とうが、決して砕けぬし決して動かない。
水がかかった蝶が、縁側の床の上でしばらくもがいていた。だがやがて、動かなくなった。誰も訪れぬ茶室で、立葵はただ待つ。
始まりにして終わりの、その時を――。
***
「あ、遅かったな」
長野基地から辛うじて脱出した二人を出迎えたのは、胡蝶が特効するときにヘリコプターの操縦をしていた男だ。
夜の帳のような髪を顔の両脇から前に流した、黒いマスクを着用した男だ。礼服を着てはいるものの、ネクタイは外され、ベストは全開になっている。ずいぶんルーズな着こなしだ。
夜明けの空のような瞳が瞬く。
「一ノ瀬。お前が迎えに来たのかよ」
「俺じゃあダメなのかよ。ったく……」
胡蝶より十五センチは高いこの男はそう言って頭を抱えた。大男が頭を抱える様は実に情けなくて楽しい。ちなみにこの中で一番背が高いのは灰だ。
「構わねえけどよ……おい、しの。体調は?」
「別に悪くはないとさっきから言ってるだろう。全く君は過保護なんだよ」
「鏡でも見えてンのか?」
揶揄えば彼は顔を不愉快そうにしかめた。
「……で、ボス。アゲハの洗浄部隊連れてきましたけど、この施設、洗浄が本当に必要なんすか?」
「中見てお前が決めろ。オレは必要だと思う」
くいっ、と入り口を示せば夜蝶はあからさまに疑惑の念を浮かべて基地の入り口に踏み込んだ。どうせ写真を撮って隊長……
多分あいつゲロ吐くな、と胡蝶は嗤った。
案の定、入ってすぐに駆けて夜蝶が出てきた。
「な、なんなんだよ、あれ!!」
「見ての通り、モツだよ」
「モツゆーな! 食欲が失せるだろ!」
食料と結びつけたそっちの方が異常だろう。夜蝶はため息をついて清浄を指示し始めた。
「そういや、松仙さん、バリバリに怒ってましたよ」
「は!? なんで!?」
灰がその言葉にため息を付いて胡蝶の過ちを指摘することになった。
「まあ、施設の洗浄費用だろうなあ……。胡蝶、早く帰るぞ」
「あーーー?! なんでだよー! 長野! 観光! 観光! 長野!」
「だーめ、次回にお預けだ」
「そう言ってますがあんたら、先日京都行ってきたでしょう」
「っ!!? なんで知ってんの!?」
「逆に運転席にいた人間がなんで知らないって思ってるんですかねえ!!?」
肩を落とす。長野観光はどうやらまたの機会になるらしい。とっても期待していたのに、残念だ。
「……仕方ない。帰るか…………千葉へ」
へろんとした胡蝶はまた、大袈裟にため息をつくのだった。
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