第5話 インターナル・ヒロイック《Ⅴ》

「胡蝶」


 不意に目を、覆われた。彼の体が異様に側に感じて不意に体が固くなる。ガチガチの、緊張で。

「あれは聞いてはダメな方だ。耳を貸すな」

「あらあらあらあらあら、ふふふふふ、ほんと、失礼な方ね……何度星が巡ろうと失礼なモノは失礼ってことかしら」

「……悪い、しの」

 妙な精神汚染のようなものに一瞬、心がのまれかけた。無条件の誘惑のようなもの、だろうか。その手の魔法は多すぎて逆に見当がつかない。

 手を目から離されて息を吐く。幻の感情に突き動かされれば、待っているのは悲惨な終わりだけだ。


 それを望んでいない。

 だからこそ冷静に。己を見失ってはいけない。その枠組みから離れ、人であることを手放してはならない。

「で、誰なんだお前。ジジイ関連か?」

「ああ、そう言えば名乗ってなかったわね。じゃあ名乗りましょうかしら」

 女は唇を持ち上げた。


 幾度、星が巡ろうとも。

 幾度、世界が再臨しようとも。


 その因果はまるでたおやかに結ばれた運命の糸のように、心臓の中枢まで伸びる。


「初めまして、こんにちは。私はラジアータ。リコリス・ラジアータ……或いは、伝播する悪意。自己愛の権化。自己浄土。放射状に拡がる邪神、なんて、これまで多くの名て呼ばれてきましたが……でもどうか、今だけは。この仮姿の時だけはこのように呼んでくださいな」


 リコリス・ラジアータ――改め、 は手を合わせて微笑んだ。


「どうか、彼岸、と。彼岸花の彼岸、とお呼びくださいな」


 揺れる黒髪の彼岸は、まるで純粋な乙女のような表情で微笑んだ。

「人間が付けた名ですけれども、存外気に入っているのよ、これでもね」

「やっぱジジイ関連じゃねえか。くそが。勧誘なら他所でやれ。オレはパスだ」

「ジジイ……? ああ、お爺様のことかしら?」

 全くその通りだ。確認するまでもないだろう。

 獄幻家の当主。年齢はとうに五百歳を越えていると言われている。胡蝶からしてみれば己を捨てた憎き親のような存在でもある。


 最も、獄幻家当主である獄幻 立葵たつきの真に恐るべきことは不老不死が魔法によるものではなく、単なる偶然的なものだと言うことだ。

 つまり当主は、超健康長寿お爺さんだった、と言うことだ。胡蝶にとっては忌々しい話だし、戦ったところで勝てる見込みもないわけし、今もピンピンしていて死にそうにもないわけだが。


「でもお爺様のスカウトを断るなんて」

「意外、とでも言うつもりか? あの家の教育方針は一貫してるからな。そりゃあの家にいる人間にオレは新鮮に映るだろうよ。反吐が出る」

 獄幻家は魔法師の一族だ。

 彼らは目的のためならば命を費やすことに躊躇いを持たないように、育てられる。自己の願いなど二千年の悲願に比べれば安いものだと、幼少の頃に教え込まれる。

「では、貴女はあの家を棄てるの? あの可哀想な、哀れな家。二千年の行進は砂漠を羅針盤なしに歩く行為に等しい。奇跡なのは彼らが目的地を決して違えないことだけ。二千年で更新されることも、中断されることもなく、ただ同じところに向かって歩き続ける、あの憐れな家を」

「はあ? 先に棄てたのはそっちだろうが」

「……確かに捨てたわ。貴女が使えなかったから。貴女が失敗作であったから。でもならば認めてもらえたことを喜ぶのではなくて?」

「確かにお前らはオレを廃棄区画に棄てた。だがそれ以前に既に捨ててるんだよ。だから、二度だ。二度、お前らはオレを捨てた。そして棄てては何度も拾いに来る。なら最初から願い下げだね」


 捨てられたのならばそもそも拾われたものにのみ仕え、この力を振おう。それが捨てたものに敵対するのだとしても――構うものか。一才の躊躇いすらそこに与えてやることはできない。

 それを可哀想な関係というのも部外者の勝手だ。


「ま、いいわ。興味は尽きないけどその程度ね」

「おい、なに立ち上がってるんだよ。この天草の種明かしはどうしたんだよ」

「ああ……だめ? それやらなくちゃ。それはただの模造品よ。獄幻家が考案したのだけれど……使えなかったわね、これ」

 彼岸の言葉に心当たりがあった。

 そういえばジジイもとい立葵がそんなようなことを言っていたような気がする。


 魔法師の大義は「人間社会の保存及び存続」だ。

 そのために彼らは有り余る力を振るうことをよしとしている、らしい。胡蝶の戦闘行動も一応そうとられているそうだ。もっとも応急措置に過ぎないわけだが。で、その流れで未曾有の危機を救うために旧い英雄を蘇らせるだとかなんだとかは無いしていたような気がする。


『何か思いついたら話にきなさい。報酬がいくらでもだそう』

 とは立葵の言葉である。もちろんその場で断ったが……こんなふうに爆弾を軍部に放って協力した、とか言われても腹が立つな。


「……最初に呼び出すのはギリシャの英雄とかにしておけ。それか騎士だ。なあ、灰。義務感の強そうな英雄って心当たりはあるか?」

「ふむ。ヘラクレスとかかね? 知名度はあるし、狂ってさえいなければ、ある程度制御が可能だろう」

「ヘラクレス? カブトムシか? ま、いいわ。製造段階で世界が危機だとインプットした方がいいかもな。なるたけ助力を乞うような形にしておけって伝えておけ」

「あら意外。助言はくれるの?」

「こんなことが何回あっても見ろ。溜まったもんじゃねえ。こっちは少人数でやってんだよ」

 まあ……じゃっかん、立葵の策略にはまったような気がしなくもないが……嘘だと思う。多分。


「そう。まあいいわ。欲しいものは手に入ったもの。私は私のためだけに生きるわ。だからそう、いずれまた因果の道が重なったときに私たち出会いましょう。それまでどうか健やかに――日々を謳歌することね」


 真意を問いただそうとした瞬間、彼岸の体は赤く光る光の粒となって消えた。

 ため息が思わずこぼれる。

 不穏な言葉を残して消えた彼岸。警戒はしていたが戦闘行動に発展しなかったのは不幸中の幸いといえるか。なにせ彼女の力は、決して推し量れなかった。

「…………帰るか」

 妙な疲労感と共に胡蝶はそう告げた。

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