14 ただひとつの願い



 ルディオの指先が頬に触れる。

 冷気にさらされて冷え切った肌に、じんわりと温かさが染みわたっていった。


「……なにをしていたのかは聞かないが、もう少し自分の身体を大切にしてくれ。さすがに冷えすぎだ」


 その言葉はどう取っても、シェラを気遣うものに他ならない。

 レニエッタが彼を支配してまで、わざわざこんなことをさせるとは思えない。これはどう見ても、彼は自分の意思で動いている。


 聖女の力は、基本的に同じ聖女には通用しない。

 シェラがレニエッタの記憶を見ることはできないし、レニエッタがシェラを操ることもできない。

 だが、ルディオは普通の人間だ。

 現に、彼と初めて会ったその日に、シェラは記憶を覗いている。


 そんな彼が、どうしてレニエッタの力に抗えたのか。考えても考えても、答えが出ることはなかった。


「聞いているか? 寒さで思考まで凍ってしまったなんてことは――」

「き、きいてます!」


 慌てて返事をすると、彼は安堵の表情を浮かべる。


「少し目を離した隙にこれでは、まったく放っておけないな」


 目尻を下げながら苦笑を浮かべたその顔に、優し気にシェラを見るその瞳に、どんどん鼓動が早くなっていく。

 自覚してしまった気持ちは収まることを知らず、あふれていくばかりだ。


「すみません……また、ご迷惑をおかけしました」

「わかっているならいい。それに、振り回されるのも悪くはないな」


 俯きがちに謝ると、彼は手のひら全体で、シェラの頬を包み込むようにして撫でた。


 その優しさが胸を抉る。

 ルディオにとってシェラは、国の利益を守るための都合のいい存在でしかないはずだ。


 彼との婚姻は言ってしまえば契約婚のようなもので、そこに愛はない。

 お互いの利益のために、お互いを利用する。二人の関係は、それ以上でも以下でもない。


 それでいいと思っていた。

 ……いいと、思っていたのに。


 加速的に落ちていく恋は、解放されたばかりのシェラの心臓を再び締めあげていく。

 胸が痛くて。……痛くて。


 涙を堪えるように顔を歪めたシェラを見て、ルディオは少しだけ目を見開き、驚いた表情を浮かべる。

 それから、そっとシェラの頭を抱き寄せた。

 目の前に、彼の上着の胸元が見える。一気に近づいた距離に、さらに鼓動が早くなるのを感じた。


「何があったのかは知らないが、怒りたいなら怒ればいいし、泣きたいなら泣けばいい。君にはそれができる。私の前で、我慢しなくていい」


 優しくしないでほしい。もう、触れないでほしい。

 そう叫べれば楽になれるのか。


 ――無理に決まっている。

 本心では、心の奥底では、真逆のことを考えているのだから。


「っ……」


 両手で彼の服を掴み、その胸に顔を押し付けた。

 あふれ出る感情のままに涙を流すと、堪えきれなかった嗚咽がもれる。


 あなたの心がほしい。


 使い捨てで、死にぞこないのわたしでも。

 あなたを騙して、そばにいるわたしでも。

 この命が、長くはないとしても。


 ――あなたの心が、ほしいのだ。


 初めて、声をあげて泣いた。

 嗚咽のたびに上下するシェラの背中を、彼は何度も何度も優しく撫でてくれていた。




 どれくらい、そうしていただろう。

 時間にしたら、数分程度かもしれない。


 ひとしきり泣いて落ち着きを見せたシェラに、ルディオは控えめに声をかける。


「そろそろ戻ろう。ずっとここにいては、本当に風邪をひいてしまう」

「はい……ありがとうございました」

「礼を言われるようなことはしてないさ」


 そう言って彼はハンカチを取り出し、シェラに手渡して立ち上がる。泣き顔を見ないように配慮してくれたのだろう。

 受け取ったハンカチで涙を拭う。


 それから立ち上がろうと腰を浮かせたが、また床に沈み込むことになった。泣きすぎたせいか、うまく脚に力が入らなかったのだ。


 床に尻もちをついたシェラを見て、ルディオは苦笑を滲ませた声で言う。


「立てないなら、抱えていくことになるが?」

「立てます! 歩けます! 大丈夫です!」


 ホールから出るには、会場内を通るしかない。さすがにバルコニーから会場の入り口まで、彼に抱えられたまま通り過ぎる勇気はなかった。


「そうか、残念だ」


 冗談を言う彼の言葉は聞こえなかったふりをして、無理やり脚に力を込める。途中ルディオが支えてくれたおかげで、なんとか立ち上がることができた。


 その時、顔を上げたシェラの頬を、ひとひらの白い羽のようなものが撫でる。

 それは熱によって、水滴へと変わった。


「……雪?」


 上を向くと、灰色に染まった夜の空から、小さな雪の結晶が舞い落ちてくるのが見えた。

 隣にいた彼も、同じように空を見上げる。


「雪……か」


 彼は眉間にしわを寄せて、少し険しい顔つきをした。

 それからシェラの腕を引いて、会場内へと促す。


「どうりで冷えるはずだ。早く戻るぞ」


 腕を引かれるまま、ルディオの後についていく。

 初めて会った日に見た、彼の背中を思い出した。


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