13 聖女のいたずら
全身の血の気が引いていく。
いやな汗が、背中をつたった。
「そんなことが、許されると……?」
「ゆるすも何も、それがバルトハイルさまのためになるなら何でもするって、あたしは決めたんです」
闇を映したような黒い瞳に射抜かれる。
彼女は彼女なりに、覚悟を決めているのだ。聖女の力を行使した先に、何が待ち受けていようとも。
この少女を、レニエッタをルディオに近づけてはいけない。
出来うる限りのことをして、彼から遠ざけなければ――
そう決意したシェラの名を、低い男性の声が呼ぶ。
それはとても恋しくて、いま一番聞きたくない人の声だった。
「シェラ」
ゆっくりと振り返る。
声の主は、少しだけ不機嫌さを滲ませた顔で言った。
「ルーゼに呼ばれて急いできてみれば、そんな格好で何故外にいる?」
「ル、ディオ、さ、ま」
震える唇で、辛うじて名前を紡ぐ。
彼はバルコニーの入り口で腕を組みながら、シェラたちを見ていた。
あの位置からなら、こちらの会話は聞こえていないだろう。
だが、問題はそこではない。
彼をここに来させてはいけない。レニエッタの近くに、来させては。
後ろにいたルーゼから何かを受け取り、ルディオはバルコニーへと足を踏み出す。
「ルディオさっ――」
「ルディオ殿下」
慌てて止めようとしたシェラの声を、隣にいたレニエッタが遮った。
「あたしがシェラさまとお話ししたくて、付き合わせたんです。すみませんでした、もう戻りますね」
一礼して、レニエッタはバルコニーの入り口へと、早足で歩いていく。
止めようと伸ばした手は、空を切っただけだった。
向かい側から歩いてきたルディオとすれ違う瞬間、レニエッタの身体がぐらりと揺れる。
「きゃあっ」
悲鳴をあげてバランスを崩した彼女は、そのままのルディオの胸に倒れ込むように沈んでいった。
彼は驚いた表情を見せながら、片手でレニエッタを受け止める。
「しっ失礼しましたっ。歩き慣れない靴でつまづいてしまって……」
申し訳なさそうに謝ってはいるが、今のはすべて彼女がわざとやったことだろう。
聖女の力を使うために。
彼を己の人形とするために。
二人の様子を、シェラは声も出せずに見ていることしかできなかった。
レニエッタによる支配は、触れた一瞬で終わってしまうから――
「……ルディオ殿下、くじいた足が痛くて歩けそうもないんです。あたしを部屋まで運んでくれませんか?」
わざとらしくか細い声音で、要求を口にする。
一国の王族に運ばせるなど非常識もいいところだが、彼女に支配されてしまえば、それは絶対になる。
がくがくと一度震えだした身体は止まることを知らず、シェラはその場にくず折れた。
自分のせいで、彼をレニエッタの支配下に置いてしまった。
シェラがすぐにバルトハイルのもとに戻っていれば、こんな事にはならなかったかもしれない。
絶望に似た感覚が頭を支配し、目の前の二人を見たくなくて俯いた。
一筋のしずくが頬をつたう。
――それは、こぼれ落ちたしずくが、床にはじけるのと同時だった。
「あっ……!」
小さな悲鳴に顔を上げると、レニエッタが床に尻もちをついているのが見えた。
彼女を支えていたルディオの腕は、いつの間にか離されている。そのせいで、床に倒れ込んでしまったのだろうか。
彼は何事もなかったかのように、目の前の少女を見下ろしていた。
その緑色の瞳は、恐ろしく冷たい光を宿している。
「痛がっているようには見えないが? 歩けないなら、人を呼んでやる」
感情のない低い声で告げて、レニエッタを睨みつける。
その誰をも寄せ付けない威圧感に、視線を受けとめた少女は顔色を変えた。
「ど、どうしてっ……」
「どうして? それはこちらの台詞だろう。なぜ私が君を運ばなければならない? 手を借りたいなら、自分の夫に頼むんだな」
冷え切った声で告げて、ルディオはルーゼを呼ぶ。
「バルトハイル王を連れてこい。王妃が怪我をしたと言えば、さすがにやってくるだろう」
「御意」
「まっ待って……!」
慌てて静止の声をあげたレニエッタの顔は、蒼白に染まっていた。
見開かれたままの黒い瞳が、心の動揺を表すように揺れている。
「だ、だいじょうぶ、みたい、です。自分で歩いてもどります!」
勢いよく立ち上がり、そのまま会場の中へと走っていく。
その様子を見ていたルーゼが、あきれた声で言った。
「歩けないどころか、走れるじゃないの」
意味がわからないとでも言うように、首を傾げながら肩を竦める。
「ルーゼ、先に戻って部屋を暖めておいてくれ。目的は済んだ、早めに宮に戻る」
「了解」
ルーゼを帰し、彼はバルコニーの奥まで歩いてくる。
蹲るようにして座り込んだシェラを見下ろして、大きく息を吐いた。二回ほど深呼吸を繰り返してから、床に膝を突く。そのまま手に持っていたものを、シェラの肩にかけた。
ふわりとした柔らかい感触が、むき出しの肩を包み込む。その温かさに、自然と吐息がこぼれた。
これはシェラの私室からドレスと一緒に運び出した、冬用の外套だ。入用になるかもしれないと回収したものを、ルーゼが持ってきてくれたのだろう。
まさか、こんなに早く使うことになるとは、思っていなかったが。
そんなことを、冷静に考えていた。
冷静にならなければ、今のこの状況をどうしても信じられなかった。
レニエッタの動揺からして、彼女が聖女の力を行使したのは間違いないだろう。
それならばなぜ彼はここに、シェラの前に、いるのだろうか……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます