冬原智雪の孤独な青春

第1話 孤独な道

 家には私を除いて誰もいない。

 居間にあるグランドピアノでシューマンの『ピアノソナタ第一番』を演奏し終えると、私はゆっくり静かに鍵盤蓋を閉じる。


 時刻は午後八時。外は小雨が降っている。


 最近、心が落ち着かない。自分の心が何かに我慢しきれなくなって破裂しそうな感じがするのだ。

 こういう時、私は夜風を浴びながら散歩することにしている。


 私は黒いトレンチコートを羽織ると傘を持って外に出た。


「ふふ、気持ちがいいわね」


 気温は摂氏23度と言ったところ。湿気っぽいが、心地よい空気だ。

 夜の住宅街は静かで、優しい風と家から聞こえる暖かな笑い声が私の耳を愛撫する。そんな美しい夜の時間にうっとりしてしまう。

 私は公園へと向かった。そこは中心に大きな池があって、夜にランナーが健康目的に走るような広々とした場所。雨が降っているので、今は私独り。ほかは誰もいない。


 ふと閃光のように記憶がよみがえった。

 それは夏の日の散歩中に、偶然舞花さんに遭遇した時の事。


「やっほー、智雪ちゃん!」

「あら舞花さん、偶然ね。なんだか嬉しそうじゃない?」

「えへへ、分かる? あのね、一昨日石宮と付き合う事になったんだよ!」

「え……?」


思わず、言葉に詰まってしまった。


「智雪ちゃんが相談に乗ってくれたから、私、勇気出して告白したの。そしたらオッケーだって」

「そ、そう。おめでとう……」


以前から私は彼女の恋路の相談相手になっていた。私はそれを応援していた訳だけども……


「あれ、智雪ちゃん、大丈夫?」

「え……?」

「なんかボーっとしてるよ?」

「あ、ええ。平気よ。少し熱中症になってたのかも。水を飲むわ」


私は落ち着くためにも、ペットボトルに口をつける。

 私は自分の想いを殺してきた。舞花さんの信頼を裏切りたくなかったからだ。でも一方で、先日の遠野君からの告白を断った。石宮君を理由として。

 私は石宮君も舞花さんも欲しい。でも両方は得られない。だから舞花さんを選んだのよね?

 あれ、なんだろう……? 

 うまく整理できない。

 頭が痛い、フラフラしてくる。 


「……ちゃん! 智雪ちゃん!」


肩を叩かれてハッとする。


「ねえ、本当に大丈夫?」

「なんだか少し疲れているみたいね。家に帰えって休むことにするわ」

「それが良いと思う。私も途中まで付いてくよ」





……もうとっくに私の運命は決まっている。

 私は恋心を代償に舞花さんとの友情を選んだ。それはもう決まった事で、今更何をしようと後の祭り。


「なんだか凍えるわね」


と私はコイが泳ぐ水面を眺めて呟く。

 なんだか気分が憂鬱だ。静かに終わった失恋は、二か月経った今も尾を引いているという訳ね。


 私はゆっくりと池を一周散歩すると、公園を後にする。

 今度は文神中央駅はずれの寂れた元商店街に入る。駅近くに大型ショッピングモールが出来たことで廃れてしまった場所だ。その憂鬱とした場所は、今の私の心境を理解してくれるような気がする。

 私は暗い気持ちを抱えながら歩き続ける。すると今度は無機質なコンビニの灯りが見えてきて、何気ない気持ちで入る。そしてブラックコーヒーを買うと散歩の続きへと戻る。

 コーヒーをすこしだけ口に含む。それは苦く不味く、そして暖かい。

 こんなつまらない事なのに、頰角が上がる。そして


「クスス、バカね……」


と自嘲するように笑うと、暖かいカップを握って歩く。


――私は孤独。それは孤高に生きる者の定め。私は孤独な道を歩くしかない。寂しいけれど、でも仕方ない。私にはそれしかない。

 ……それしかない。


「へへっ、まったくもって良い人生ね。本当に素敵だわ」


 そんなに悪いものでない、と孤独を擁護するつもりはない。孤独を肯定する人を何人も見てきたけれど、彼らは往々にして烏合の衆よりマシだと言って、消去法的に孤独を選んでいる。

 素敵な仲間がいるに越したことがない。でも、舞花さんは私の初恋に匹敵するほど素敵なのかしら?


――いけない、こんな発想は持つべきでない。


 私は慌てて別の思索を引っ張り出す。


――私は文学が好きだけれど、別に文学に限った訳じゃない。『芸術的』であれば何でも好きだ。なぜなら芸術作品からは心が伝わってくるからだ。普段は誰とも共感出来ない私でさえ、芸術作品には共感できる。

 ところで芸術家が恐れるものとは何だろう? それは鑑賞されないことだと言う。「つまらない」「くだらない」と言われる方が数倍マシだと言う者さえいる。

 でもこれって、誰にでも通じるんじゃないかしら?

 人間は自分を見てほしがっているものだ。自分が生きた過去というものが作品となって、彼らはそれを誰かに見て欲しくなる。だからSNSには自己顕示欲に溢れる。だから老人はお喋りになる。


 私も自分という物を描いている。けれど私には鑑賞してくれる人がいない。

 ああ、だから石宮君が惜しくてしょうがない。彼なら私の全てを見てくれるんじゃないかって、勝手に期待をしている。そして、その感情が非論理的であるにも関わらず、もっともらしく思えてくる。


「私の中には矛盾というバケモノがいるのね。こいつが私を苦しめてくれるのね」


 いや、違うかしら?

 私が芸術を愛するのは単に私が不幸だからかもしれない。往々にして不幸である彼らに、今の私の心境を重ねているだけかもしれない。


「ヒック……なんだか、胃がムカムカしてきたわ。もう帰りましょう」


 私は来た道を戻った。

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