第3i話 罪
世の中には二種類の人間がいる。それは弱者と強者だ。この世界は弱肉強食の摂理に基づいて常に競争をしてきた。
しかし人間はしばしばこの摂理に反した行為を行う。
例えば同情。弱者が喰われる瞬間、人間だけが躊躇う。そして時には逃がしてしまう。その結果は分かりきっている。強者が飢えて死ぬだけだ。
だからオオカミは決して同情しない。弱者が死ぬまで狡猾に殺戮を遂行する。
強者は弱者を喰らう権利があるのではない、喰らう義務があるのだ。弱者が喰われる義務があるのと同様に。そこに選択の余地はない。
歴史を振り返っても同じ結論に至るだろう。例えばナポレオンは革命で沢山の人間を殺したが、彼は今でも自由の英雄と目されている。フランクリン・ルーズベルトも戦争で勝ったから讃えられている。対する東條英機はゴミ扱いだ。
強者は弱者を喰らう義務がある。
♤♤♤
この日は酷く冷たい雨が降っていた。雨の日はローファーの中に水が入ってしまって不快だ。
下駄箱で靴を履き替えると、私はそのままG組の教室へ向かう。床は濡れていて、ホコリや何やらで黒ずんでいる。
最近、毎日のように頭がズキズキと痛む。睡眠も良く摂れていない。おかげさまで勉強は全然出来ていないし、体重は5キロ減った。
雑談の為か、廊下は多くの生徒で混雑していた。少し聞き耳を立てれば、どれもくだらない話だ。
不意に背後から声をかけられた。
「冬原、おはよう!」
「あら、石宮君。おはよう」
「おいおいどうしたんだ、そのクマ?」
「寝不足なのよ」
「よくないな。折角の美貌が台無しじゃないか」
「そうね、気をつけるわ」
「ああ、そうしてくれよ。じゃあ、俺こっちだから。またな」
「ええ、また」
彼はスタスタと去って行く。
石宮君を見ると動悸がする。間違いなくこれは恋と呼ばれるものだ。私にはあまりにも重苦しい感情だ。
早く解放されたい。
「待って!」
「どうした?」
「あの石宮君、今彼女さんっている?」
「いないが、どうして?」
やはり桜木さんはまだ告白していない! 愚かにも彼女は恋愛の弱者だったのだ。告白すれば必ず成功しただろうに。
「いいえ、なんでもないわ。ところで、私と今日一緒に帰らない?」
「ああ、良いぜ」
♤♤♤
放課後。今日は桜木さんは演劇部、遠野君は将棋部。つまり私と石宮君だけで帰れる日だ。
昇降口に着くと既に彼は待っていた。
外はまだ雨が降っている。
「待ったかしら?」
「いや今来たところ」
「そう」
「雨、ひどいな」
「そうね、濡れるのは嫌だわ」
「傘は持ってきてるよな?」
「あいにく友人に貸してしまったわ」
「え?」
「今日は貴方と一緒に帰る約束したでしょう? 貴方の傘があれば、私の傘はいらない。違う?」
「ち、違くはないが……」
「良いのよ、早く帰りましょう?」
「お、おう」
私は強者になる。勉強でも部活でも何にでも。当然、恋愛だって私は強者。求めるものは必ず仕留めなくてはならない。
ナポレオンだってアルクサンダー大王だってチンギスハーンだって、求めるものを獲得する為に動き、仕留めたから英雄になった。
この私、冬原智雪が彼らに引けを取ると?
否、決してありえない。
私はこの恋愛にケリをつけて、次に進む。その後は受験も就職も成功してみせる。
完璧だ。その為にはこんな恋愛だなんて壁は乗り越えなくてはならない!
「さあ、早く私を入れて?」
「ああ、しょうがないな」
石宮君は促されるがまま、傘に私を入れた。
雨が降る中、私と石宮君は静かな住宅街の中を進む。
彼は私を濡らさない為にか、右肩を外に出していて、酷く濡れていた。全く優しい男だ。しかしこの優しさは桜木さんにも向けられていると、私は知っている。
女性全てに親切な男は素敵だ。だけれど、異性全てに優しい男は残酷だ。女子が勘違いしてしまったらどうするのだろう。
「ねえ、石宮君」
「なんだ?」
「肩、濡れてる」
「いいよ、別に」
「許さないわ。私のわがままで貴方を困らせたくないの」
と、今度は私が左肩を濡らす。それは凄く冷たい雨粒で、思わず震えそうになった。
「おい、良いんだぞ?」
「いえ、私がこうしたいからするの」
「そうなのか? そう言われてしまっては、俺からは何も言えないよ」
「ええそうね」
自動車が背後から追い越していった際に水が跳ね、私のスカートとタイツにかかった。
「おいおい、大丈夫か?」
「ええ、平気よ」
心肺停止を安じるほど冷たかったが、そんな事よりも今隣に彼がいる事の方がよっぽど重要だった。
英雄ナポレオンも強者ティラノサウルスも、弱者を喰らう為に罪を犯した。そして私も罪を犯さなくてはならない、勝つ為には。
「ねえ、石宮君」
「どうした?」
「目を閉じて」
「ど、どうして?」
「良いから閉じて」
「お、おう。これで良いのか?」
「フフフ……ええ、最高よ」
やっと踏み越えた!
私は彼にフレンチキスをした。
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