第5話 異変
今日は立太子の儀が行われる。王都は期待に胸を膨らませた人々で溢れ、お祭りムード一色に染まっていた。私も貴族の義務としてこの儀に参列した後に、領地に行くことになっている。
王城の大広間では国内外から参列した人々が、王太子殿下の登場を今や遅しと待ちわびていた。最後尾に近い私の場所からは、残念ながら良く見えるはずもない。私はドレスに施された刺繍をなぞって、ただ時が過ぎるのを待っていた。
そこに荘厳なファンファーレが鳴り響き、王太子の正装に身を包んだ人物が入場した。ざわめく人々を見渡した王太子殿下は、すっと片手を上げて制した。
静まり返った大広間に王太子殿下の声が響いた。
「私、アンソニー・ド・ブラウンは王族籍に復帰し、ここにアンソニー・ド・ロレーヌとして王太子になったことを宣言する」
アンソニー?
刺繍の上の指が止まった。
いつも聞いていたアンソニーの声だ。
でも声の主を確かめようにも、遠くて顔の判別がつかない。
アンソニーが王太子殿下になる?
なんで? どうして?
急に暗くなる視界の中に私は落ちていった。
目を開けると、私は領地へ行く馬車の中にいた。
「パティ。気が付いた?」
「お母様……。私はいつの間に馬車に? 立太子の儀に参加しなくて良かったのでしょうか」
お母様が怪訝な顔をされた。
「パティ? あなたも宣誓を聞いていたでしょ?」
「宣誓ですか?」
思い出そうとした途端、呼吸が早くなっていく。胸が痛い。吸っても吸っても息苦しさがとれず、私はまるで溺れているかのうよに空気を求めた。
お母様は慌てて手を伸ばし、私を強く抱きしめた。
「パティっ。大丈夫よ、落ち着いて。そうよ、いい子ね。そう、ゆっくりと息をして」
「はぁ、はぁ」
「もう少しゆっくりと。そう、よくできてるわ」
お母様の腕の中で、次第に私の息苦しさはなくなっていった。一体なんだったんだろう。こんなに苦しくなるのは初めてだった。
「お母様、もう大丈夫です。ありがとうございました」
「良かったわ。今日は早めに宿をとって、ゆっくり休みましょう」
当初予定していたよりも手前の街で宿泊することになった。
「パティの具合がよければ、明日は街でお買い物をするのもいいかもしれないわね」
「でもお母様、領地に着くのが遅くなってしまいます」
「構わないわよ。楽しみましょう」
翌朝、私とお母様は街へ買い物に出かけた。
仕立て屋では王都では見かけない生地でドレスの作成を依頼した。採寸やデザインは領地に来てもらうことになっている。きっと素敵なものが出来上がるに違いない。アクセサリー店ではお母様とお揃いで精緻な細工の髪留めを選んだ。それから何となく入った雑貨店では様々な色合いの刺繍糸とシルクのハンカチをセットで購入した。
一度にこんなに買い物したのは久々で、私の気分は高揚していた。
もう大丈夫。私は別に病気じゃないんだから。
でも念のためもう一泊して様子をみようと提案するお母様に従って、今日も早めに宿に戻った。
早速、買って来た刺繍糸を見る。なんて綺麗な色なんだろう。でもその時にふと違和感があった。なんでこの色を買ったのかしら? 何の意匠にするつもりだったのかまったく思い出せない。
そう言えば、何で私は領地に来ることにしたのだっただろうか……。私の心に不安が広がっていく。
その時ノックの音が聞こえた。
ドアを開けると優しく微笑むお母様の顔があった。幼い頃から大好きな笑顔。
私はさっきまで何を思っていたのか忘れていた。
「パティ。夕食にしましょう」
「はい。お母様」
急いで刺繍糸を片付けた私は、お母様と一緒に食事に向かった。
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