第6話 豚とコショウ
三叉路の開けた場所に出て、スペードの2は立ち止まっていました。
「それが実は、まだ決めていないんだ。この夢に出てくる生き物は大勢いる。名も知らない生き物から、ドードー、白ウサギ、メアリー・アン、侯爵夫人、芋虫、ウミガメもどき、などなど……行先だってクロッケー場や浜辺、それに僕達の知らない地域もあるだろう。せめて僕が飛行出来る生き物だったら良かったんだけど、さすがに全部の地域を廻る余裕はない」
スペードの2は手庇を作り、頭上にある太陽を眩しそうに見ながらそう言いました。この夢を度々見るという彼は、残された時間を勘案しての発言なのでしょう。
「最終的にお城には行っておきたい。だから、残り一か所だけ訪ねようと思っているんだけど、アリスはどこに行きたい?」
「効率重視なのでしょう? だったら一番近い場所にいる生き物達を訪ねるべきだわ」
間髪入れずにアリスは答えました。
「OK、なら侯爵夫人の家に行ってみようか」
三叉路をやや右に折れて、再び森の方へと向かいます。
またチェシャネコが出てくるのでは。アリスがそう思ったところで、ふとした考えが浮かびました。
「ねえ、考えてみたんだけれど、チェシャネコさんは怪しくないの? 事件を知っていたでしょ。もしかしたらわたし達と同じように夢を見ている人間かもしれないわ」
スペードの2の反応はあまり芳しくなく、
「前にも言ったように、前回の夢の僕はアリスだったんだ。そこで同様にチェシャネコには会っている。今回と見比べてみて、夢人が入っているとは思えなかったな」
アリスはもう少し食い下がりました。
「もしもの話よ。チェシャネコさんに入っている夢人が、盛岡さんのように何度も繰り返しこの夢を見ている人だったとしたら? 何が言いたいかというと、キャラクターになりきって夢人ではない振りをすることは、容疑から逃れる上で有効なんじゃないかしら」
スペードの2はぴたりと足を止め、目を瞬かせました。
「そこまでは考えになかったよ。僕はまだ三回目の夢だけれど、それ以上に繰り返している人間がいるかもしれないことは十分に有り得る。もし有り得たなら――犯人は賢い夢人だ。確かにおかしなキャラクターの振りをするくらい……いや、待てよ」
スペードの2は一旦言葉を区切り、少し考えてから再び言います。
「チェシャネコは、どちらかの方向に行くと事件現場に出ると言ったんだよね」
「ええ。そうだったと思うわ」
「なら逆説的に考えると、もしもチェシャネコに入り込んだ夢人が犯人だとしたら、事件現場と言わずに原っぱか見張り塔に出ると言うと思うんだ。犯人なら、事件が起きたことを自分が知っていると知られたくないだろうし、チェシャネコのキャラクターを貫き通すならば、余計なアレンジをする理由はないだろう。……と、僕は思うんだけれど」
スペードの2は断言は出来ない様子でしたが、アリスはその考えに十分な説得力があると感じて納得しました。
しばらく進むと、木々がまばらに生息している辺りの、ぽっかりと開いた大地に侯爵夫人の家は有りました。
アリスとスペードの2が彼女の家を訪れたとき、ちょうど誰かがやってきて、玄関ポーチに立ったところでした。すらりと背の高いカエル顔で、制服を着こなしています。
「あの生き物は、侯爵夫人の召し使いかな?」
スペードの2が言いました。
「誰にしてもタイミングが良かったわ。わたしが話を付けてくる」
アリスはスペードの2の返答も聞かずに、一目散に玄関に駆け寄りました。
アリスよりも三十センチは身長の高いカエル顔の生き物が、気配に気付いた様子でこちらを向きます。
アリスは瀟洒な玄関ポーチに辿り着くと、努めてへりくだった姿勢であいさつをしました。
「こんにちは。それとも、おはようかしら? わたしの名前はアリスよ。侯爵夫人に用事があるのだけれど、家の中に入れてもらうことは出来るかしら」
カエルの召し使いは考え込むように空を見上げています。アリスを無視しているのかとも思いましたが、その目線の位置は当然かもしれません。カエルの両目は、上の方に付いているのですから。
やがて彼が言うには、
「わしは、君を家に入れることは出来んよ」
「それはどうしてですか? 約束をせずに来てしまったからかしら。――あぁ、もう一つ理由が分かったわ。ノックをしていなかったからね!」
アリスは急いでこんこんと重厚そうなドアを叩きました。
「これで入れてもらえるかしら?」
「だめだ」
けろっとした態度で、カエルの召し使いは言い放ちました。
アリスは段々といらいらしてきます。
「どうしてなの?」
「ノックが意味を成すのは……つまり、わしがお主を入れてあげられるのは、わしが家の中にいて、お主が玄関ポーチにいるときだけじゃ」
それを聞いてアリスは笑みを浮かべました。
「それなら簡単に解決できるわ。あなたは帰宅したのだから、家の中に入ってくださればいいの。そうしたら、わたしはもう一度ノックをするわ」
「仮に、わしが家の中に入っても、五月蠅くてとてもノックの音を判別出来ない」
確かに、家の中からは騒音が絶えず聞こえてきていましたが、何だか言い訳にしか聞こえません。なぜならカエルの召し使いは、アリスが外にいて、数秒後にノックをすることを把握しているのです。耳を澄ましてくれてさえいれば、家の中がどんなに五月蠅くても聞こえそうな気がしました。
「そもそもお主、夫人とは何の約束もしておらんだろう」
それはわたしが先ほど言ったじゃない! と憤りを感じましたが、近くを通り抜ける気配に気を取られました。
目線を遣ると、スペードの2が玄関のドアを開けて入っていくではありませんか。
「ちょ、ちょっとカエルさん、トランプ兵が入っていったけれど、あの人は良いの?」
「自力で入ってはいけないとは言っておらん」
その言葉にアリスはむすっと頬を膨らませました。
それから、スペードの2が手で押さえている開けっ放しのドアを指さして、
「わたしも勝手に中に入っていいのよね?」
「好きにするがいい」
アリスはその言葉を聞くや否や、憤然と踵を返して家の中に入りました。ドアが閉まると、ため息交じりの言葉を漏らします。
「この世界の生き物と話すのは、とても疲れるわ」
スペードの2は苦笑いしながら、
「不思議の国の生き物はそれぞれ個々のルールを持っているようだから、それに逆らわないように話せば上手くいくと思うよ」
そう助言をするのでした。
家の中は入ってすぐに食堂になっていて、話声や食器の飛び交う音で騒然としていました。しかも、煙のようなもやが部屋中に蔓延しています。
侯爵夫人と思しき人物が赤ん坊をあやしながら椅子に座っていて、くしゃみをしていました。台所に立つ料理人は大きな鍋になみなみと入ったスープをかき混ぜていました。その手には胡椒入れが見えて、煙の正体がアリスにはぴんときました。明らかに胡椒の入れすぎです。
ですので、会話もままなりません。
「ごきげんよう。くしゅっ」
「くしゅんっ、おまえさんは誰だい?」
侯爵夫人が尋ねました。
「わたしはアリくしゅっ。わたし達はあなたと、くしゅっ、お話しをしたくて来たの」
その間も料理人はスープをかき混ぜながらお皿などを後ろ手に放り投げていて、侯爵夫人もアリス達も避けるので大変です。なんて狂った料理人なのかしら!
「あたしゃ、くしゅんっ。法廷が開かれるらしいから、今からその支度をせねばならない、くしゅんっ」
侯爵夫人の眼前のテーブルには大きな封筒と手紙が置いてあって、その旨が書かれているようでした。
「あらそうなの? 残念くしゅっだわ」
「少しの間、あたしの大事な赤ん坊を抱いていてくしゅんっれるかい」
侯爵夫人はアリスに赤ん坊を押し付けると、奥の部屋に支度をしに行ってしまいました。赤ん坊にお皿が当たっては大変ですから、テーブルが盾になるように地べたに座り込みます。
「ぶうぶう」
その鳴き声は胸に抱いた赤ん坊からでした。
「あらまぁ、そんなブタみたいな泣き方をしていたら、本当にブタになってしまう――きゃっ!」
アリスは心臓が止まりそうなほど驚き、危うく赤ん坊を落としてしまうところでした。毛布にくるまれた可愛らしい赤ん坊は、本当にブタの姿に変わっていたのです。
ブタの赤ん坊をあやしたことがないアリスは困り果ててしまいましたが、侯爵夫人は支度の為にすでに部屋を出ていっていました。
スペードの2を見遣ると、(アリスが相当参った表情をしていたのでしょう)慇懃な口調で言います。
「床に下ろしてあげれば、へっくしゅん、好きな場所に行くさ。赤ちゃんがブタに変わってしまう世界なんだ、何も気を使うことはないよ」
アリスはその言葉に従ってブタを下ろすと、ちょこちょこと裏口から森の方に出ていきました。
「さて、それよりも」
スペードの2は飛んでくるフライパンを器用に躱しながら、テーブルに載っている大きな手紙を手に取りました。読み終えた途端に、彼は心配事を抱えたような面持ちをアリスに向けます。
「侯爵夫人は近々法廷が開かれると言っていたけど、どうやら本当のようだ……。この世界にもリスがいて、捕まってしまったのかもしれない。お城に急ごう!」
言うや否や、スペードの2は玄関から出ていきました。
急いでアリスもその後に続きます。玄関ポーチで腰掛けながら、ぼうっと空を見上げているカエルの召し使いを横目に、二人は侯爵夫人の家を駆け足で去りました。
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