第5話 ハンプティ・ダンプティ


 しばらく道なりに進むと、高い塀に突き当たりました。

 塀の上には奇妙な丸い生き物が腰掛けています。そのずんぐりむっくりとした形には、どこか見覚えがありました。

「どうしてあなたはそんなところにいるの?」

 アリスが口に手を添えて、メガホンのように大きめの声で問いかけると、

「周りを見てくれよ。右も左も塀が続いてるだろ? 降り方が分からないから、ずっとここにいるんだ。下手に飛び降りでもしたら割れちまう」

 向こうもそれなりの大声で答えました。

 おや、と思います。鏡のなさそうな塀の上にいて、なぜ自分が割れてしまう卵だと分かったのでしょうか。

 アリスがその疑問を口にすると、

「それは俺がハンプティ・ダンプティだと自覚しているからさ。アリスの世界に登場するキャラクターで、それなりに有名だろ?」

 アリスは考えます。ハンプティ・ダンプティというキャラクターを知っていて、なおかつ卵の容姿をしていると知っている人はどれくらいいるでしょうか。卵の印象は強烈なので、知っていてもおかしくないとアリスは結論を出しました。

 しかし一連の遣り取りによって新たに湧き上がった重大な疑問を、スペードの2が遠回しに尋ねます。

「ハンプティ・ダンプティ。君に訊きたいんだけど、誕生日と非誕生日、どちらが好きだい?」

「ん? ……ヒタンジョウビってなんだ?」

 アリスとスペードの2は目を合わせました。それからスペードの2は続けて問います。

「誕生日は一年に一日しかないから、年に一度しかプレゼントをもらえないだろう? それにひきかえ、非誕生日は三百六十四日も非誕生日プレゼントをもらえる。とても素晴らしい日だと思わないかい?」

「……なんだそりゃ?」

 ハンプティ・ダンプティの反問は最もでした。

 スペードの2はさらに続けて問いかけます。

「仮に塀から落ちてしまったとしても、お城の騎馬隊がすぐに助けに駆けつけてくれると、王様が約束してくれたんだろう? だったら落ちても大丈夫さ」

「さっきからお前達は何を言ってるんだ? こんな文明の発達していなさそうな世界で、落ちてから助けが間に合うわけないだろ」

 今度も最もな発言でした。しかし最もだからこそ、

「……君は、夢人だね」

 スペードの2が断言するように言いました。

「夢人?」

「この不思議の国の夢を見ている人達のことを僕はそう呼んでいるんだ。僕は盛岡で、こっちのアリスは綾瀬という女の子が入っている。二人とも日本人だよ。君の現実世界での名前は何ていうんだい?」

 共通の夢を、しかも何人も同時に見ていることに驚いた様子のハンプティ・ダンプティでしたが、やがて、

「小金丸だ。下の名前は靄がかかったように出てこないけど……。なあ、この塀から降りるのを手伝ってくれないか?」

 塀の高さは、ゆうに五メートルはありました。相当高い梯子を用意しなければ届きそうにありません。アリスは左右を見て、

「塀伝いに進んで降りられそうな場所は、そこからでも見えないかしら」

「無さそうだ。もしあっても、その場所に辿り着く前に落ちて割れちまうだろうな」

 スペードの2も少しの間思案したようでしたが、

「無慈悲に思うかもしれないけど、どうにも無理だよ。僕が翼の生えたグリフォンだったら背に乗せてあげられたんだけど」

「そうか。やっぱり高すぎるよな。……景色は良いけど大した変化はないし、話し相手もいなくて暇してんだ。よかったら、夢から覚めるまでここで三人で雑談でもしないか? まあ、現実世界の記憶があやふやで、どこまで話せるか分からないけどな」

 照れ隠し気味に言う彼は、本音の寂しさを吐露したようでした。

 スペードの2は一度アリスを見遣った後、

「実は、ハートのAが何者かに突き落とされてしまったんだ。僕達はその犯人の手がかりを追っている最中で、申し訳ないけど、先を急がなければいけない」

 アリスは後ろ髪を引かれる気持ちになり口を開きかけましたが、お花達と同様に動けない彼は犯人ではなさそうです。それにまだ手がかりになりそうな物も一切見つけられていないことは事実でした。

「その亡くなったトランプは知り合いだったのか?」

「いいや、話したこともない」

「それでも犯人を捜すのか。夢なのに? なぜそこまでして?」

 ハンプティ・ダンプティは食い気味に問いかけました。

「それは……僕がこの不思議の国の夢が好きだからかな」

 自分の気持ちを確かめるように少し楽しそうな顔で言うスペードの2を、ハンプティ・ダンプティは口角を下げて見つめていました。

「ふぅん、俺はちっとも楽しいと思わないな。この夢を見始めたときは、危うく眩暈で塀から落ちそうだったけど、あのとき落ちていればさっさと目覚めていたのかもな」

「そんな悲しいこと、言わないで」

 アリスの言葉にも、ハンプティ・ダンプティは形容しづらい表情でした。

「――なあ、これは所詮夢なんだろ?」

「そうだよ。でも、お城で裁判の決着がつく頃には、この夢も終わってしまうはずだ。それまで落ちないように待っていれば――」

 ぐちゃ、と耳障りの悪い音がしてから、ややあって、アリスは事態を理解しました。

 ハンプティ・ダンプティが飛び降りたのです。

 落ちたのはおそらく、塀の向こう側でした。

 暫くの間、アリスは体を動かすことも、言葉を発することも出来ませんでした。

「……そんな」

 ようやくの思いで出た言葉に、スペードの2がすかさずフォローの声をかけます。

「彼は死んでいない。夢から覚めただけのことだ」

「でも、わたし達が放っておかずに、彼とお喋りすることを選んでいれば……」

「それは違う」

 スペードの2はきっぱりと否定してから、

「……彼はこの夢が楽しくないと言っていた。だったら、最善の方法だったと思うよ」

 スペードの2は、首をはねられた夢人は二度とこの夢を見ることが出来ないと、前に言っていました。それならハンプティ・ダンプティに扮していた小金丸さんは、楽しくないと言っていたこの夢を、今後は見ることはないのでしょう。それなら彼にとって、自害することは最良の選択だったのかもしれません。

 少なくともアリスは、そう思わなければやり切れませんでした。

「行こう」

 固められた土の道を再び歩いて行きます。

 今までで一番長い沈黙の時間が、二人の間にはありました。

 全く違う話題をしようにもままならず、アリスの頭の中はどうしてもハンプティ・ダンプティのことでいっぱいでした。

 だからこそ、気になったことがありました。

 素朴な疑問なんだけれど、とアリスは前置きして、スペードの2に話しかけます。

「ハンプティ・ダンプティは鏡の国の住人ではなかったかしら」

「そうだね。ただ、僕がグリフォンのときに赤と白のチェス達も見かけたことがあるんだ。さっき出会ったお喋りする花も、鏡の国じゃなかったかな。どうやら混ざっているらしいね。僕は出会ったことがないけれど、ジャバウォックや、もしかしたら燻り狂うバンダースナッチも、この世界には存在するんじゃないだろうか」

 アリスは恐ろしさを覚えましたが、スペードの2はむしろ出会ってみたいといった高揚の気持ちが口調からも窺えました。

 歩きながら、アリスは不意に不安を感じます。

 彼とアリスは、同じように犯人を追っていても、やや動機が異なるように思えました。ハートのAを突き落とした犯人を憎む気持ちは強そうですが、やや強すぎるきらいがあるようにも見えます。もしこれが、芝居だとしたらどうでしょう。アリスという不思議の国では異端のキャラクターの夢人を欺き、味方につけておいて、いざというときに自分の身代わりとする芝居だとしたら。

「ねぇ、盛岡さん。訊いておきたいことがあるのよ」

 アリスはより不安を覚えてしまい、勇気を出して問い質してみることにしました。

「盛岡さんは、夢を見始めたときにはどこにいたの?」

「おや、アリバイ確認かな?」

「そういうわけでは……」

 ないとは言えず、そういうわけだったので、アリスは続く言葉がありませんでした。

「大丈夫だよ。なんたって、僕には鉄壁のアリバイがあるからね」

 そのワードは逆に怪しく思えましたが、アリスは素直に話を聞く姿勢を取ります。

「僕が夢を見始める前には、四種のスートの2、つまり僕であるスペードと、ハート、ダイヤ、クローバーの2の四人でお城の庭木の剪定をしていたらしいんだ。後でお城にも行こうと思っているから、一緒にいた他の三人に訊いてもらえれば分かるよ。四人で一つの大きな木を剪定していたからね。大きなハサミでこう、ジョキジョキとね」

 スペードの2が再現するように体と腕を大きく揺り動かしました。本当に大きなハサミのようです。彼はアリスを笑わせようとした故の行動のようですが、残念ながら失敗に終わりました。なぜならアリスはスペードの2が言う状況に、はっきりとした違和感を覚えていました。

「……なぜその四人は、暗い夜なんかに木を剪定していたのかしら」

 どのような答えが返ってくるのか、つかの間、アリスの体を張り詰めた緊張が駆け抜けました。そしてスペードの2の笑みがふっと消えることはなく、いつも通りの口調で言うには、

「日が出ているときに剪定をすると、女王様がお怒りになるんだ。散歩をするときに見苦しい! 私が寝ている間にやりなさい! ってね。まぁこれは、僕も理由が分からなかったから他のトランプ兵に訊いた話なんだけれど。だから剪定したと言っても、その木は可哀そうにへんてこな形をしているよ」

「そう、だったのね」

 疑いすぎも良くないと、アリスは反省しました。

「うん。続きを話すと、日が昇る直前に僕はスペードの2に入り込んだ。このタイミングは一回目や二回目とほぼ同じだったと思える。アリスも同じタイミングだったんじゃないかな? そしてしばらく眩暈に襲われるものだから、当然立っていられない。他の三人のトランプ達は凄く心配して僕を囲んでいたよ」

 アリスは自身の経験を思い出しました。眩暈が収まったころに、朝日によって森が色めき始めたことを。やっぱり夢人のタイミングは同じようです。

「朝日が十分に昇った頃には歩けるようになっていたから、早起きの女王様が来る前に各々片付けをしに戻った。……と言ってもお城の警備なんて、槍を持って好きな場所に立っていれば大丈夫らしいんだよ。馬鹿らしいけど、首をおとされるのは何としても避けたいから、正門の辺りで適当にやり過ごしていたな。そして不幸な知らせが来て、僕達は王様の命令で出動することになったんだ」

「ごめんなさい、……少し、ナーヴァスになっていたみたい」

 彼と一緒に剪定をしていたトランプ達に裏付けを取ることも出来そうですが、この話が嘘だとは、アリスには到底思えませんでした。

「構わないよ。僕らはさっき出会ったばかりなんだ。むしろ僕がハートのAを突き落とした犯人ではないと、百パーセントの証拠や証言を持って信じてもらった方が、逆に僕の方も安心出来るさ」

 得意げにスペードの2が言うので、少しからかってみたくなりました。

「そうね。出会ったときにわたしの無罪を余すことなく完璧に証明してくれたから、わたしは安心して冒険が出来ているわ」

「あのときは……疑って悪かったよ。僕も余裕が無くて」

 スペードの2がいつになく気を落としたので、アリスは元気づけようと彼の薄っぺらい背中を優しく叩きます。思ったよりも紙質(?)が良く、丈夫そうでした。

「冗談なんだから気にしないで。ほら、次はどこに向かうの?」

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