第2話 事件現場と見張り塔
森を抜けると、見晴らしの良い原っぱに出ました。でもそこは、お庭ではありませんでした。遠くの方に石造りのお城らしきものが見えます。
もう少し歩いてみようかしらとアリスが思って進んでみると、櫓を組んだ見張り塔が前方に見えました。
「誰かいるかもしれません。尋ねてみましょう」とアリスは自分に言いました。
ややあって辿り着くと、見張り塔の下に誰かが倒れているではありませんか。妙に薄っぺらく、体にはハートのマークやアルファベットのAが書かれていることが不思議です。
「ねえ、大丈夫? 起きてちょうだい」
アリスは心配して問いかけますが、その人物はうつ伏せのまま反応しません。人物と表現したのも、そのトランプのような薄っぺらい体に頭と手足がちゃんとあったからです。
よく見ると、マークだと思っていた部分も含めて、ところどころ赤黒く滲んでいました。そしてなんと、その人物の伸ばされた右手、指の先の地面には「アリス」と書かれているではありませんか!
突如、地鳴りのような音がして、何かしらの集団がお城の方から向かってきます。
アリスは慌てて「ア」の文字を足の裏でごしごしと消しました。
トランプに頭と手足の生えた生き物達がどしどしと見張り塔にやってきました。
「知らせをくれた女の子というのは君か、君だな、ありがとう!」
先頭にいたスペードの7がアリスにお礼を言います。それから倒れている人物をみて、大仰に驚きました。
「指の先に何か付着しているぞ。これは……、血だ!」
トランプ兵たちはどよめきだちました。
血だ。誰の血だ? 俺はケガをしていないぞ。俺もケガをしてない。全員が全員を見遣って確認をします。そして一斉にアリスに向き直って、
「君は誰だ? 名前を言いなさい」
アリスはどきっとします。それでも正直者のアリスは正直に答えました。
「わたしはアリスです」
「そうか! ではアリス、君はケガをしているか?」
「いいえ、もし怪我をしていたら、こんなに元気ではいられないわ」
アリスはぴょんと跳ねてみせます。
「なんと!!」
再びトランプ兵たちはわざめき出しました。
「ここにいる全員がケガをしていないなら、この指先の血は、この倒れているトランプ自身の血ということになるではないか!」
驚愕の事実のようにスペードの5が叫びました。トランプ兵たちは慌ててそのトランプに注目します。
「早く助けないと! ……だめだ、もう息をしていないぞ!」こんどはスペードの7が大声を上げました。
「殺されたんだ! そうに違いない!」
スペードの9も悲しみ嘆いて意見を述べます。
すると、
「なぁ」スペードの2が落ち着いて言いました。「このトランプ兵は、最後の力を振り絞って、犯人の名前を書き残したのではないだろうか?」
トランプ兵達が倒れているトランプの指先に注目しました。そこにはアリスが「ア」の文字を消した「リス」が書かれています。
「ほんとうだ! 犯人の名前が書かれてるぞ!」
「犯人はリスだ!」
スペードの7がずばりと言いました。
「よし、リスを見つけて女王様に報告だ。森を探索しよう」
スペードの2が再び冷静に言いました。
そしてトランプ兵たちは、再びどしどしと足音を立てて、こんどは森の中に入っていくのでした。
アリスはその様子を、いぶかしげに見送りました。
慌ただしかった見張り塔の周りが、急に静かになりました。
ふう、それにしても何とか誤魔化せたわ。もしも文字を消さなかったら、いったいどうなっていたことでしょう。アリスが安堵していると、
「ふう、何とか抜け出すことが出来た」
さっきまで集団の中にいたトランプ兵のスペードの2が、森からのそのそと帰ってきて原っぱに座り込むではありませんか。
手に持っていた槍を地べたに放り投げて、ぶつぶつと続けて何かを言っているようです。
「――不思議な夢を見ているなぁ。とにかく、首をはねられないようにしないと」
「……あなたも、この変な夢に迷い込んでしまったの?」
恐る恐る近づいて、アリスは訊きました。
すると、「おや?」と言う声と共に、スペードの2がアリスを振り向きました。トランプの体がぐにゃりと九十度曲がっているのが滑稽です。
「もしかして君も、夢を見ているのかい?」
「夢を見てると言っていいのか分からないけれど、たぶんそうよ」
「なるほど……。だからか」
スペードの2はおもむろに立ち上がると、声のトーンを幾分下げて、
「君があのトランプを、ハートのAを殺したのかい?」
「いいえ! わたしは殺していないわ!」
じーっとアリスを見つめるスペードの2はやがて、
「信じるよ。アリスは悪質な嘘を付くようなキャラではないからね……。しかし君が犯人ではないとすると、他の夢人が突き落としたことになるな」
「ゆめびと?」
アリスは聞き覚えのない言葉を反復しました。
「この不思議の国のような世界の生き物に成り代わって、夢を見ている人間のことさ。まぁ『夢人』と略して言っているのは僕だけだろうけどね」
スペードの2は少し恥ずかしそうな顔をしつつ、
「しかしやってくれたね。ダイイング・メッセージを一文字消してしまうとは」
「だ、だって、緊急事態だったから!」
アリスは必死に弁明をしました。
「確かに、あのままだと君は女王様のもとへ連れていかれて、首をはねられていたさ」
恐ろしいことをスペードの2は言います。
「でも、あからさまに擦って消した跡を、トランプ兵達が気付かないのは笑いをこらえるのが大変だったけどね。……それに結果的には、トランプ兵達を森に追いやって僕は自由の身になれた。感謝するよ」
感謝されると、素直に頬を染めるアリスでした。
「さて、夢の中だとしても、こんな殺人事件に遭遇したら黙っていられないな。ミステリ小説の探偵のように上手くいくかは分からないけど、僕は悪質な犯人を突き止めて、王様や女王様の前に突き出してやりたい」
所詮はトランプだと思っていましたが、スペードの2の精悍な横顔にアリスは少しどきっとしました。アリスが固まったまま彼を見遣っていることを、事件を怖がっていると勘違いしたのでしょう。スペードの2は案じるような声音で言います。
「この遺体の顔は潰れてる。怖ければ見ない方が良いよ」
そして倒れているトランプ兵のハートのAに向き直り、しゃがみこんで仔細に観察を始めました。
「血はまだ乾き切っていないね。息を引き取ってから一時間も経っていなさそうだ」
それに、とスペードの2は続けます。
「十中八九、ハートのAは落下死だ。この見張り塔の上から突き落とされたはずさ。落とされたってことは、このダイイング・メッセージは偽物で、やはり君は犯人じゃないね」
「あらやだ、まだわたしを疑ってたの?」
アリスはむくれましたが、
「念のため、可能性を潰しておいただけだよ……気を悪くさせたなら、ごめん」
ごめんと言われれば許すアリスでした。
「ねえ、事故や自殺ってことはないの?」
「その線は考えて……いや待て、事故や自殺をした生き物がダイイング・メッセージを残せると思うかい?」
「あっ……それもそうね」
アリスは当てずっぽうな発言を反省しました。見上げた見張り塔は、遠くから見たときよりもずっと高くて、落ちたらひとたまりもないように思えます。
「さて、僕は見張り塔の上を確認しに行くけれど、アリス、君はどうする?」
ここは夢の中です。別にスペードの2の探偵ごっこに付き合う義理はないし、アリスはアリスなりに冒険を楽しむことも出来るのだと、スペードの2は勝手に想像を膨らませているのでしょう。しかしアリスの気持ちは決まっていました。
「探偵役にはワトソン役がいた方が良いのでしょ? 仕方ないからわたしが助手になってあげるわ」
スペードの2は嬉しそうに口角を上げました。そして右手を差し出してきて、
「僕の名前は盛岡だ。不思議なことに、下の名前は憶えていないんだ。どうぞよろしく」
「わたしは綾瀬……同じく名前の方は思い出せないの。だからアリスと呼んでもらっても結構よ。こちらこそよろしくね」
トランプの大きめの手をアリスはがしっと掴み、握手を交わしました。
「さあ、上を確認しに行こうか」
スペードの2が言い、改めてアリス達は事件現場と対峙しました。
見張り塔は、丸太で組み上げられていて、物見櫓のようになっています。
内側にある梯子を登ると、見張り塔の上は思った以上に狭くて、二人でも精いっぱいです。厳密には一人と一枚ですけれども。
四方を板で仕切られたその場所は、見晴らしが良く、遠くまで見渡せました。見張り塔を構成する木材以外は物がほとんどなくて、床に落ちている角笛と槍くらいなものです。角笛は何か異変があったときに、お城に知らせるための道具なのでしょう。槍は見張りや出動要請があったときに、トランプ兵が持ち歩く武器だと思われました。
「うーん、さすがに手がかりは残されてないか。鳥類の羽などが落ちていたら即解決だったんだけどね」
スペードの2が、隈なく周囲を見回してから言いました。角笛と槍もつぶさに観察していますが、確信的なことは見つからなかったようでした。
アリスは思います。偽のダイイング・メッセージを残すくらいの犯人なのだから、偽の手がかり(生き物の体毛や羽)などが残っていたとしても、どこまで信じていいのでしょうか。
スペードの2は、落下したと思われる板から身を乗り出して真下を見ています。その板の高さはトランプの体の中央より少し下、つまり腰の高さまでしかなく、邪な例えをすると、アリスがこの瞬間にスペードの2の背中を押してしまえば、彼は成すすべなく落下してしまうでしょう。それはアリスよりも小さな生き物にも可能そうでした。
アリス達が下に降りると、スペードの2は再びハートのAに近づきました。
「やっぱり、手がかりになりそうなのは、このアリスの文字くらいだと思う。犯人はなぜ君を犯人にしようとしたのか。
予想できる理由は二つ。まず一つ目は、君の名前を知っていたからだ。そして二つ目は、君がすぐ近くにいないと分かっていたこと、そして君にアリバイがないだろうと思えたことだ」
まあ、なんて狡猾な犯人! ほんとうに見つかるのかしら。
「まあ、なんて狡猾な犯人! ほんとうに見つかるのかしら」
アリスは思ったままに言いました。
「まずはお茶会に行ってみよう。あそこには不思議の国の住人達、帽子屋と三月ウサギ、そしてヤマネがいるはずだ」
やっぱりここは、不思議の国を舞台とした夢の世界で合っているようでした。
「分かったわ。お茶会というフレーズが素敵ね。とても楽しみよ」
「そんなに楽しいところではない、と思うよ」
苦々しげに意味深なことを言うスペードの2でしたが、行けば分かるはずだと言い切るので、アリスは黙してそれに従うことにしました。
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