第4話


 箱入り娘のキイナは家族(父+長次四男兄)からの大反対にあって聖一せいいちさんに泣きついたので、お目付け役の三男兄同伴の旅行として条件つきOKを勝ち取った。そんなわけで土曜日の早朝、聖一さんがキイナや克己かつみくんを乗せて車で家の前まで迎えに来た。

 ついでに近くにある聖一さんの知人の別荘を使わせてもらえることになったので、私たちは聡子さとこたちとそこで落ち合った。会社の保養所としても使われているその別荘はとても広くて部屋数も多く、各客室に簡易バスルームがあった。きちんと管理されているのでとても綺麗だったし、広いリビングもあってみんなで集まれる。ただ食事は自分たちで用意しないといけないのでみんなで作ることにしたが、そのほうが楽しかった。

 早めに現地に着いたので、お昼前から早速海に入ってがんがん泳いだ。思いっきり疲れるまで泳いでみんなと遊んで、お昼ご飯は近くのレストランで食事した。

 聖一さんは克己くんとキイナに関して目をつぶってくれるというか元々彼らに好意的なのでお目付け役といっても単に一緒に仲良く遊んでいる保護者みたいな感じだったし、聡子や輝幸てるゆきさんともみんなで仲良く楽しく過ごし、夕方にはみんなで浜辺でバーベキューをした。

 夜は涼しい風が入ってくるのでリビングのガラス戸を開け放し網戸にして蚊取り線香を焚きながら、みんなでカードゲームをしたりして遊んだ。聡子と輝幸さんが先に部屋に戻り、キイナと克己くんはちょっといい感じになっていたので、聖一さんがちょっと散歩に行く? と言ったのをきっかけに、私たちはそこを出て浜辺を散歩することにした。

 月が明るくて暗い海に月の光が道を作っていた。波音がここちよく、潮風が少し強かったけれど彼が上着を貸してくれたので、ちょっと足を伸ばして遠くの岩場まで散歩した。足元が悪いので彼が手を貸してくれて、そのまま帰り道も手をつないで帰った。別荘に入る前に手を離したときに、ちょっとほっとした。つないだままの手を自分から離すことが何となくそれまでしづらかったから。

 彼の態度は終始いつもと変わらなかった。

 私たちは翌日の午前中まで海で遊んで午後三時頃に帰宅の途についた。




 夏休みに入ってからは、学校に通うようにバイトに通う日が多かった。聖一さんから頼まれる仕事が増えていたのでそれに応じる形で増えていったのだけれど、かいから誘われていた旅行の返事から逃げるいい口実でもあったのでそうしていた。夏休みに入っても海とりくの二人はそれぞれの部活の練習に朝から通っていたので、彼らが少し早めの夕方に帰ってくる頃に合わせて私が彼らのマンションに寄る。そんなふうに日中はバイト、夕方からは海と陸のところに行くような毎日だった。



 そんなある日、突然みなちゃんから連絡があって、私は彼女に頼まれて病院に一緒に行くことになった。少し遠いところにある産婦人科の病院で、彼女は人工中絶の手術について説明を聞いて手術の予約をとった。それから電車を沢山乗り継いで、彼女の家に一緒に帰った。その日私は彼女の家に泊り、夜遅くまでお喋りしてから一緒に手をつないで眠った。

 小さい頃と変わらない健やかな寝息をたてる彼女の無邪気な寝顔を見ながら、私は何とも言えない気持ちでその一晩を過ごした。

 翌朝、昨晩はお風呂にも入らずしゃべり疲れて眠ってしまったので私が先にシャワーを借りて、交替で彼女がシャワーを使いに部屋を出て行ったあと、私はしんとした彼女の部屋に一人取り残された。それで何となく耐えられず、そばにあったリモコンでステレオのラジオを勝手につけた。

 最初に合わせた局からは見事に国民的金太郎飴型にはまったような万民受け風の真面目なアナウンサーの声が流れ出し、何となく変えた。次の局では音楽が流れていたので聴いていたらふいにCMに切り替わり、そのアナウンスの声が情感豊かになんかいいこと言うみたいな、こっちも型にはまったような声でむずむずしたのでまた変えた。

 次の局ではまた音楽が流れていたのでしばらくそれを聴いていたら、ラジオパーソナリティ―のお喋りに変わった。今度は型にはまってないその人のお喋りという声だったけれど、なんとなく男性の声が気になった。その人がどんな人かもわからないのに、私はある話を思い出していた。男性は生まれつきある程度恵まれていることに慣れているので普通に鈍感で傲慢ごうまん、という話。みんながみんなそうではないけれどそういう人が多い、という女性の意見をどこかで聞いたことがあったのを、ずっと忘れていたのに、その声を聞いた瞬間に思い出した。そのときそのラジオパーソナリティーの人が話していたことやなんかには全く関係なく、声のトーンとか色とか温度とか発声の感じとかただそんなものから直接連想しただけだった。今までそんなこと考えもしなかったのでずっと忘れていたのに。もう一人女性の声もあったが、こっちの方はそこまで気に入ることも気になることもなかった。でもなんとなくこの男女のラジオパーソナリティーのコンビは彼女のほうが大人で相方を受け止めている感じな気がした。そのうちテーマに沿った葉書を紹介しだして、それを聴いていたら、なんとなくうるさいなーと感じ出したので私はラジオ自体を切った。

 特に何か酷いことを言っていたわけでもないけれど、うるさい、と感じたのは、葉書の紹介を聞いている内に、何となく、自分が常識に沿っていることやそこから外れてはいないことに優越感をもっていて、それがまるで何かの特権かのように鼻をふくらませ、どうだ、と言わんばかりに、たいしたことないことやくだらないことで威張いばっているような、意地の悪い子供の姿を連想したから。

 そこから少しでも外れた人のことを踏み台にして自分を誇るような、そんなこまっしゃくれた子供の姿を連想したから。

 ただそんな風なイメージが、聞いている内に浮かんだとしか言いようがないのだけれど。

 たぶんその時の私は少しぼうっとしていて、言っている内容の良し悪しや正否善悪とかではなくて、それに対して自分がどう感じているのか、ということに焦点を当てるようにただ聞き流していたので、そういう自分の感覚に敏感になっていたのだと思う。ちょうど明晰な白昼夢の中にいるように。

 たったそれだけの刺激やきっかけで、自分の中から思いもよらない応答や反応が返ってくるのも面白いと思った。


 みなちゃんの彼氏はお金だけは用意したけれど、それきり連絡が取れなくなったそうだ。

 二人の責任なのに、どうして女の子の方が心も身体も傷つかないといけないんだろう、何となく私は理不尽なような不公平な気分でいた。




 夏休みももうすぐ終わりという頃、思わぬところから波紋が広がって新たな波紋を呼び、その余波が思わぬところから返ってきた。

 亜実あみちゃんが、たまたまとみなちゃんが産婦人科から出てきたところに出くわして(と本人が言っていたそうだ。本当かどうか疑わしいけれど)、それを携帯で写真に撮った。そしてご丁寧にプリントアウトされたその写真を彼女から渡された海が、私に詰問きつもんしてきた。私は妙な嫌疑けんぎをかけられたのだ。

 さすがというかなんというか、たまたまみなちゃんが忘れ物をとりに中に戻ったのでそれを病院の出入り口の前で私が一人で待っていたところ、そして病院の看板がしっかり一緒に映っているところを、しっかり切り取るように撮っていて、その悪意の健在ぶりに舌を巻いた。

 しかもダメ押しに

「こんな遠い場所にある産婦人科にこっそり行くってことは、それなりの事情があるんだよね。心配だったから海君にも一応知らせた方がいいと思って。この病院、人工中絶手術するために遠く離れたところから若い女の子がよく来る病院なんだって」

 と、注釈までつけてくれたそうだ。

 友達につきあって行っただけ、と本当のことを話しても、どうしても嘘っぽく聞こえてしまう。

 かといってどうやってそれを証明するのかということになるし。

 友達のかなり微妙なプライヴァシーに関わることだけにお手上げだった。

 しかも折悪しく、キイナや聡子と一緒に行った一泊旅行のときに、二人はそれぞれのボーイフレンドと一緒で、私と聖一さんも参加していたので、本当は三組のカップルの旅行だったのではないかと彼との関係まで疑われて、なんとなくぎくしゃくしていたときだった。だからと言って海や陸のところに行かないと余計に疑われる、という抜き差しならないような奇妙な状況にはまり込んでいたときだったのだ。

 すごいなあ。悪いことって本当に重なるんだ──

 私はただ唖然あぜんとしてそう思っていた。

 自分が何を言っても信じてもらえない。

 状況は全てが疑いの方向を指し示しているようなもので。

 事情が入り組んでいて、それを証明したり、立証することが難しい状態で。

 だからといって、逃げることも避けることも許されない。

 海だけでなく陸までもがそうで、針のむしろってこういうことを言うんだな、となんだか他人事のようにぼんやりと思った。

 夕方海と陸の待つ勉強部屋に向かうとき足が重くて重くて、行きたくないけれど行かないと余計に疑われるので、重たい体を引きずるようにして彼らのマンションに通った。バイトはやめようかと思ったけれど、何も考えずに仕事をしているのが唯一のやすらぎでもあったので、やめたくなかった。それで続けていた。

 そうして夏休みが終り、新学期が始まっても膠着こうちゃく状態が続いた。

 二人は相変わらず放課後交替で迎えに来るし、一緒に勉強したりご飯を作ったりするけれど、ほぼ無口であまり喋らなくなった。でも優しいところはそのままで、気づかないところでフォローしてくれたりはした。手をつないで帰ったり、抱きしめてきたり、キスしたりもするときは態度も和らいで仲良く過ごしたりするけれど、急に不機嫌に黙り込んだりもする。そうしてまた思い出したように詰問される。何度訊かれても私が答えられるのは結局いつもの同じ解答だし、堂々巡りだった。

 ひとからあることないことを言われたりいわれのない疑いをかけられるということが、自分の大切な人たちからだとこんなにも辛いものなのか、と初めて知った。

 それまでも辛いことはあったけれど、所詮しょせん関係ない人たちだったから、どうでもよかった。

 でも、今回は違う。

 さすがに私も、ふさぎ込んだ。

 なんか思い知らされているような気分だった。




 聖一さんのところでのバイトで黙々と手を動かすことや休憩の時のほっと一息つくようなおしゃべりにはだいぶ救われた。相変わらず飄々ひょうひょうとしていてタイムリーなことをぽんと投げかけてきてくれるので、それでだいぶ助けられた気がする。しかもそれだけでなく、彼はその飄々とした様子でたまにしれっとものすごく面白いことを言って去って行ったりもする。本当に、彼には助けられた。

 一度、大笑いしていたらそのまま涙がぽろっと出てしまった時があった。

 そうしたら何故かぽろぽろと涙が止まらなくなって、困ったように泣いていたら、

「ちょっと待ってて」

 と言って、彼は私に大きなタオルを渡して自分の仕事場に戻って行った。

 何でバスタオルなんだろう、と思いながらそれにしがみついて泣いて、少しすっきりしてきてたところに彼が車のキイを持って戻ってきてそのままドライブに連れてってくれた。

 高速に乗ってみんなで行った海まで連れて行ってくれて、満月が映る海を砂浜に座って眺めた。少し体が冷えてきたところで車に移動して、窓を全開にして車の中からも夜空を照らす満月と月の映る海を眺めた。まるで月の光の道が波に揺れてにじみながら招待するようにこちらへとさしかけられているようだった。隣にいる彼は「ちょっと疲れたから休むね」と言ってシートを倒して運転席で仮眠をとっていたので、私は助手席のシートにもたれてひとり波のリズムをただ聞いていた。

 自然の声に比べたら、人間の声はうるさすぎる──

 いざとなったら、ちっぽけな人間ごと簡単に吹き飛ばすほど自然の力は強いけれど、普段の声はとても優しいくらいにかすかだと思う。微かにいつもそこで響いている世界の優しい音楽。でも人間の声は、ああしてほしいこうしてほしいの大合唱みたい。とてもうるさい。もう、うんざりだ。

 もうほうっておいて──

 自分がどれほど疲れているのか、思い知らされるような気がした。

 波の音があまりに心地よくて、そのまま眠ってしまいそうだった。

 

 いつの間にか私はうとうとと波音を子守歌に眠っていた。

 夢うつつに、隣で眠っていた聖一さんが起きて、煙草たばこに火をつけ吸っているのを気配とにおいで感じていた。煙草とコロンのにおい──ふと気づいたら、彼が私にそっと近づいて静かに唇を重ねていた。そうしてまた静かに離れた。私は眠ったふりをしていた。

 あーあ、これで本当にもう何も信じてもらえないよ、と思ったけれど、もうどうでもいいや、という気持ちだった。不思議なほど罪悪感も何も感じなかった。


 しばらく狸寝入りを続けていたらそのまま本当に眠ってしまったようだ。次に気づいたら車は高速道路を走っていて、

「起きた? 眠かったらまだ寝てていいよ」

 と運転席から彼がいつもと変わらない様子で言った。

 それで私はまた眼を閉じた。

 とにかく眠くて、何も考えずにただ眠りたかった。

 11時少し前に私は彼に起こされた。家に着いていたので彼にお礼を言ってから、おやすみなさい、と言って別れた。そしてお風呂に入ってから、海と陸に明日は二人のマンションには行かない、とだけメール送信してそのまま眠った。とにかく眠りたかった。




 翌朝携帯を見たら二人からの返信はなかった。目覚めたら、なんだかすごくよく眠ったみたいにすっきりしていたので、私は久しぶりに朝食をしっかり全部食べて登校した。そうして授業が終わって放課後キイナと一緒に校門を出たら、海が塀にもたれるようにして待っていた。

 キイナは、あれって表情かおして私と海の顔を見比べてから、

「じゃあ、カンナ、また明日」

 とさっさと私たちを残して一人で行ってしまった。

 それを見送りながら、しばらく海と二人で黙って立ち尽くしていたら

「なんか用事あるの?」

 海が私に訊いたので、

「特にない」

 海は私をしばらく見ていたけれど、手をとってさっさと歩き出した。

「じゃあ、いつも通りでいいよね」

 そう言って。

 死刑執行のために最後の道を歩く囚人ってこんな気持ちかな。

 覚悟だけが決まっていて、あとは恐ろしいほどすっきりして何もない。

 淡々と思いながら黙って歩いていたら、海が振り返った。

「昨日はいつものバイト?」

「そう」

「そっか」

 それだけ言って海はまた前を向いて歩いた。

 光の加減で時折青く見える黒くてつやのある真っ直ぐな髪。綺麗きれいな瞳。長いまつ毛。長い指。シャツの袖から出ている引き締まった腕。静かで落ち着いた声。あたたかい手のひら。

 この人の髪も瞳も指も声も全部みんなものすごく好きだけれど、なのに何も感じない。私は冷淡なのだろうか。罪悪感の一かけらも感じないなんて。でも、ごめんなさいって言って泣いた方がいんちきだし、そっちの方が侮辱的だろうし、どうしようもないし。

 そんなことを考えながら彼を見ていたら、ふいに彼は立ち止まって、こっちを見た。そのまましばらく私を見つめていたけれど、何も言わずにまた前を向いて私の手を引くように歩き出した。

 マンションに着いたら陸がもう居て、ダイニングで大きな段ボール箱や梱包材なんかを一人でがさがさとまとめていた。海は私に「先にリビングに行ってて」と言ってから、粗大ごみをまとめるのを手伝っていた。

 ダイニングから二人が立てるがさがさという音を聞きながら、私は仕方ないのでテーブルに教科書なんかを出して課題にとりかかりだした。がさがさという音がうるさいのでかえってそれで静かになるというか、私はいつの間にか時間も忘れて課題に集中していた。

 ことん、と私の前にコーヒーの入ったマグカップを置いて陸が席に着いたのに気づいたので、

「ありがとう」

 と顔を上げて言うと、彼はうなづいた。

 しばらくして海も来て、三人で静かにそれぞれの課題に向き合った。静かにかなり私は集中していて、二人のこともいつの間にか忘れていたくらいだった。ここのところの色々な雑事も全部忘れていた。よし、と本日の予定分を全て終えて顔を上げたら、二人がこっちを見ていたので

「どうしたの?」

 とふつうに訊いた。何のこだわりもなく。

「夕飯何にする?」

 陸が訊いてきたので、

「何でもいいよ。でも何か生野菜が食べたいな。お漬物とかでもいいけど。火を通してない野菜が食べたい」

 屈託なく私がそう答えると、海が

「トマトとかきゅうりくらいならあったみたいだけど」

 と言いながら立ち上がってキッチンへ行き冷蔵庫の中を見ていた。そして

「なんだろう、なんかこんな葉っぱもある」

 とクレソンを持ってきたので私が笑いながら

「それクレソンだよ。お肉とか脂っこい料理と合わせるといいよ。ピリッとして美味しいハーブ」

「ふーん」

 言って海はクレソンを見てから、冷蔵庫に戻しに行った。

「カレーが食べたい」

 陸が私に言って、

「三人で材料買いに行こうよ」

 と立ち上がったので

「いいよ」

 そう返事しながら、私は、あれ、なんかすごくいつも通りみたい。ふつうだ。と思っていた。ここのところのおかしな空気がどこかへ行ってしまったように、いつのまにか平和な日常が戻ってきていた。それで私たちは一緒に近くのスーパーにサイフだけ持って出かけた。外はまだ明るいけれど少し涼しくなっていた。風が少しあるので、気持ちが良かった。

「なんか気持ちいいね」

 私がそう言って先に立って歩き、二人が後を歩いてきた。

 スーパーでは買い物かごを海が持って、私と陸がメモしてきた材料をぽいぽい入れていった。

「アイスも食べたい」

 そう言って陸がアイスクリームのコーナーで立ち止まったので、三人でそれぞれに好きな物を選んでそれもかごに入れた。

「漬物も買う?」

 海が訊いてきたので、セロリのお漬物もかごに入れていたら、

「あらー」

 と明るい声がしたので顔を上げると、あの雑貨屋のお姉さんだった。

「本当に三つ子なのねえ、お兄ちゃんたちはそっくりだわ」

 とにこにこしていた。

「こんばんは」

 にこっとして愛想よく海が応じ、陸が会釈したので私も会釈した。

「えらいのねえ」

 と海の持っているかごを見ながら言って、彼女は私に

「三日坊主で終わっちゃったの」

 自分のかごの中のお惣菜のパックを見せた。

 二人で笑っていたら、

「何の話?」

 と海と陸が訊いてきたので

「ないしょ」

 と私たちは言って、笑って手を振って別れた。

「美人だよな」

 陸が去って行く彼女を見送りながら言った。

「うん。きれいな人だよね。会うとなんか得したみたいな気分になる」

「俺も」

「目の保養だな」

 言い合っている二人は、私とは違う意味で言っている気がしたけど、まあいいか、と思った。

 スーパーの袋を海と陸が持って、私をまた先に歩かせて二人が後を歩くかたちで三人で帰った。まだ明るい日の名残りのなか帰宅する人たちに混じって三人でのんびりと歩いていたら、風も吹いて気持ち良かったのもあって、なんだかすごく幸せな気分だった。二人を振り返ると、海がにこっとして陸が笑いかけた。

「なんか気持ちいいね」

「うん」

「このまま歩いていたいみたいな気分だけど、アイスが溶けちゃうからなあ」

「こうしてたまに散歩に出るのもいいね」

「そうだな」

 何だか妙にうまく歯車が回ってしまって、不思議に平和な時間が魔法みたいに私たちを訪れていた。背景にある事情なんてまったくお構いなしにそれが私たちをあまりにも心地よく包んでいるので、このままずっと何の問題もなく平和に幸福にいられそうに思うほどだった。

 でも、そうなって初めて、私はちょっと罪悪感のようなものを感じ始めた。

 何か二人をだましているみたいな気分になってきたのだ。

 あまりに二人がいつも通りに穏やかに優しく微笑んだりしているので、それを騙してかすめ取っているみたいな気分になってきた。

 そうか、こういうとき、こういう幸せを壊したくなくて、人は嘘をついてしまうんだわ──何となく私はそう思っていた。数時間前まではもうどうでもいい、嫌われてもいい、そう覚悟を決めていたのに、いざこうなったら、この雰囲気を壊したくないと思い始めていた。海や陸が傷ついた顔を見たくない、責められるのも嫌われるのも仕方ないけれど、悲しまれるのはつらい、今笑っている二人の顔が苦痛に歪むのを見たくない、とかぐずぐず思いだしていた。奇妙な反転現象だった。

 風が少し強く吹いて、街路樹をざわめかせて通り過ぎていった。私は何となくそれを立ち止まって見上げた。そして後から来た陸と海も立ち止まる前に、また歩き出した。 


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