第3話


 土日にも出れるなら来てほしいと言われていたので、私はバイトを増やした。ほぼ毎週土日は午後から夜までずっともくもくと作業した。それでもたまにキイナが遊びに行こうよーと誘いに来たときは、

「行ってきてもいいよ」

 と雇い主自ら言ってくれるので、キイナと克己かつみくんと一緒に彼女の運転でドライブに行ったりもした。キイナは二人きりより誰かいたほうがいいのだそうだ。克己くんは二人きりの方がいいだろうに。まあそれでもわりと楽しく三人で仲良く遊んだし、私もたまにふらっと一人で席を外してどこかに行ってみたりとか気を利かせたりして、それなりにバランスをとった。

 友達といたり、バイトしている方が楽だったのだ。

 かいりくも試合が近かったりして休みの日も部活に行っていたみたいだし。そんなふうにちょっと距離を置いて、平日はいつも通りに過ごした。

 みなちゃんの家にも遊びに行った。

 土曜の夜に彼女の家に遊びに行き、そのまま泊って次の日に帰った。

 本当は翌日の夜まで一緒に遊ぶ予定だったのだけれど、日曜のお昼前に突然彼女の彼氏が家に来て、彼女の母親は仕事で留守だったのもあって、彼女がご飯を私たちに作ってくれた。私も少し手伝った。楽しくお料理して、それぞれのお皿にきれいに盛りつけて、それでみんなで一緒に仲良くテーブルに着いたはいいけれど、そうしたらその彼氏は、彼女のご飯をどんどん横取り? みたいにして当たり前のように食べて行くので唖然あぜんとしてしまった。みなちゃんはアレルギーがあって、その私たちとはちょっと別メニューに仕上げてあったお料理を、ちょっとちょうだい、と言っては美味しい美味しいとにこにこして食べてしまうので、彼女の分が目の前でみるみるうちにほとんどなくなってしまった。ものすごく驚いた。みなちゃんは困ったように笑っていて、でも止めない。それから彼氏は自分の分も残さず食べた。人の彼氏との関係をどうこう言うのはどうかと思うので黙っていたけれど、なんかあたまにきて、私は後片付けを手伝ってからさっさと帰って来てしまった。

 私もあんなにずうずうしいのかな、と思いつつ、いや、あそこまでではない、と思い直したが、とにかくびっくりした。色んな人がいるし色んな恋人の関係もあると思うけれども、ちょっと予想外で、ある意味なんだか衝撃的だった。

 にこにこして優しそうでいい人みたいだったけれど、どんどんみなちゃんの優しさに甘えて、彼女のことを全く省みない、その子供じみた横暴さに本当に驚いた。止めない方も止めない方だと思うけれど。

 それで何だかもやもやしていたら、それから一週間後の日曜日、バイトに行く前に私は近所の家の前で、近所に住んでいるおばあさんが、その家の子供にやさしく声をかけている場面を見かけた。そのときになんかとてもいやな気持になって、またもやもやしながらバイトに向かった。そうしてそのもやもやの正体は、黙々と手を動かすうちにだんだん形が見えてきた。

 その近所のおばあさんは何かの宗教に入っているらしくて、その仲間や自分が気に入った人たちには、とても優しくて親切だ。でも、その宗教の勧誘に乗って来なかったり、はっきり断ったりした人には手のひらを返したように意地悪になるだけではなく、あることないこと吹聴ふいちょうして回ったりする人で有名な人だった。なんでこんなことを知っているかと言うと、うちの母親がその被害にったから。おとなしそうな見た目だがわりとはっきり言うべきときには言う母は、そのお誘いにきちんと丁寧に、でもはっきりとお断りをした。そうしたらそのおばあさんは、あるときからうちの母親に聞こえよがしに何か皮肉めいたことを言ったり、仲間とうちの近くで大きな声でへんな噂話していたり。だいぶ迷惑を被ったことがある。そのうち飽きるとターゲットを変えるのも有名だったので、今はもう何の関わりもないけれど、一時期、見るたびにこのくそばばあ、と私は心で毒づいていたものだ。

 ただ単に優しく声をかけるとか人に親切にするとかにこやかに接するとかなら、それは人の心を温めるいいものだと思うけれども、みなちゃんの彼氏もそのおばあさんも、なんとなく、それを使ってひとの心の柔らかな部分や優しさにつけこんでいるみたいで、なんだか見ていてとても嫌な気持になるのだ。自分にされているわけではないので、私には関係ないことではあるけれども、なんとなくぼんやりしているようなひとや、あまり人を疑わないようなひとをカモにしているような詐欺を目の前で見せられているみたいな気分になるのだ。

 だからどうするということではないけれども、愛や優しさやまごころのようなものを利用して他者の領域をどんどん侵略していくようなものごととは、私はこの先きっちり一線を引きたいし、そうしよう、というのだけははっきりと思った。

 そういうのにずるずるつきあうようなことは嫌だな、と。




 聡子さとこお嬢様の一人きりの反乱は、鈴村家にとって思わぬ波紋を広げたようだ。聡子に執着した元婚約者が彼女に会うために家族との交流を口実にして通い続けるうちに、聡子の妹が彼に同情したのか、二人はいつの間にか密かに男女関係になっていた。しかも妹はこっそり中絶までしていた。それが発覚して大騒ぎになったらしい。なんならそっちでうまくやってくれれば、聡子的には無問題。ちょっとでこぼこでも大団円になるはずだったのに、元婚約者と妹が何故かあたまがおかしくなったらしい(これは聡子の表現)。


 『大切な婚約者(元です)を奪ってお姉ちゃんを傷つけてしまった罪深い私。それでも身を引いて二人の幸せを見守るケナゲなあ・た・し💛はーと』

 と何故か妹のあたまがBOMbとハジケてしまい、

 『姉妹二人を同時に愛してしまった罪深い僕。でも婚約者(元ですけど)を見捨てるような酷いことは心優しい僕にはとてもできない。辛いけれど、彼女(妹)とは悲しい秘密の恋で終わらせて、僕は男の責任をとって婚約者(元ですが)とはキチンと結婚して彼女(聡子)のために一生を捧げてつぐないの為に生きるよ✨きらきら』

 と何故か元婚約者のあたまもBOMbとハジケてしまったそうな。

  *注:これらはすべて聡子による要約・表現です*


「うちって本当になんか変な磁場が働いているのかも。もしくは家族みんながなんか妙な怪電波でも出し合ってて、魔界的な結界でも互いに張り散らかしているんじゃないかしら」

 聡子はそう言って、なんでそうなるの? としか言いようのないクレージーなこのくだらないばか騒ぎを一族までもが一緒になって盛り上げてしまっていて聡子が何を言っても話にならず、お手上げ状態なのだと言った。とにかく日本語が全く通じない。いったいここはどこの秘境なのか、と頭が痛くなるだけなのだと。

「どういう思考回路をしていたらそうなるのか、本当に、できるなら頭蓋骨を切り開いて脳の中を詳しく見てみたい」

 とため息をついていた。

「ごめん、笑っていいのかわからない」

 言いつつも私が口元の笑いをこらえられずにいると、

「こころゆくまで笑って。もう笑うしかないんだから」

 聡子は言った。

「なんか、おつかれ。良かったら私のチョコレート食べる?」

「ありがとう。頂くわ」

 キイナが聡子に大切な秘蔵のゴディバのチョコレートを献上しているのをただ眺めていたら、

「カンナにもあげるからそんなにもの欲しそうに見ないでいいんだよ」

 とキイナが同情して私にもくれた。

「ありがとう、でもなんか失礼な言いまわしじゃない?」

「それより、今度の週末にみんなで海にでも遊びに行かない? 私が運転するからさ。聡子は彼氏も誘いなよ」

「いいね、それ。ちょっとすっきりしたいよね。このままじゃ私の脳みそまで腐っちゃう。神奈かんなは誰か誘いたい人いないの?」

 私は海と陸の二人とつきあっていることは誰にも話してはいなかったので、フリーということになっていた。

「特にいないから一人参加でいいよ。あ、キイナたちや聡子たちの邪魔はしないよ。ただ泳いでいるだけでも楽しめるし。なんか思いきり体動かしてすかっとしたい気分なんだよね」

「カンナと私と克己かつみのいつもの三人で遊ぼうよ、そこに聡子たちが加わるんだから」

「もちろんそれでもいいよ」

「やった、なんか楽しみ。土曜日に行ってどっかに泊ってきてもいいね」

輝幸てるゆきにも言ってみる。私は輝幸の車で行こうかな。現地で合流してホテルも一緒のところに泊るのでどうかな、それで翌日は現地解散」

「それでもいいよ」

「みんなで海でバーベキューとかしてもいいよね。輝幸がそういうの好きだからセットを車で運んでもらうよ」

「いいねそれ。楽しみ。なんかわくわくしてきた」

「せっかくの夏を楽しまないと!!」

 キイナがペンケースを燈明代わりに自由の女神のポーズで夏宣言をしたので、私たちは拍手した。

 ここのところ腐りがちだった私にしても、聡子にしても、とにかく、からっと天日干しでじめじめした鬱陶うっとうしい空気を追っ払いたかったのだ。




「久しぶりに日曜日どこかに行かない?」

 マンションへ帰る道でかいが私にそう言ったので、

「今度の土日はキイナと聡子と一緒にうみに行く約束しちゃった。泊りがけで行くの」

「そうか、じゃあ夏休みに入ってからにしようか」

「そうだね。かいはどこか行きたいところある?」

「うーん、そうだなあ、俺も泳ぎに行きたいなあ。神奈は?」

「特にないかな。楽しめればどこでもいいよ」

「陸にも訊いてみるけど、俺らもうみに旅行に行くのもいいかも。一週間くらい行くのもいいな」

「……私たちもう高校生だし、さすがにそれは親が許さないんじゃない?」 

「大丈夫じゃない? 今まで別にへんに詮索されたことないし」

 言いながらかいは私の肩を抱いて車道側から歩道側に移動させた。ガードレールのない歩道を歩いていたので対向車がかいのすぐ近くを走り去って行った。

「旅行、いや?」

 訊かれて、私は彼の顔を見てちょっと黙った。

「考えといてよ」

「うん」

 何となく気まずいまま私は黙ってそのまま海と一緒にマンションに帰った。 

 リビングで一緒に勉強していると、私がちょっと詰まっているのに気づいた海が、すっと参考書のページを開いて出して簡潔に説明してくれたりする。海はよく気がつくというか、視野が広いのかよく周囲を見ている。私が目の前のことに夢中になっていると、いつもさり気なくフォローしてくれる。陸もそうだけれど、陸が声をかけてからなのに対して、最近の海は何も言わずにするので、たまに驚いてどきっとする。それでお礼を言いそびれたりもするのだけれど。

 参考書をペンでなぞりながら説明してくれる彼の、伏せた眼を縁取る長いまつ毛をなんとなくきれいだなと思いながら聞いていたら、不意に彼が眼を上げて目が合った。海はそのまま黙って私をしばらく見つめてから、ゆっくりと顔を近づけてきて軽く唇を合わせて、静かに離れた。そうして何事もなかったようにまた説明し始めた。

 こういうときってどう反応していいのか、本当にわからなくて困る。この知らんぷりモードに合わせるしかないから、妙に落ち着かない気分になる。

 今までの海ならからかってきたり、冗談を言ったりしていたところで、妙に無口になってるし、かと思えば、今までのんきにしていたところですぐ怒ったり、強引になったりするし。

 知らないうちに息を詰めているみたいに、ちょっと息苦しくなる。

 でも海は、なんだかそういう私の反応を見ているみたいで、知らんふりしながらも、いつもこっちの反応を観察しているみたいだった。なんだかわざと落ち着かない気分にさせているみたいに。

 この頃はどっちかと言うと、陸と一緒にいるほうが私は気が楽だった。

 丁寧に海が教えてくれたところはとてもわかりやすくて、お礼を言ってまたそれぞれの課題に向き合っていたのだけれど、私は妙に落ち着かなくて、キッチンにコーヒーを淹れに立ち上がった。

「新しいの淹れてくるね」

 そう言って自分のマグカップを手に取ると、海は顔を上げずに教科書に目を落としたまま

「うん」

 とだけ返事した。

 コーヒーメーカーをセットしてほっと息をついていると、なんかここにこのまま居座って陸が帰って来るまでリビングには戻りたくないような気がしてきた。

 ああ、酸素、酸素を私にくれ。

 空気を求めて水中から浮かび上がり、水面から顔を出してぱくぱく口を開けて空気をとにかく吸いこもうとしているみたいな気分だった。

 違和感のほとんどは陸よりも海のふるまいだったりするのだけれど、それをどう言っていいものかわからない。しいて言うなら知らんぷりモードに違和感がある、という感じか。でも別に何かする前にいちいち声をかけろとか言いたいわけでもないし、した後になんか喋れ、というのも違う。では私は何を求めているのか?

 ──空気。とにかく息がつきたい。

 はあ、とため息をついていたら、海がいつの間にか来ていて、

「何でため息ついてんの」

「なんとなく」

「ふーん」

 ダイニングチェアに座っている私のそばに立って、海は私を見下ろしていた。その眼差し。目の動きやかすかな表情もとらえて逃さないような──

「何でそんな風に見るの」

「そんな風って?」

「まるで観察されているみたい」

「気のせいじゃない?」

 海がそう言ったので、私はかちん、ときていた。

 こいつ、とぼけやがった── 

「うそ、絶対わざとだよ。そうでしょう?」

 海は黙ったまま私を見下ろしていた。

「考えすぎじゃないの?」

 ──その瞬間、私はパズルのピースがハマるように理解した。

 ああ、そうか、海はまるでゲームの手を進めるように、私を観察しながら自分の範疇はんちゅうに入れようとしているんだ。これは詰め将棋とか囲碁とかみたいに相手を追い込んでいくような戦術みたいなものなんだ。だから逃げたくなるし、息が詰まるんだ。これは私を自分の思い通りにする為の、彼のゲームなんだ──

「海は私を自分の思い通りにしようとしすぎだよ」

 私がそう言うと、海はちょっと反応した。ポーカーフェイスの隙間すきまに、少しだけ、何かが見えたように。今や私も彼を観察していた。その表情や瞳や眉の動き、微かな声のトーンに至るまでセンサーでチェックしているように。

「何か怒らせるようなことした? いやな思いさせてたなら謝るよ。ごめん」

 海はちょっと傷ついたような表情でそう言った。

 私はそれを見ながら、幼い頃に彼らが自分たちで表情や角度をチェックし合いながら演技の練習にいそしんでいたことをぼんやりと思い出していた。

 今までもそういうことはあったけれど、でもまだ冗談めかしていたり、可愛らしいものだったのに、今の海はもう違う。無邪気な遊びを超えていて明らかにやりすぎだった──違和感の正体はこれだったのか──私は彼を見上げながら、

「海、あなたは、大人の男のひととしてそれをしているでしょう。今までの可愛らしい子供同士のじゃれあいやふざけあいの延長みたいなものとかではなくて。女性を自分の思い通りにするために使うテクニックみたいなものを私に使っているんじゃない? そうしてそれをしてもいいって思っているんでしょう?」

 海は私をじっと見ていたけれど、開き直ったように言った。

「そうだよ」

「それがいやなんだよ。それで怒っているんだよ。わからない?」

 そこまで言ったら、ぶわっと涙が出てきた。

 私が突然泣き出したことで、海はちょっと驚いていた。

「何で泣くんだよ」

「知らないよ。勝手に出てきたんだから」

 ちくしょう、泣くつもりなんかなかったのに。これではなんか悔しい。闘う前から負けたみたいじゃないか。なのに涙が止まらず、困っていたら海がティッシュを持ってきたので、それで涙を拭いて鼻もかんだ。なんか口惜しかったので思いきり音をたてて。用意のいい海がゴミ箱も差し出したのでそこにそれをぽいっと捨てた。でもまだ涙が流れ続けているので、またティッシュをとってそれで目を押さえた。

 そこに陸が帰ってきた。キッチンに入ってきて、

「なんだ、また泣かせてんのかよ。けんか?」

「ちがう」

「そう」

 同時に反対の答えを口にしたので陸は海と私を見比べていたが、海に言った。

「神奈はけんかだって言ってるぞ?」

「けんかしていたつもりはないけど」

 海はちょっとため息をついた。

 それから私のそばにしゃがんで、私の顔を見て言った。

「ごめん、また追い詰めたみたいだ。神奈の言うとおりだよ。悪かったよ」

 それはいつものよく知っている海の、困惑したような表情だったので、それでほっとしてまた泣けた。

「あ~、また泣かしてるし」

「うるさいな」

 海と陸が言い合っているのもいつもの海と陸だったので、またなんかさらに泣けた。結局、ああ言おうかこう言おうかとぐるぐる頭悩ませていた言葉よりも、突然ぶわっとあふれてきた涙の方が雄弁だったみたいだ。あれこれ何とか冷静にやりとりしようとしても、結局は海に言いくるめられていたかもしれないし。

「とりあえず仲直りしといてよ」

 陸はちょっとため息をついてからそう言ってシャワーを浴びに浴室に行ってしまった。

 さめざめと泣いている私の頭を、海は子供の頃にしていたように、なでていた。

「思い通りにしようとして、ごめん」

「もうしないで」

 海はちょっと黙った。

「またするかも。気づいたらしちゃってるし。でも、神奈がめてって言ったら止めるようにするよ」

 私は顔を上げて海を見た。

 海は謝っているけれど、本当には悪いと思っていないんだな、そう彼の表情を見て何となく思った。

 困惑しているけれど、私の様子をまだどこかではかっているのが、よくわかったから。

「海が今までどんなことを他の女性たちとしてきたのか知らないけれど、そういう駆け引きやゲームが面白い人もいれば、それにふつうに傷つく人もいるんだよ。私はあなたがそういう遊びで慣れていたようなひとたちとは違うんだよ。そういうのはいやなの。だましているのと同じだからふつうに傷つくんだよ」

「そんなことしてないよ」

「しているよ」

 海は私をじっと見ていた。

「それは焼きもち?」

「そう思いたいならそれでもいいよ。でも私を騙して、その領域をゲームみたいに侵略していくみたいなやり方はしないで」

「そんなにおおげさなこと?」

「海は麻痺まひしているんだよ、きっと」

 陸の方がまだちゃんと話が通じる。でも、海は──私はまたなんか涙が出てきた。

「このままいったら、本当に、海のことが嫌いになる。嫌いになりたくないけど、でももういやだ。息が詰まる。今の海はやりすぎだよ」

 さすがに泣きながらそこまではっきりと言ったら、海も驚いていたけれど、神妙な表情になった。

「わかった。気をつける」




「久しぶりだね」

 屋上から一人で中庭を見下ろしていたら、葉月はづきが声をかけてきた。

「しばらく見なかったね」

 私がそう言うと、

「あれ、言ってなかったっけ。交換留学でホームステイしてきたんだよ」

「そうだったんだ。いいな」

「楽しかったよ」

 色々現地でのエピソードや留学についてのあれこれを聞いていたら、チャイムが鳴ったので、

「お昼一緒に食べない?」

 私が言うと、彼女はいいよ、と言って二人で屋上から建物の中に入った。

「またあとで。屋上で待ってるよ」

 言って去っていく彼女の後姿に手を振って、私は自分の教室に戻った。

 お昼休みに葉月と二人屋上でランチをとりながら、私は彼女に尋ねていた。

「ねえ、男女の駆け引きって自覚なくつかうもの?」

 葉月は私をきょとんと見てから笑った。

「何いきなり。そんなのいちいち考えてしないでしょうよ」

「そう? 意図的にしているんじゃないの?」

「そうだけど、半分無自覚、半分自覚しているみたいなものかも。でも、男女の駆け引きに限らずに、人間関係ってみんなそんなものでしょう。たいていはみんないちいち頭でこうしようああしようなんて全部考えて何かしてないでしょう。何となく動いていたりしていたり。その中にはっきりと自覚的な意図が混じるくらいなもので、自覚から無自覚までがグラデーションになっている。それで半分夢のなかにいるみたいに無自覚なんじゃない?}

「そっか、男女の駆け引きって特別に区切るから、わかりづらくなるんだ」

「何があったのか知らないけど…んー、そうだな。神奈はあまりそういう駆け引きめいたことしないよね」

「駆け引きには大なり小なりあると思うけれど、それって結局は自分の思い通りにする為の取引だよね。そこには必ず、自分の思い通りに相手や物事を動かしたいっていう意図があるでしょう。それがいいか悪いかというよりも、そうして囲い込んでいく強引な感じがあまり好きではないんだと思う」

「うーん、そうだなあ。互いにそれを合意の上でゲーム感覚で楽しむ分にはいいけれど、こっちの都合お構いなしにそれやられたら、確かに鬱陶うっとうしいよね」

 言ってから葉月は笑った。

「でもさ、かくかくしかじかこれこれについて私たちは合意します、なんて契約書交わすわけでもなし、やっぱりそれも阿吽あうんの呼吸みたいなものでやりとりするから、その線引きはもう各自のセンス次第だよね」

「なるほど、センスがないって、そういう意味でも言うんだ」

「そうそう」

 おかしそうに葉月は笑った。

「それにぶっ飛んだセンスの持ち主に出会うのもまた面白いじゃん。基本的に悪意があるのはいらないけどさ。面白いのは刺激になるし、こっちの感覚も磨かれるってものでしょう」

 あっけらかんと笑っている葉月と話しているとなんだかほっとした。小さく縮こまっていた何かがほどけてく。シリアスになりすぎないで楽しもうよ、という気持ちになってくる。

「もしかしたら神奈は、自分で思うよりも、自分の意図を通そうとすることに対して悪いことだみたいな気持ちがあるのかもよ? それでアレルギー反応みたいに敏感に反応しちゃうの」

「そうなの?」

「そうなのって、自分のことじゃん。ただなんかそんな風に思ったから言っただけだよ」

「そうなのかなあ、わからないや」

「それか、それでものすごく嫌な思いしたことがあるとか」

 言いながら葉月が、あ、という表情をして

「だってつい最近までそれですったもんだしてたじゃん。そりゃ、嫌気もさすって! ばっちりトラウマにもなるさ」

 そう言われて私は、ああそうか、と気づいた。

 亜実ちゃんや一連の騒動のなかで私が見てきた彼女たちの姿が、そういう強引に自分の都合を通すような駆け引きめいたへんな取引に満ち満ちたものだったからだ。不愉快な嫌な思いをさせることで自分たちの要求をのませようとしたり、譲歩させようとしたり。こちらの都合などお構いなしに、ただそれを通すために、相手にこちらの領域に侵入されて、何かを奪おうとされたり壊そうとされたりした。そうして散々土足で踏みにじられてきたからだった。

「そうか、思ってたよりも、ダメージ受けてたんだ」

「そう言えば、例の子、まだライブハウスに来ているけれど、今は特に神奈のこと訊き回ったりしてないよ。ただなんか、ちょっとしため事は起こしているっぽい」

「ふーん」

「あまりよく知らないけれど、噂だから。なんか自己啓発のサークルみたいなものにはまってるとか。それで周囲の友達にも声かけているとか。なんかその勧誘にまつわるトラブルが起きているみたいだよ」

「もう好きにして、こっちに関わらないで、って感じ」

「そりゃそうだよね」

 私は青い空に広がる真っ白な大きな入道雲を見上げた。澄んだ青と白の鮮やかなコントラストがとてもきれい。すかっとした夏の空だ。からっと短時間で湿気を吹き飛ばしてしまう。

「なんかありがとう。葉月と話したら、何となく霧が晴れたみたい」

「そう? ならよかった」

「うん」

「あー、きれいだね。空が青い。気持ちいい」

 葉月も空を見上げて、うーんとその華奢で長い腕を思いきり伸ばした。

 伸びやかな肢体を、さらに伸び伸びと夏の空に解放するみたいに。

 それを何かきれいだなと思いながらとてもいいものを眺めるように私は見ていた。




「海がけっこうまじでへこんでるぞ」

 迎えに来た陸に開口一番に言われて、私は言い過ぎたかも、と思い直した。

「ちょっと神経過敏になって、過剰反応していたのかもしれない」

 そう言って、葉月と話したことをちょこっと陸に話した。

 一連の出来事でアレルギー反応を示しているんじゃないかっていう話。

 陸は黙って隣を歩きながら聴いていた。そしてそのまま黙りこんでしまったので、私も何となく黙ったまま彼と一緒に歩いた。

 マンションに着いてから

「海もそうなのかも。逆の意味でだけど」

 陸はぼそっと言った。

「どういう意味?」

「変に影響を受けたってこと。でも海の方は、自分がしたいことや大切にしたいものを奪われたり壊されたりするかもしれないってことに対して過剰防衛かじょうぼうえいみたいに攻撃的になってる。それでたまに自分でも歯止めがきかない」

 私が黙りこんだのをしばらく見ていた陸は、何か飲む? と冷蔵庫を開けた。

 氷を入れたグラスに炭酸飲料を注いで、二人で黙って飲んだ。

 陸は一気にグラスの炭酸飲料を飲み干してから派手にげっぷをしたので、なんか一緒に笑っていたら、もう一杯をグラスに注ぎながら彼は言った。

階堂かいどうは、俺たち二人にファンレターみたいなの送ってきてたけど、中等部の時に海と同じクラスになった時に、海に特に熱を上げてたみたい。海って面倒見がいいだろう。教えるのうまいし。それでクラスメートの何人かに解らないところを聞かれたり頼まれたりして、ミニ勉強会みたいなことをちょっとしてたみたいだ。そのときによく海に質問に来ていたのが階堂だったんだって。海はふつうに誰にでも親切に教えてたから、それでわりと仲良くもしてたみたい。俺と階堂とは同じクラスだったことはあっても直接にはそんなに接点がないから、あの事件の時、海の方がけっこうぴりぴりしてたし、ショックも受けていたんだよ。それでなんか変に影響も受けたんじゃないかなーって。推測だけど」

 私は手元にある泡の昇ってくるグラスの中を見ていた。

「人って、思っているよりも怖いね。関わることで自分でも気づかないところで変な影響を深いところで与え合っていたりして。それに本人も気づいていないのに、しっかり影響は受けているとか」

 私がそう言うと、陸は私を見た。

「そうだけど、でも、それだけでもないだろう。嫌なことばかりでもないだろう? 神奈も俺らも嫌な思いしたし、思わぬところで影響も受けているけれど、だからって俺たちがそれで互いに関わることを変に怖がったり避けたりしたら、ますますその変な影響の方が大きくなるだけじゃないか」

 真っ直ぐにこっちを見ている陸に私は、そうだね、と頷いた。

「とりあえず始めるか」

 その場の空気を変えるように陸がそう言って、リビングに移動したので、私も後に続いて二人でそのままそれぞれの思いをせながら黙々と勉強した。その日の課題が多かったのもあり、私は次第に集中していきしばらく時間を忘れた。ふと気づいたら、陸がこっちを頬杖ついて見ていたので

「どうしたの?」

 と尋ねると

「真面目にやってんな~と思って」

「ふーん」

「コーヒー淹れるけど飲む?」

「うん、ありがとう」

 陸がコーヒーメーカーをセットしに行ってからこっちに戻ってくると

「粉が切れかかってる。ちょっと散歩がてらに買いに行かない?」

「いいよ」

 外の空気を吸いたかった私はすぐに立ち上がった。

 それでサイフだけ持って、私たちはマンションから出た。

 明るい夕方の道を二人で手をつないでお喋りしながら歩いて、近くのスーパーでコーヒーの粉を買って、また手をつないで来た道を戻っていたら、なんだかこうやって一緒に買い物に出て、一緒に家に帰るっていいなあ、と思った。夕方のまだ明るい光のなか帰宅する人たちに混じって自分たちも家に帰る。手にスーパーの袋をぶらさげて。なんだか家族みたいだ。

「いつだったか部屋割りのエピソードを話したことあったじゃん?」

 陸が歩きながらそう言ってきたので、私はうんと頷いた。

「神奈はあのときのこと、あまり覚えてないの?」

「うん。陸から聞いてへえ、って思ったけど、まったく覚えてない」

「そうか」

 陸はそう言って黙った。

「私がごうつくばりだったってことでしょ」

「そうそう」

 陸は笑った。

 私はちょっと陸を見上げながらなんとなく訊いてみた。

「私ひとりのスペースに、海と陸の二人を押しこめようとしてるっていうの、それはいいの? 本来ならそれぞれにパートナーがほしいものなんじゃないの?」

 陸はちょっと黙って私を見た。

 それから言った。

「なんかそれ、やらしいなあ」

「え?」

 言ってから、私はかッと赤くなった。変な意味にもとれることに気づいたので、パニックになって焦って、ますます赤くなって、のたうち回りたくなった。ひー、もう死にたい! 

「ち、ちがう、そんな意味で言ったんじゃない!」

「わかってるよ、落ち着け。落ち着け。ちょっとした冗談だから」

 陸と私は目を合わせ、もう笑うしかなくて笑い出した。げらげら笑っていたら、ここのところの妙な空気が吹き飛んでなんか気が楽になった。そうして軽口をたたくように冗談を言い合いながらマンションに帰ると、陸は笑いながら私に言った。

「さっきの話の続きだけどさ、何か気づかない?」

「続き?」

「このマンションの間取り、あのときのセットの家の間取りと似てるんだよ」

 言って陸は私に、自分の部屋のドアを開けてみせた。

「ほら、こっちに俺と海の部屋。同じ大きさのがふたつ。広いダイニングキッチンに、大きなリビング」

 陸は私の手を引いて、部屋を移動していった。

「それで、こっちにも部屋があるんだよね」

 そうしてリビングをはさんで向こうにある部屋のドアを開けてみせた。

 広い洋間で、陸と海の個室の倍よりは少し小さいけれどそれに近いくらいの広さだった。でも何も置いてない。がらんとした空間だった。カーテンだけがかかっていて、今はレースのカーテンがひかれていた。掃き出しの窓から夕陽が入って室内を照らしていた。

「ここ、神奈の部屋にしてもいいよ」

 陸はそう言って、私を部屋の中に入れて

「みんなでずっとここで一緒に暮らそうよ」

 と言った。

「そんな無茶な」

「何で? 別に誰にどう思われてもいいだろう?」

 私は陸を見上げて

「……これじゃあ、私がごうつくばりのままじゃない。それに、この家に私の部屋はいらないよ」

「じゃあ、三人の部屋にするのは?」

 陸が握った手にぎゅっと力を込めて私を見つめるので、黙ったまま目を合わせていたら、海が帰ってくる音がした。それで私たちも部屋を出てリビングへ移動した。海はこっちには顔を出さずに直接浴室に入って行った。

「すぐにとは言わないけれど、考えておいてよ」

 陸はそう言って、私を置いてキッチンにコーヒーを淹れに行った。

 


 海が着替えを済ませてキッチンへ来て冷蔵庫を開けている音を聞きながら参考書に目を落としていたら、陸が「ちょっと、海の部屋に行ってくる」と席を立って、海に声をかけて海の部屋に一緒に行った。しばらくして戻ってきてから私に

「ちょっと海のところに行って二人で話して来てよ」

 と声をかけてきたので、

「何話すの」

「過剰反応したって言ってただろう。俺からも少し話したけど、神奈の口から海に言ってよ」

 陸に手を引っ張られて海の部屋に連れてかれたので、私はドアをノックした。

「海、入っていい?」

 海がドアを開けて私を見たので、目でいい? と訊いたら、彼は黙ったままでうなづいたので私は彼の部屋の中に入った。

「ごめん、こないだは言い過ぎたよ」

 私がそう言うと、海は私を見つめてから

「謝らないでいいよ。陸からも聞いた」

 海はそう言って、座る? と勉強机の前の椅子を引いて、私を座らせた。そうして自分はベッドに腰掛けた。だいぶ距離をとって互いにしばらく黙っていた。気まずいような沈黙が続いて困っていたら、海が自分の手元を見つめながら言った。

「影響を受けていようとどうだろうともう、たぶん神奈も俺も変わったんだよ。全部なかったことにして以前のように戻ることなんてできないんだし。今の神奈にとっていやなものなら、それが今の神奈の正直な気持ちだろう? それが過剰反応だろうと何だろうと、それが今の本当の気持ちなんだから、無理に違うことにしたらまたそれでおかしくなるんじゃない? 少しそれと距離をとることができるくらいで、基本的には今の自分が感じることがもう今の自分にとっての真実なんだから、それを受け容れていくほかないんじゃない?」

 海は私を見つめてから、ふいと視線をそらして立ち上がった。

「陸も待っているから、向こうに行こう」

 私は立ち上がらずにそのまま海を見つめていた。

 海が私を振り返って

「行かないの?」

 と尋ねてきたので

「海はどう思っているの」

「今話したよ」

「私のことではなくて、自分のこと」

「同じだよ。基本的にもう今の自分が感じることが自分の真実だって思うし、それを受け容れるしかないって思ってる。それで嫌われるなら仕方ない。神奈が止めてって言うなら、止めるようにするけれど、でもそのときにどうなるかなんて、自分でもわからないよ。自分がしたいようにしちゃうかもしれない。気づいたらもうしてるかもしれないんだし」

 そう言ってから、海は私をじっと見た。

「あと、神奈はなんか勘違いしてるみたいだけど、俺は別に駆け引きして遊んだり面白がったりなんてしてない。だから以前関係のあった誰かと同じように神奈に接してゲームを仕掛けるみたいなことはしてない。確かに神奈に駆け引きめいたことはしていたけれど、それは自分がしたいようにしていただけで、誰かと同じように扱ったとかそういうことはないよ。遊びやゲームじゃなくて、本気で自分のものにしたいからしてただけ。そのやり方が神奈を傷つけていたなら謝るし、気をつけるけど」

 なんかほっとしている自分が居た。

 何となく緊張が解けた気がしていたら、海はまだ私をじっと見ていた。

「俺のことなんだと思ってたんだよ」

 私は失礼かな、と思いながら

「なんか怖くて、得体が知れない、知らない男のひとみたいって思ってた」

「俺が神奈のことを面白がってもてあそんでいるみたいに思ってたの?」

「少し」

「今は?」

「以前の海とは違うけれど、でも海は海なんだなって思ってるよ」

「まだ怖い?」

「ちょっと」

「俺のことまだ好き?」

「うん」

「男として見てる?」

 私はちょっと黙って彼を見つめた。

「だから怖かったんだよ。知らない男のひとみたいに思えて」

 海は、少し息をついて、

「わかった。もういいよ」

 そして私のそばに来て手を差し出したので、その手を取った。彼に手を引かれるようにしてリビングに戻ったら、陸が顔を上げて

「仲直り?」

「とりあえず和解した」

「そうみたい」



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