太陽を壊す
食大
第1話
実験だ。どんなに偉い政治家も、世界一物知りなカガク者でさえ、その対象だった。その事実を、知っていた者も居たのかもしれない。だがどんなに抗おうとも、至る所に張り巡らされたインターネットの電波網から逃れるなど、一般人には到底無理だ。宇宙に飛んでいくか、海底に潜り込むか、それか何処かアマゾンの未開拓地に住み着くことでしか、達せられないだろう。宇宙で放射線を沢山浴びて癌で死ぬよりも、海底の水圧でペシャンコになるよりも、未開拓の地で暮らすよりも、普通の地上で幸せに生きるだけの方がよっぽどいいに決まっている。そう、僕は思う。
世界は急変した。…地球レベルの時間感覚で言えば、そうだろう。ただ、人間達は確かに、変化の予感を感じ取っていたのだ。始めは、微弱な放電の調節が出来る程度の話だった。その事実は二十数年前に発見され、数多くの研究の対象になった。進化は年数が重なる程にエスカレートして、最近では例えば錬金術のような、魔術みたいな異業をこなす人間や、テレパシーか何かで会話をする猛者も現れ始めた。朝のニュース番組に出演していた科学者は、インターネットの電波が人間の体内に蓄積し、何世代にも渡って繰り返され、産まれる子により濃い濃度のそれが受け継がれたからだと言っていた。
この進化に、世界は興奮した。まさに、昔のアメリカとかいう国のヒーローコミックスみたいな出来事だ。これからは、きっと素敵なヒーローが現れて、飛行機が墜落しそうになっても、橋が崩れそうになっても、地震でどんな大津波が来たって、大丈夫になるんだ。僕は、何の迷いもなしに、そう、思っていた。
所持の制限の効かない、武器を持った人々の制御は、容易ではない。国は法整備に追われている頃だと、先生が言っていた。おまけに、この世界に現れたのは、ヒーローどころかこそこそと強盗を繰り返すゴロツキや、恋人を殺す殺人者ばかりだ。そう、ヒーローというヒーローなど、全く全然、現れなかったのだ。
ーーどうしてか。僕には、分からない。
だって、僕がそんな能力を手に入れたとしたら、…。
ああ、でもきっと、ヒーローなんかになったら、毎日悪人と戦って、たまには人を殺してしまって、そして死んだ人の家族から恨まれて、それから誰かが僕の命を狙うんだろう。
もしかしたら、僕の母さんも、標的になってしまうのかもしれない。それは、出来る限り避けたいものだ。
だったら、僕も、ヒーローなんかになりたくないや。
僕が己の能力に気が付いたのは、それから六年経った初夏の頃だ。好きだった女の子に男が出来て、酷く落ち込んでいた。不貞腐れたまま、大袈裟に足を踏み鳴らして帰り道を歩いていたら、コンクリートが割れて、足が挟まりそうになった。
ーー何だよ、ついてないな、お気に入りの靴だったのに。
真っ白だったブランド物のスニーカーに、黒い引っ掻き傷のような線が沢山入っていた。とにかくその日は、運が非常に悪く、こんな日はさっさと寝て終わらせるべきだと、そう思った。それなのに、何かに手をつく度に、足を踏みしめる度に、触れた物が崩れていくのだ。すぐに、世でいう超能力というやつなのだと分かり、うんざりした。変な能力を持っているだけで、チンピラの一味だと勘違いされるようなこの世界で、こんなにもあからさまな力は、持っているだけ損だ。本当に本当に、僕はその日、ついていなかった。
その日を境に、なんて、昔の少年漫画のお決まりの展開は、僕には訪れなかった。あの日は一体、何だったのだろうか、現実だったのかすら分からなくなるほどに、あれから何も起こらない。何も、出来ない。物を無闇に壊してしまうことはないし、崩れたコンクリートの痕跡だって、あっという間に跡形もなく消し去られていた。何事も無かったように刻まれる時間に、ただただほっとしていた。
「ただいま」
玄関のドアを潜り抜けて、居間へ向かう。廊下の床は今日は透明で、足下には数種類の煌びやかな小さい魚が泳いでいた。踏み付けてやろうと、小さな影を追い掛けていたら、いつの間にか居間にまで到達していて、母さんが呆れ顔で
「馬鹿な子ね。さっさと着替えなさい」
そう言って僕を睨んだ。
今日の母さんはご機嫌だ。僕の好きなフジという銘柄のリンゴを、こっそり洗っているのが見えた。だから今は従順に、着替えを済ませると居間へ素早く戻った。予想通り、綺麗に切られたリンゴがテーブルの上に載っている。一切れ、つまんで、しゃり、と口に含んだ。フジは口の中で柔らかく崩れ、小さな粒々が甘さと果汁を口内全体に広げていく。じわりと溶ける果肉が、喉を伝って奥へ消えた。リンゴの中でもフジという銘柄のものは、甘さと硬さが絶妙だ。それに、フジという名前は、富士山を連想させる。映像でしか見たことがないけれど、綺麗な台形をしている、立派な火山だ。日本国で一番高いこの山は、他の国の名山とは違って、ただぽつんと寂しげに聳えていた。彼の山の紺鼠色は、神秘的だ。誰かが押し潰してしまうまでは、人気の観光地だったというが、納得がいく。
「食べ過ぎたら、駄目よ」
母さんは、いつまでも僕を子供扱いする。そこに彼女の祈りが篭っている気がするから、これまでのように、
「わかってるよ」
そう言って、あと何切れか、口に放り込んだ。それを見届けた母さんは、いつも通りくすりと笑った。
一年程前のことだっただろうか。テレビの放送もインターネットも、国営放送に突如切り替わり、上様が静かに世界の終わりを発表した。その時僕は学校を腹痛で休んでいて、家にひとりぼっちだった。暇つぶしに観ていた古い洋画が突然切り替わり、僕はその辛気臭い放送をリアルタイムで観る羽目になった。
「ちょうど五年後に、太陽に飲み込まれて、この地球は無くなっちゃうなんて…。」
翌日、同級生の口をついたこの嘘みたいな言葉に、その場に居た誰もが笑うことなく、葬式でよく見るような、神妙な顔つきでしんみりと佇んでいた。
その日から、世界は少しずつ変わっていったようにみえた。隣の小林さんは、夫婦揃って仕事を辞めて、最初の方こそ腑抜けた様子で居たのだが、しばらくすると谷中の神社に通ったり、新宿のアパートから戻って来た息子夫婦と近所を散歩したりしていた。なんだか幸せそうだ。
僕の母さんは、何も変わらなかった。ただ、あの放送を聞いたすぐ後に、
「一緒に居ておくれね」
と言っただけだった。そして、父が帰って来ても、そのことについては何も話さずに、普通の暮らしがまた始まった。それを見届けると、なんだか考えるだけ無駄なのだという気がしてきたので、僕は今も、ろくに世界の終わりについて考えたことがない。学校はまだあるし、ほとんどの大人達は相変わらず仕事をしている。衣食住に金がかかるのは変わらないので、誰もが小林さん達のように、自分達の思いに耽ることが出来るわけではないのだ。変化の無い日常に焦燥を感じる人も多いみたいだが、そんなことを考えても仕方が無いのだと、半ば冷めた心持ちで生きていた。隣の席でくっ付きあって、熱く語り合う友人達を横目で見ていた。彼等の勇気が、少しだけ羨ましかった。
そういえば、通告の日のすぐあとの世界は、いつもより少しだけ荒れたようだった。ゴロツキどもが派手に活動し始めて、有名な野球選手のサインボールや美術館にある油絵などが次々と盗まれていった。だが、犯人達はすぐに捕まってしまったので、夏が始まりそうな頃には世界はとっくに元の情勢を取り戻していた。
相変わらず朝は眠たくて、一層ベッドから抜け出すのが億劫になった。だって、ここを出たら…また、暗い人達の言うことを適当にあしらって、彼等をなんとなく満足させるだけの時間が待っている。世界の終わりを知る前の世界は、こんなにも面倒なものだっただろうか。何もかも、全てーーそれをする意味など、一体どこにあるというのだろう。随分と大きくなったお日様を眺める度に、いっそのこと今この瞬間に、此奴に吸い込まれてしまいたいと、そう思うことがあった。だがそれは一瞬のことで、その一瞬の間に全てが終わっていてくれたらどんなにいいだろう。きちんと人生を全うさせてくれないなら、どうして生まれなきゃいけなかったんだろう。
少し苛立ちながら、自室のドアノブに触れようとした。すると、忽ちそれは粉々に崩れてしまった。
ーー今更、これか。
粉々になったドアノブが床に散乱しているのを見ると、沸々とした怒りが腹の底を擽った。そのまま不機嫌にドアを押し開けようとすると、触れる寸前に勢いよく崩れ去ってしまった。腸が煮えくりかえりそうだ。
つづく
太陽を壊す 食大 @hakomuyo
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