未熟

杏ノ鞠和

未熟

 電車の少し空いた窓から湿った夜の空気が入り込んできた。読んでいた文庫本のページがはらはらと風で流され、急に読む気が失せる。暦の上ではもう3月だというのに、春風に乗ってくるのはかすかな冬の匂いであった。


「わたしも早く会いたい🥺」

 級友である琴子ことこにそうLINEを返し、そっとiPhoneをショルダーバッグへ滑り込ませる。春休みが明けたら高校生になるが、特別胸は高鳴らない。

 春は出会いと別れの季節だと言うが、私達が通う私立櫻ヶ原学園しりつさくらがはらがくえんは中高一貫の女子高であるため、高等部に上がったところで顔触れは変わらないのだ。


 私立櫻ヶ原学園はネーミングのせいでお嬢様学校と勘違いされるが、決してそんなことはない。確かに私立なだけあって一般の学校に比べたら学費は高いのかもしれないが、地元の普通の子が通うしがない地方の私立である。ただ、学園へと続く長い坂道は桜並木となっており、春には見事に桜が咲き乱れる。そのため、気恥しくなるような校名でも納得せざるを得なかった。


 入学当初こそ桜に圧倒されたが、毎年見ているとお腹いっぱいになってしまう。それは、あれだ、苺のショートケーキに似ている。見た目も華やかで口に運んだ瞬間、甘酸っぱさが広がり深い幸福感を味わえる。だが、後半に差し掛かると甘酸っぱさは甘だるさに変化する。懲りずに食べ続けると胸焼けを起こすのがオチである。

 この桜たちにもその甘だるさを感じつつあった。


 坂を登りきり、高校生になって初めて学園に足を踏み入れる。自分のクラスを確認し、新しい教室へと向かった。それにしても見渡す限り、女、女、女。

 甲高い笑い声と止まらない話声があちらこちらから聴こえてくる。女子高は高濃度の女を生み出す箱庭だ。


「あ、実紗都みさと!おひさ!会いたかったよーー!」

 琴子だった。相変わらず声が大きい。

「久しぶり、なんか痩せた?」

「え!わかる?実は彼氏が出来てダイエット中なんだぁ。」

 琴子は、ふふんっと鼻を鳴らす素振りをわざとらしく作る。何もかも大袈裟な琴子は裏表がないため付き合いやすく、中2の時に知り合ってからいつも2人で行動している。


「バッグ置いたらちょっと早いけど講堂へ行こう!」

 琴子の提案に乗っかり、始業式が行われる講堂へ向かう。

 皆も同じ考えらしく、パタパタと少し重い上履きを鳴らす音が同じ方向へと進む。


 中高一緒に行われる始業式は同級生はもちろん、上級生、先生たちの顔触れもほぼ同じである。だが、1人知らない顔があった。

 ほんのり茶色がかったロングヘアを揺らし辺りを落ち着きなく見渡す大人の女だ。新しく赴任してきた先生らしかった。

 始業式の後、彼女は壇上にあがるよう指示され、軽い挨拶を始める。桜色の薄手のニットが良く似合う愛らしい顔を緊張からか強ばらせていた。

 この間まで大学生であったという彼女は、櫻子さくらこという名前らしかった。ここの学園出身でクラスは担当せず国語を教える非常勤講師である。


 少し鼻にかかった声を震わせながら作り笑顔で挨拶をしている姿に甘だるさを感じた。女を女として捉え女を見事に演じている彼女は、私にとって重く胸焼けを起こすような存在であった。


 櫻ヶ原学園卒の櫻子先生は、歳が近く見た目も可愛らしいためすぐに生徒たちから人気を集めた。授業もただ文字の羅列を淡々と読ませるような古典的なものではなく、校庭に出て和歌を創作するなどアクティブかつ生徒が飽きない工夫が施されていた。

 また彼女は本が好きらしく、授業中には面白かった本を熱く紹介するコーナーがあり、時々夢中になり過ぎる彼女をクラス中微笑ましく見ていたと思う。だが、私は好きになれなかった。彼女の紹介する本は、確かにどれも面白く名作である。だが、模範の域を越えないものばかりであった。よく目を凝らせば見えそうな薄い膜のような物で自らを取り繕うようにしている、そう感じていたのだ。


 桜の花びらが全て青々とした葉に代わり、陽射しにもやや夏らしさが感じられるようになった日曜日の午後、私は学園の図書館にいた。

 図書委員とか文芸部とかそういう組織には属していないが、本を読むことが好きな私は休日でも足繁く図書館に通っている。いつもは家からほど近い公立図書館へとむかうのだが、蔵書数が限られてしまっているため、私が読みたい本がそこにはなかった。

 だから、わざわざ長い坂を登りここまで来たのだ。


 学園の図書館はかなり広く、地下に書庫まで有している。休日であるため人はいない、私だけの図書館だった。目一杯本の匂いを肺に押し込む。

 目当ての本を探しつつも、他の本にも目を奪われる。これ読みたかったやつ、次はあれ読もう、あの本懐かしい、そんなことをしていると既に日が暮れかけていた。あと30分ほどで図書館が閉まってしまう。急に焦りを感じ、足早に翻訳本の書棚へ向かう。


 さ行から本を指でなぞり、一つ一つ丁寧に探す。


 ジョン・クレランド『ファニー・ヒル』


 ついに目当ての本をみつけ手に取る。


「貴方にはまだ早いんじゃない?」

 背後から声を掛けられ、思わず身体が弾んだ。振り向くと櫻子がいた。なにも応えない私を見てもう一度言う。

「その本、貴方にはまだ早いんじゃない?」


 誰もいないと思っていた図書館に櫻子がいた事に驚き思考停止していたが、持っていた本を見られた挙句、まだ読むには早いと指摘されていることにやっと気付きカッと顔が熱くなる。

 それが怒りなのか羞恥なのかまた別の感情なのかわからなかった。


「私が何を読もうと勝手です。」

「確かにそうね。さっきの言葉は教員として言ったけれど、私も実紗都さんと同じ歳にこの本読んだわ。」

 そう言うと櫻子は目を細めた。あの薄い膜はなかった、ように感じた。


「その本借りるんでしょ?是非感想聞かせてね。私、日曜日の午後は大抵ここにいるから。今日はもう図書館を閉めるから一緒に出ましょう。」


 その後、特に会話はせず、さようなら、と言って学園を後にした。


 家に帰り、夕食と風呂を早めに済ませ、『ファニー・ヒル』を読む。

 次の日学校だというのに、夜中の3時まで読みふけった。最後のページを開くとそこには貸出カードが挟まっていた。今はバーコードで管理しているが、数年前まで手書きで管理していたらしかった。

 貸出カードには櫻子の名前が1つ書かれていた。この本を読んだのはまだ学園に2人だけ。櫻子と私だけだ。


 来週の日曜日、きっと私は櫻子に会いに行くだろう。

 初日に感じたあの甘だるさを甘美と表現するには、私はまだ未熟だ。


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