第8話
天正六年(一五七八)三月、関東平野を長年にわたり蹂躙し、苦しめてきた越後の龍こと上杉謙信が厠で突然倒れ、意識が戻らないままこの世を去った。
謙信は景虎の他に、甥の景勝も養子としており、二人の相続争いが勃発し、越後はたちまちのうちに二分された。
この時氏照と共に下野に出陣中で動けなかった氏政は、鉢形城に残っていた氏邦を越後に派遣した。さらに甲斐の武田勝頼に、景虎への援軍を依頼した。
これにより周辺諸将が景虎支持となり、景虎が優勢となった。
ところが、まさかの事態が発生した。
梅雨も明けた頃、鉢形城へ戻ってきた氏邦が、憤慨した様子でぶちまけた。
「景勝も景勝なら、勝頼も勝頼だ」
名家の武将を、乱暴に呼び捨てにした。
相当な怒り具合である。
「景勝のやつ、莫大な賄賂で勝頼に仲裁を持ちかけやがった」
さらに勝頼の妹を娶る約束を交わし、甲斐の兵を退かせた。
「勝頼には、おれたちの妹を嫁がせているはずなのに」
憤懣遣る方ないといった様子で、床板を激しく叩いた。じりじりと増す暑さと怒りとで、全身の汗が一向に止まらないようである。
幼くして二回りも年かさの勝頼に嫁いだ北条の姫のことを思い、福はまた胸を痛めていた。おそらく父親のように頼みにしていたはずの夫に、このような裏切りをされ、どれほど身の置き場がない思いをしているであろうか。
勝頼のこの裏切りにより、氏邦はやむなく鉢形に戻ってきたわけであるが、
「腹が立ったから、帰り道に城を取ってきた」
まるで、ついでのように言った。
帰路の途中の城々を攻め、上野の大半を北条の傘下にしてきたという。
「まぁ、それはそれは……」
とりわけ沼田城など、上野攻略の足掛かりになる重要な拠点となる地である。
利根川に複数の支流が合流し、それを見下ろす河岸段丘の上に建てられた堅固な城で、実際にはとてつもない苦労を重ねて攻略したに違いない。
が、それを見せず、何でもないようにさらりと言うのがこの人なのだなと、福は改めて思った。
これを聞いた小田原の氏政は、弟の抜け目のなさを褒め称えた。
沼田城代に氏邦の腹心となっている富永助盛を置いたが、その奉行の一人に福の兄、重連も選ばれた。
「弥八郎は藤田の血縁であり、家臣としてよく仕えてきた功績を認める」
との評を聞き、福は素直に喜んだ。
「兄上どのは、福のことをいつも庇ってくださっていたからな」
氏邦も一緒に喜んでくれているように思えた。
それから
「上杉家中の和睦が破綻したので、すぐさま景虎への援軍に向かえ」
使者も顔が真っ青であれば、受けた鉢形城の面子も皆、顔面蒼白となった。
「三郎、すぐに行くぞ」
大急ぎで出陣していく氏邦を見送り、福は身震いがした。
それほど、景虎の存在は、北条の北方攻略において重要であった。
北条軍は始めこそ勢いがあったものの、越後の樺沢城まで進軍した辺りで雪に阻まれ、身動きが取れなくなった。やむなく樺沢城に代官を残置し、氏邦らは沼田城まで撤退せざるをえなかった。
鉢形城の方も春まで主力隊が不在となるため、残った守備隊には平素よりも緊迫した空気が張りつめた。
そんな中、福は戦勝祈願と称して、青龍寺詣でをし、七日間の参籠を行った。
初日だけ九歳になった東国丸を同伴させたのだが、賑やかな境内で東国丸と同じ年頃の小坊主が出迎えてくれた。
ひと目で分からないはずも無いほどに、東国丸と瓜二つである。
少年たちは互いにすぐ気付いたようだが、特に話をすることもなく、しばらく見つめあった後、深く会釈だけした。
東幡和尚の取り計らいだと後から知ったが、二人をこうして並べて見ることができるとは、夢にも思っていなかったので、福は胸がいっぱいになった。参籠中、何度も思い出し涙がこぼれそうになった。
ただ、帰途にて、このことは氏邦には黙っておかねばと、はたと思い出した。
おれも会いたかったのに、と必ず怒るだろう。いたずらを思い出した子供のように、福は小さく笑った。
雪が深くなる頃、沼田城に滞在していた用土重連が急死したという報が届いた……。
病死だと鉢形へ伝えられた時には、すでに沼田で葬儀も終えていた。
何もかもが急すぎる。上野は、それほどに切羽詰まってた状況なのであろうか。用土にいる身内は、位牌のみをどのような心持ちで受け取ったのだろうか。
自分自身も兄の葬儀に行くことができず、福は、漠然とした不安を感じとっていた。
──あの日、重連が前触れもなく秘かに福に会いに来たのは、氏邦の軍が越後から沼田城へ撤退を始めたくらいの頃合いであろうか……。
母の葬儀以来会うこともなかったのに、十五年ぶりに、単騎で明けの明星と共にふいに姿を現したのであった。
「やぁ、元気だったか?」
いつもそうしていたかのように、当たり前のように重連は縁先に立ち、手を小さく振った。
霞がかる曙の中、信吉とよく似た人を見て、福はすぐに重連だと分かった。驚いてる菊名以下、腰元たちを制して、そっと部屋へ招き入れた。
「よくここまで入って来られましたね」
「今まで鉢形には出仕していたし、弥六郎の名前を出せば通して貰えたよ」
「でも、沼田にいらしてるのでは?」
「お前に会うために、一晩で駆けてきた」
「まぁ」
兄とはいえ、まるで背の君のようなことを言われて、さすがに福も頬が熱くなった。
乾いていた声も年齢を重ね、昔よりも柔らかくなっている気がした。
「こんなふうに会いに来てくださるなら、普段から声をかけていただければよかったのに」
「それは無理だ。俺は家臣なのだから」
「弥六郎はしばしば来ておりますよ」
「あいつは子供だからな」
自分は遠くから見かけて、福が元気だと分かればそれでよかったと言った。
「でも私はずっと会いたかったのですよ」
「え?」
重連は、どきりとしたが、
「別の家となっても、兄上は兄上ではないですか」
「あぁ」
ふっと小さく笑った。
「兄上?」
「いや、何でもない」
「しつこく言うと嫌われると思って、ずっと言えずにいたのに、笑うなんて」
「そうだったな……」
鉢形もこの日は寒凪で、引き締まった空気の中にうららかな陽光が差し込み始めていた。
「ここは沼田より暖かいな。庭に出ないか?」
「えぇ、たまには早朝の庭歩きもよろしいかもしれませんね」
福は、ふんわりと微笑んだ。
「殿には秘密だぞ」
「なぜ?」
「妬かれては困るからだ」
「まぁ、兄上に妬くなど」
「そうだな」
重連は寂しそうにうなずいた。
「足元に気をつけて」
庭に降り立ち、福の右手を取った。
「指が冷たいな」
「えぇ、女は冷えやすいのです」
「そうか」
女の手を両手で包みこみ、はぁと息を吹きかけた。
「まぁ」
福は戸惑ったが、冷たかろうと言う兄は、何ごともないふうな顔をしていたので、されるがままに従った。
「沼田は雪が積もっていて、このように土も見えぬぞ」
重連は、足先で小石を払うように蹴った。
凍りかけた地面を慎重に踏みしめながら、福は、握られた手に身体を預けるようにして歩いた。
何もないところで、枯れ草にすら滑りそうなおぼつかない様子が、生まれたての仔犬だと、重連は笑った。
「兄上、見て」
福の視線を追うと、庭木の根元に桃色の茸が生えている。
「いや、触るなよ」
左手を伸ばそうとする福を、太い腕で抱きとどめた。
「だってせっかくこんな時期に生きてますのに」
「でも触っちゃだめだろ。昔言わなかったか?」
「昔?」
そうだったかしらと、福は首をかしげた。
「いくつになっても変わらないなぁ」
「子供扱いは、およしになって」
ふくれ面になった福を見て、また笑った。笑いながらも、抱いた腕をほどこうとはしなかった。
「この季節では、木の実を採ってやれないな」
「そのように大きな身体で木に登ったら、枝が折れてしまいましょうに」
「そうかな。昔は手が届かなかったところの実も、今なら採れる気がする」
「そうでしょうか」
「うん、そうだよ」
兄がこんなに優しく振る舞ってくれるのは、いつ以来だったろうか。嬉しくはあったが、福は不思議で仕方なかった。
「木の実を抱えて兄上が迎えに来てくれるのを、ずっと待ってましたのに」
「……」
「代わりに、新太郎さまがみかんを抱えてやってきました」
「そうか」
重連の頬にふと翳がさした。
……あれは果たして、病のせいだったのだろうか。
重連の訃報を聞いた氏政は、すぐに、代わりに信吉を指名した。藤田の一族として従い続けてきた用土氏への信頼を失っていないという、氏政の意思表示である。
「兄上さまの代わりに精一杯勤めます」
重連の急死は当然悲しいが、今こそ自分が代わりに用土のために働き、藤田のために尽せば、草葉の陰で重連も喜んでくれるに違いないと言った。実際、信吉はこの時は素直に、そう信じていた。
正月が明けると信吉は沼田へ発ち、入れ違うように鉢形城下に妙な噂が流れた。
噂と言うのだろうか、誰かが意図的に広めようとして叫んでいるようにも思える。それくらい不自然に沸いた話であった。
「お殿さまが、お方さまの兄上を毒殺なされたらしい」
時には辻々で、声高に言っているものもいた。
話はすぐに城内まで届いた。
おそらく、上野の国衆の誰か、例えば最近やたらと上野を荒らし回っている真田辺りの忍びが、鉢形城下へ紛れ込み広めているのだろうことはすぐに分かった。
北条から来た若ぎみが藤田を名乗り、北武蔵のために働き続けていると言ったところで、藤田の血を引く重連を本当に亡き者にしたとあらば、武蔵の武士らは一斉に離反しかねない。
氏邦がそのように軽率な真似をするであろうか。それに、あれほど重連の沼田城奉行就任を喜んでいたではないか。
平静を保てるものは、ごく自然にそう考えた。
しかし、人の口に戸は立てられない。頭では分かっていても、疑心暗鬼にはならざるをえない。
福は、これが子供たちの耳に入る前に、「馬鹿馬鹿しい」と、本人に言い捨てて欲しかった。
ところが北国はいまだ雪の壁がそそり立ち、侵入者の行方を阻み、その願いはなかなか叶わない。
手元には、氏邦からの直筆の書状が届いている。いつもと同じように何も心配せず待っていろという、鉢形の人たちをいたわる優しいだけの内容ではあるが、若干文字が乱れていることに、福は気付いていた。
こちらもあちらも、もどかしさと苛立たしさが交差するばかりと、簀子に座り込み、雪が舞い散る曇天を見上げた。
ふと、父の葬儀の日を思い浮かべた。
まだ五つか六つか、そこいらである。ほとんど憶えていないが、あの時兄は何か大事なことを言ったような気がする。
信用してはいけない……何を信用してはいけなかったのだろうか。
氏邦が戻ってこれたのは、雪が溶けてからであった。
銷魂ぶりは、これまでにないほどであった。
それもそうである。結局雪山で身動きが取れず、小田原からも兵を出せず、みすみす景虎を敗死させてしまったのだ。
怒りを爆発させた氏政は、甲斐との同盟を破棄。三河の徳川と同盟を結び、駿河に居すわっていた武田軍を駆逐した。
疲労も重なり、氏邦はしばらく起き上がってこなかった。
福が見舞っても、目を合わせようとしない。
「独り寝は足が寒うございましたよ」
と、言ってみても、
「それは、すまなかったな」
素っ気ない返事をするだけである。
この人は嘘をつけない。そう気付いた時、心の中にあるのは景虎を助けられなかった負い目だけではない、と悟った。
自分の兄弟と夫が諍いを起こしている女は、そこいら中にいる。福も、平素からそれくらいの覚悟はとうにしている。
逡巡してみたが、氏邦が自分の前からいなくなることの方が、福は想像できなくなっていた。あんなに会いたいと思っていたはずの兄なのに、いつの間にか、妹である自分を忘れていた。
ただ北武蔵に危機をもたらしかねないと分かっている行動を夫が取った、その理由が知りたかった。
当人から口にしてくれるのを待つしかない。
藤田新太郎氏邦の妻として腹を括った。
氏邦は、福の問いかけるような瞳に、すぐに気付いた。
しかし向き合う勇気が持てず、それが澄んでいることを知らぬまま、無言で責められているようにさえ思え、苛立たしさを覚えた。
だからと言って全てを告げる勇気もなく、視線から身を隠すようにして数日をやり過ごした。
ある夜、帰城して以来遠ざかっていた、福の寝所を訪れた。
外は大風で月明かりもなく、庭木の黒い影だけがのたうちまわっていた。
「冷えるな」
「えぇ」
言葉を交わしたのはこれだけである。
みぞれが妻戸を叩く不快な音を聞きながら、互いに、相手が何か言うのを待っていた。
夜着の上に並んで座り、縛られたように身動きがとれずにいた。
やがて風の音がおさまり、床の辺りから冷気が立ち上ってきた。おそらく、みぞれから雪に変わり、静かに積もり始めたのだろう。
堪えきれなくなったように、氏邦が先に福の方を見た。
乱暴に肩を掴み、そのまま褥に組み敷き、帯も解かずに寝衣の裾を割って、荒々しく手を差し入れた。
福は覚悟していたように目を固く閉じた。
いたわりも慈しみも何もない行為は、いつか見た獣の部分だと思った。
これもこの人の一部である。いっそ開き直って素知らぬふりを通せる性分なら、この人はどれほど楽であろうかと、むしろ悲しくさえあった。
にも関わらず、すんなりと夫を受け入れている自分の身体が不思議でもあった。
ことを終え、氏邦はおのれの襟の乱れすら直さずに、無言で出ていった。
去り際に、目の端に入った福は一瞬泣いているようもに見えたが、それを確かめるのが恐ろしく、振り返りもしなかった。闇に目を塞ぎ、憤りをぶつけてしまった自分に嫌悪感しかなかった。
頬を殴りつけたが、一発では気が収まらず、二発、三発と続けた。
よろけて、おれは一体何をしているのだと、また落ち込んだ。
他の女に逃げてもよかった。それで気が休まるなら、簡単にそうしている。しかし、福以上に安心できる女がいるはずがないと知っている。独り寝の方が遥かに楽だ。
氏邦にとって一番簡単なのは、仕事に逃げることである。
見透かす女の瞳を避けるように、小田原へ逃げ去った。
三日月と宵の明星が並ぶ早春の夕暮れ、風が切りつけてくる中、肩をいからせ首元を手で押さえながら、氏邦がいつもより長期の小田原滞在から戻ってきた時も、福はいつも通りに出迎えた。
「長らくのお勤め、お疲れさまでございました」
真新しい小袖に着替えた姿を見て、
「やはり白藍がよく似合いになる」
嬉しげに言った。
「着心地が柔らかくて、よろしくありませんか。熊谷の市で買いつけた武蔵木綿ですの」
しばらく小田原からは戻ってこないだろうと思った福が、自分で仕立てたのだという。
「先染めですから、色がとても深くて鮮やかでございましょう」
透き通った空のように明るい藍色は、日に焼けた、涼やかな目元の氏邦によく映えていた。
自らの見立てに納得するようにうなずている福に気付くと、氏邦は気まずくなった。
「なぜだ」
「はい?」
「何でもない」
だが素直に嬉しかった。しかも、わざわざ熊谷の木綿を買い付けたという健気さが、涙が出るほどありがたい。
しかし、もはや喜んで抱きあげることもできないほど、自分の態度がこじれきっているのが分かり、氏邦は情けなかった。
自分の隣りでもたまに兄を思い出していたのを、知っている。いっそのこと、泣き叫んで、殴りかかってくれた方がまだいい。
武家の娘らしいふるまいが、却ってやましさを増やす一方であった。
屋敷内に身の置き所が無い気がして、久々に東国丸を連れて釜伏山まで遠乗りに出た。
はるか古代、日本武尊が東征の折に立ち寄り、戦勝祈願をしたという場所である。とても美しい水が、涸れることなく常に湧き出ている。
途中で馬を木立に繋いで、徒歩で山道を進んだ。
東国丸が上手に、剥き出しの敷岩をひょいひょいと歩いているのを見て、我が子の知らぬ間の成長に驚いた。
水がこんこんと溢れている源泉で水を汲み、近くの草むらに並んで腰を下ろした。
「手習いを見たぞ、おれがお前くらいの時よりずっと上達が早い」
褒めると、東国丸は白い歯を見せて喜んだ。
「手習いはよく皆に褒めてもらえます」
素直な笑顔が、抱きしめたいほどかわいらしい。
「でも、弓が苦手です。又兵衛はとても名人なのに、私はちっとも上達しません」
「又兵衛は五つも年上なのだから、色々教えてもらえばよい」
「はい」
息子のまだ細い手を取り、
「まだまだだな」
小指のマメを見て言った。
「余計な力が入っている」
「私は又兵衛も好きですが、父上がお城にいる時は、父上から習いとうございます」
「そうか」
滅多にないおねだりに、気分がよくなった。
水の流れる音と野鳥のさえずりが岩場に響き、木陰をよりいっそう涼しげに感じさせている。
「私は、武芸より文芸の方が得意な気がします……」
竹の水筒を両手で持ち直し、小声で東国丸が言った。
「少しでも父上に追いつけるよう頑張りたいのですが……やはり剛力にはなれない気がします」
「それは……別に悪いことではないよ」
氏邦は冷水をひと口飲み込んだ。
上に立つ者は、人をよく使えるかどうかが肝心なのであって、必ずしも剛の者でなければならぬわけではないと、ゆっくりと言い含めた。
東国丸は明るい顔で、「母上も」と、言いかけて、うつむいた。
「母がどうした」
「いえ、何でもありません」
「遠慮せず申せ」
少しためらいながら、東国丸は答えた。。
「母上も……同じことを言ってくださいました」
「そうか」
我が子に言い迷わせた自分の至らなさに、一瞬ぞっとした。
「母がそう言うならそうだろう」
励めよと、汗ばんだ前髪をかき上げてやった。
「父上がもっとこうして一緒にいてくださったらいいのにな、と思います」
東国丸は父親をじっと見た。
「母上は寿々子ばかり構っています。私は見ているだけで、つまらない」
「寿々子はまだ目が離せない幼な子だ。いた仕方あるまい」
「でもすぐ泣きます。寿々子なんか嫌いです」
言いながら、唇を尖らせた。
「お前が赤子の時も、よく泣いたぞ」
氏邦は、不貞腐れている東国丸の肩に手をまわして、抱き寄せてやった。
福がよくいう、赤ちゃん返りとはこれか……と納得した。
「では、これから城にいる時は、できる限りお前と一緒にいようか」
「ほんとうですか」
「あぁ、その代わり妹と仲良くしてくれたら、父は嬉しいけどな」
「……」
「東国丸は、本当に寿々子が嫌いか」
父親の腕の中で、東国丸は首を小さく横に振った。
「私は、妹が欲しかったから……」
「そうか」
父も母も、子供はどちらも等しくかわいいし大事である。ただ幼い子は手がかかるから、母の手が空くまで少しだけ待ってやってくれないかと、優しく諭した。
思えば、氏邦も福も、親とは縁が薄かった。特に氏邦は乳母も早くに亡くしており、親子でどのように関わればいいものなのか、なかなか難しいと実感している。
そういえば自分は幼少の頃、父氏康に、北武蔵がいかに扱いにくい土地かを延々と聞かされ、必ずお前ならうまくやれると言われ続け、期待に応えようと常に気を張っていた。
それが父親として正しかったのかは、分からない。
ただ今は氏康のように、息子に何かを厳しく教え込むということはしていない。もう少し先でもいいような気がしている。
氏邦自身が北武蔵を少しは安定させることができたという自負を持っているゆえだろうか。
「明日は、剣の稽古をしようか。又兵衛も一緒に呼ぼう」
「いいのですか」
はい、と嬉しそうに顔を上げた息子を、まじまじと見た。
「父上?」
「いや、気にするな」
東国丸は、全体的な雰囲気は母親似だろう。
気弱そうな表情に似つかわしくない、どこか利かん気を秘めていそうな眉は、亡き氏康だろうか。ではこの、深く遠くを見つめるように澄んだ瞳は……自分でもない、福でもない。
福の面影をまとう、おれの知らない誰か。
ふと、思いついた。
泰邦どのか。
会ったことはないが、きっとそうだ。武蔵を統べる藤田の血がここに繋がっているのだ。
この澄んだ瞳は、どこまで知っているのだろうか。
自分が何を子供たちに与えてやれるのだろうかと、思った。
その頃、用土から戻ってきた錦が、見覚えのある赤い数珠を福に渡していた。親玉にはしっかり家紋も刻まれている。
「ある女からこっそり奪ってきました」
身にそぐわない高価な品を持っているのを訝しんで、秘かにつけ回していたという。
「これを渡したと思われる男は、弥六郎さまと似ていたそうです」
盗み聞きした女の会話から、その女は真田の忍びであり、沼田へしばらく逗留していたということも分かった。
そこまで聞いて、福は全てを悟った。
「ならば、確かめなければ」
錦に礼を言うと、すっと立ち上がった。
鉢形より北へ、山をひとつ越えた場所に、古くより続いている猪俣という一族がいた。
いつぞやの花園城乗っ取り犯の一味であり、その咎により断罪、しばらく家名が途絶えていたのだが、その名を惜しんだ氏政の心遣りにより、富永助盛に名跡を継がせることとし、助盛は新たに猪俣邦憲と名乗った。
「領民たちの心の拠りどころになれという、小田原のご本城さまのお心である。励めよ」
手続きと、沼田城の現状報告もかねて鉢形へ出仕してきた邦憲へ、氏邦は言った。
「それがしに新たに猪俣の家督を継がせていただき、感謝という言葉では足りませぬ」
心からの謝辞と、ひと通りの報告を済ませてから、
「弥八郎重連のことですが」
邦憲が言った。
夕闇が迫り、風が止んだ。その額にはじっとり汗をかいている。
「あの夜、それがしは城内の者たちが寝静まってから、お預かりしていた毒薬を弥八郎どのに盛りました。殿に命じられていた通り、部屋の外を兵で取り囲ませておきました」
しかし、重連はそれを毒と分かっていたという。
「抵抗する素振りすら見せず、お世話になり申したと殿にお伝え願いたい、毒を呷る前にそう言ったのです」
汗をぬぐいもせず、邦憲は顔を伏せたまま続ける。
「殿が本丸で何も知らぬ顔をしている間、それがしが泥を被りました」
理由を知らないままでいろと言うのかと、半ば脅迫めいた問い方をした。
遠く秩父の山並みが薄い影となり、山ぎわの橙が次第に濃くなっていった。天上には小さな星が瞬き始めている。
「確かにそうだな」
氏邦はしばらく考えたように、重たげに口を開いた。
「何も告げずに手を下させて、すまない」
庇の下に控えている近習に、障子を閉めさせた。そして小声で、
「やつは、真田を通じて武田と内通していた」
重連を、やつと呼び捨てた。
「さようですか」
邦憲は分かっていたようにうなずいた。
「しかし、なぜ弥八郎どのは全てを承知していたのでしょうか」
「……」
「ここまで来たのですから、お聞きせねばなりませぬ。それがしは今後、殿と一蓮托生となる覚悟で参ったのです」
邦憲をしばらく見つめていたが、分かったと、氏邦は観念したように言った。
「裏切りが分かったのは、おれが越後に行く前だ」
脇息に肘を置き、扇で口元を隠した。
「発覚したのは書状を手に入れたからだ。それには、内部から反乱を起こして沼田城を乗っ取り、それを手土産に武田へ寝返る旨が書いてあった」
苦しげに、眉間に皺を寄せている。
「考え直す気があれば、不問にするつもりだった。もし気持ちが変わらなければ毒を盛ると、そう伝えておいた」
「では、それがしの毒を受け入れたのは……」
そういうことなのだろう、と氏邦は小さくうなずいた。
「しかしなぜ発覚した時点で、処分を小田原に任せなかったのでしょうか」
「小田原に報告すると、寝返りが表沙汰になるからだ」
邦憲はさらに、なぜ……と問うた。
「鉢形に参って、領内で不穏な噂を耳にしました。殿もすでにお聞きでしょう。いえ、どうせ真田辺りのばらまいた噂など、誰も信じやしません。しかし、お方さまは確実にお気付きになられています」
氏邦自身もそのことを分かっており、一人で苛立っているのが伝わってくる、と言った。
「なぜお方さまに打ち明けずに、ご自分だけで背負われたのですか」
氏邦は、邦憲の視線を避けるように、障子の方を見やった。
「……暗くなったな。灯りを入れさせようか」
「話を逸らさないでください」
「……」
しばらく口をへの字に結んでいたが、小さな声で言った。
「福が……悲しむからだ」
両親とも早くに亡くし、祖母には北条への憎しみをそのままぶつけられ、挙げ句慕っていた兄にも捨てられたと知ったら。
「だからおれは信じて待った」
しかし心の奥底では、きっと変わらないだろうとも思っていた。
なぜなら、氏邦が越後へ発つ前、重連は、
「俺はあなたが憎かった」
そう言ったのだ。
藤田を乗っ取ったからではない。
「福を自由にしていると思うと、憎くて仕方なかった」
思いがけない告白に、氏邦は息を飲んだ。
「娘だと思えていた十の差など、年を取ると、さして気になることもなくなった。げんに二十も下の娘を妻にした」
決して自棄になったとは言わないが、言葉も交わさず遠くから見つめるだけの妹などただの知らない女となり、いつの頃からか、その女を自由にできる氏邦が妬ましくなった。
閨での姿を思い浮かべ胸をかきむしり、のたうちまわる、あさましい獣に成り下がったと告げてきた。
なぜ
「おのれの醜さから逃れたくて、あなたの妾の話を邪魔し続けた。二人が仲睦まじく子が生まれれば、諦められるかと思った──いや、そうではない、あなたは福を一人ぼっちにしなかった。もし福を孤独にしていたら、俺はあなたを殺したに違いない」
息も絶え絶えに言う姿はただ理不尽さしかないが、氏邦にとっては、自分を映した鏡のようにも思え、人ごとではなくそのまま受け止めた。
そして、何があろうと死者の秘密だけは地獄まで持っていこうと、心に誓った。
氏邦は、邦憲を正面から見据えた。
「そもそもの始まりは、おれが藤田に来たことだ。おれさえ来なければ……だから福が傷つくぐらいなら、おれが悪者になった方がましだ」
邦憲は深く深く平伏して、
「よくよく承知しました。それがしの口からは、誰にも明かしませぬ」
大きく息を吸い、
「それがしの口からは」
繰り返した。それから、
「これでよろしいでしょうか」
と、言った。
「はい」
外から鈴の音のような声がして、障子が開いた。
月明かりを背負った天女が立っていた。
「それがあなたの本当の心なのですね」
「福……」
氏邦は言葉を失った。福と邦憲を見比べるように目線を泳がせ、何かを言おうとしたかったが、何も出てこなかった。
「新太郎さまを騙すようなやり方をして、申し訳ありません。私の方からお願いをしたのです。どうか猪俣どのをお叱りにならないでください」
「いえ、それがしも殿の本音をお聞きしたくて引き受けたのですから、お叱りは覚悟の上でございます」
「あぁ、分かった、分かった」
ため息とともに、ようやく声をしぼり出した。
「猪俣は不問でよい」
部屋を下がるよう命じ、福には中に入れと言った。
「福には説教をせねばならん」
「お叱りなら、それがしにも」
固辞する邦憲に、福は、
「あなたがお叱りになられたら私の心が潰れます」
と、頭を下げた。
「福と二人にしてくれぬか」
真顔で氏邦が言い、邦憲はようやく悟って引き下がった。
「福。なぜこのような真似を」
灯が入れられた部屋で、二人で差し向かい合いあった。
「あなたが本当のことを言ってくださらないからです」
福は堂々と答えた。
「あなたがやったことは、とうに気付いていましたが、いつか打ち明けてくださると思い待っておりました。理由もなく、そのような非情をするはずがないと」
「いつ気付いたのですか」
「鉢形へ戻られてきて、すぐです」
あなたは嘘をつけないという言葉は、飲み込んだ。
「でも、その理由を知ったのは、ほんの先日でした」
真田の女にあの数珠を渡したのは、おそらく約束の証なのだろう。
それほどまでに、北条が憎かったのか。
あの日の兄の、優しい振る舞いはなんだったんだろうか。
しかし、今さらどうしようもない。
自分は重連にかわいいと思って貰えていたというのは、ただの傲慢だったと知った。
私には触らせもしなかった赤い珊瑚の数珠。
あぁ、そうかと、ようやく福は合点がいったのだった。
「兄上が憎んでいたのは私だったのですね……」
「あ、いや」
そうではない。
そのようなことは決してない。
福だけには、声に出して打ち明けるべきだったかもしれない。
だが、できなかった。
おれはいい年をしても意気地がないままなのかと、肩を落とした。
「まだ何か隠していることはございますか?」
福がきりっとして顔を向けてきたが、
「ない。あったとしても言わない」
「まぁ」
正々堂々とした態度に、福もそれ以上は諦めた。
「新太郎さまを信じます」
「でも結局あなたを傷つけたことには変わらない」
「いいえ、新太郎さまが藤田にきて、私は救われたのです」
ぼんやりと暗かった日々から拾い上げてくれたのはあなたですと、福は目を潤ませて氏邦を見つめた。
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