第7話

 木の葉採り月になると、蚕の餌となる桑の新芽を採取し始める。

 薄い黄緑も鮮やかな桑畑が方々に広がっている。

 夜半に降っていた雨は日の出前には止み、畑の様子を見に行くといって、氏邦は早朝から出かけていた。

 領内を見てまわるなら相応の時間がかかるだろうと思った福は、四歳になった子供たちを呼んで薙刀の稽古をつけることにした。

 髪を娘のように結い上げ袴をつけた姿は、目元がきゅっと引き締まりなかなかに勇ましくあった。

「もっと腰を入れなさい」

 ヒメウコギの生け垣で囲まれた広めの庭で、二人の子の腰を、薙刀の柄でぽんぽんと叩く。

「ははうえ、やってみせてください」

「おてほんを」

「母は、やりません」

 福が断言すると、

「えぇー、なぜ」

 子供たちは、はしゃいで取っ組み合いをして遊び始め、稽古にならない。

「ははうえも、ごいっしょに」

「これ、そなたたちは」

 そんな清和な昼下がり、

「殿がお帰りになりました」

 使いの者がやって来た。

「まぁ、もうお帰り?」

 驚いているところへ、

「やぁ、一体何をしているのだ」

 気取りのない小袖のままで、氏邦が顔をのぞかせた。

「えっと、薙刀を」

「あなたが?」

 へぇと、今にも笑いだしそうなのを堪えている。

「なぜ笑うのです」

「いや、かわいいなと思って」

 袖の中で腕組みをして、簀の子の縁に腰を下ろした。

「何だか、馬鹿にされてる気がしますが」

「そのようなことはない。この子たちくらいの頃、稽古がいやで逃げてたのを思い出したんですよ」

「また、そのお話。いやな人。だからあなたがいない間に稽古を、と思ったのです」

「もうおわりですかー」

「もうおわりですかー」

 かわいい声が挟みこんできた。

「あぁ中断させて、すまぬ」

 氏邦が笑いながら謝ると、

「ちちうえは、ははうえと、しゃべってはだめです」と、東国丸。

「なぜだ?」

「いじわるするからです」亀丸も言った。

「わたしがおとなになったら、ははうえをおよめにするのです」

「いえ、わたしがするんです」

「二人で取り合いしたら、母は困ってしまいますよ」

 福が制すると、

「じゃぁ、ふたりではんぶんこだね」

 仲良く声を揃えた。

「おいおい、おれは?」

「だめです」

「ちちうえには、あげません」

 二人で示し合わせたように、手のひらを向けて父親を拒否してきた。

「いや、待って。ちょっと二人とも、こちらへ来なさい」

 氏邦は手招きし、子供たちを自分の両脇に腰掛けさせた。

「いいかい、母上はもう父上のものなのだからな」

 両手をそれぞれの頭にのせ、真面目な顔で言った。

「父がいなければ、お前たちは生まれていなかったのだよ」

「いままではそうでも、これからはちがいます」

「ちちうえは、おしごとだけしていてください」

「新太郎さま、子供相手におやめなさいな」

「また、ははうえを、こまらせてるー」

「ちちうえが、こまらせたー」

「え、おれのせい?」

 二人同時にうなずいた。

「はいはい、今日はもう終わりましょう。二人を連れて、着替えさせあげてください」

 と、福がそれぞれの乳母に言った。

 皆が去った後、

「あなたも大人げない」

 あきれて振り返る。

「いやいや、我が子は確かにかわいい。しかしあなたを取り合うなら話は別だろう」

 氏邦は口をへの字に曲げたが、目は本気である。

「もう、しょうがない人」

 夫の子供返りも、正直云うとかわいらしい。

「しかし、よう喋るな。どちらに似たのだ?あなたもおれも、あんなに口達者ではなかったはずだ」

「あのくらいの年は、本来よう喋るそうです」

「どこであんな妙な言葉を憶えたのやら」

「健やかに育っている証拠です。私はむしろ、ほっとしています」

「まぁ、そうだな……」

 おそらく二人とも、同じ幼少時代を思い出していた。

「そうそう、これはなんだと思う?」

 話を変えるように氏邦が小姓を呼び、折った枝をひとつ持ってこさせた。

「橘ですか?絵で見たのと似ています」

「これがみかんの花ですよ」

「まぁ」

 言われてみれば確かに少し違うような気もする。絵で見た橘より、もっと大振りで華やかだ。

「内緒で、風布の山に畑を作ったんだ」

 じつは、小田原からみかんを移植させており、花がようやく咲いたという。見に連れて行く約束をしたのに、小田原滞在中に叶えられなかったので、どうしても見せてやりたかったのだ。

「頼んで一枝もらって、急いで帰ってきた」

 これが木にたくさん咲いているんだと、嬉しそうに言った。

 受け取った枝を掲げて眺めると、白い花弁と濃い緑の葉が青い空によく映え、甘い香りが漂ってくる。

「きれい」

「二人で今から見に行こうか?」

「今から?」

「うん、二人で」

「まぁ」

「馬は乗れましたか」

「えぇ」

「下手なのは薙刀だけか」

「まぁ、ひどい」

 街道沿いの並木は濃い緑がよく繁っている。二人で駒を並べるにはちょうどいい薫風が吹いていた。

 荒川を遡り少し遠回りをして、風布川沿いの山道を進んだ。

「何かございましたか」

 馬の背に揺られながら、福が聞いた。

「いつもと違うことをなさるのは、変えてしまいたい出来事が心にあるからではないでしょうか」

「どうだろうな」

 風布山を登り切ると、南の斜面一体にみかん畑があった。

「まぁ、これが」

 昼前に作業仕舞いをしたのか、作人の姿はなく、道具も全て撤収されている。

低い木々が並んでいる所々に、背の高い木も生えている。そのどれもが、白く、美しい大輪の花を咲かせていた。

 二人は馬を降りて、畑道から景色を眺めた。

「喜んで貰えましたか?」

「はい」

 遠い昔の約束など福自身も忘れていたので、花を見られたことよりも、氏邦の心遣りが嬉しかった。

 振り返ると、眼下に広大な鉢形城下が広がっている。

 並んで、道の脇に腰を下ろした。

「美しいですね」

「花ですか」

「いいえ。あなたの造られたご城下です」

 これまで住んだ場所の中でも鉢形城がいっとう好きだと、福は答えた。

 見える部分は強く雄々しく立ちはだかって見せていても、裏ではひっそりと細やかな心遣いが散りばめられている。氏邦の人柄をよく映し出していると思ったが、それをうまく伝えられる言葉が見つからず、並んだ肩にそっともたれかかった。

「北武蔵は、おれが来たころよりずっと豊かになったと思います」

 日が西に傾きかけた頃、氏邦が口を開いた。

「跡取りもできました」

 遠く、荒川の上に薄い雲が流れている。

「でも、おれは本当に一人前になれたのでしょうか」

「何かございましたか」

「……」

 雲のゆくえを追い続ける瞳に、橙色の光がにじみ、微かに睫毛を揺らした。

「三山が身を引きたいと」

 心血を注いで育ててきた若ぎみが立派になったのを見届け、安心して去りたいと三山は言っていたのだが、氏邦にとっては、ものごころ付いた時より傍らにいて、自分を導いてきてくれた存在である。

 いなくなってしまうことなど、一度も考えたことがなかった。

「信頼できる家臣は大勢います。皆よく働いてくれています」

 しかし、半身をもがれるようなこの痛みは、どうすればいいのか分からなかった。

「私は」

 福は、氏邦の手に自分の手を重ねた。

「乳母のが去った時、とても悲しかったのを憶えています。でも皆が私を支えてくれました」

 落ち着いた静かな声で言う。

「あなたのことを好いている皆が、あなたを支えます。今は心が痛いでしょうが、きっと大丈夫だと思います」

「そうでしょうか」

「これからも心が痛むことはあるでしょうが、きっと大丈夫です」


 翌年、亀丸は青龍寺の門をくぐった。

 急に消えた弟を不思議がっていた東国丸も、いつしか何も言わなくなっていた。



「母上、ただ今戻りました」

 東国丸が、外遊びから帰るたびに駆け寄ってくるので、

「屋敷の中で走るものではありませんよ」

 大きくなり始めたお腹を抱えながら、福はたしなめた。

「おやおや、若ぎみさまは、ますますお元気になられてますなぁ」

「あ、梅王丸さま、お久しぶりでございます」

「それがしは、もう梅王丸ではございません」

 福の元へ遊びに来ていた梅王丸は、三年前に元服し、弥六郎信吉と名乗っていた。

「きちんと弥六郎とお呼びくだされ」

 若苗色の直垂に烏帽子を着けきりりと装った若武者が、わざと憤慨したように、おどけてみせた。空の抜ける青さに、衣装の新緑が鮮やかに映えて清々しい。

「母上のお見舞いでございますか」

 ふふ、と笑いながら、東国丸は福の横に腰を下ろし、礼儀正しく手をついた。

「ご丁寧にありがとう存じます」

「いえいえ、姉上さまには幼き頃より世話になってますから」

 信吉にとって福はにあたるが、姉上さまと呼んで慕っている。

「ところで、若ぎみさまは、本日はどこぞへ参られましたかな」

「今日は、愛宕山まで登りました。川向こうの、花園のお城まで見えました」

 氏邦の元小姓で、今は東国丸の傅役である西村に連れて行ってもらったと、利発そうな顔を輝かせてはしゃぐ姿に、福はこの年頃だった自分の姿を重ねた。

 父が亡くなり、母、兄が去り、祖母との息の詰まるような生活で身を隠すように、明るい道を歩くことを避けていた。

 時々ふいによみがえり、胸に暗い翳が差し込むことがある。幼い日々の傷痕は一生消えないのだと福は悟っているので、この子には子供らしく快活に過ごして欲しいと願っていた。

「東国丸は、お外を走るのが好きですか」

「はい。でも、早く馬に乗りたいです」

「馬ですか」

「父上のように、速く駆ける武者になりとうございます」

「まぁ、父上のようにですか」

 我が子とは思えぬほど、はきはきした物言いに、つい顔がほころぶ。

「父上は私の年の頃には、駒をもっていたと聞きました」

 早く自分の馬が欲しいという。

「では父上がお戻りになったら、お願いなさいませ」

「はい」

 信吉は自分のことのように、

「殿のような武者とは、将来頼もしい限りですな」

 満足そうにうなずいた。

「若ぎみさまは、見るたびに、健やかで賢そうにお育ちになっている」

「まぁ、ふふ。褒めすぎですよ」

 福が、茶でも点てましょうかと訊いた。

「では、みかんを搾った汁をください」

「みかんを?」

「はい、橘と違って甘い。ここに来ないといただけませんから」

「まぁ。言うほど甘いでしょうか?」

 ねぇ、と東国丸を見た。

「はい、甘いです」

 東国丸は信吉に同意したが、福は、そうかしらと首をかしげている。

「そりゃ姉上さまは、普段から殿と甘い言葉を交わし過ぎて、口の中が甘くなっておられるから、分からんのです」

「まぁ、子供の前で止めてください」

 いい年をして恥ずかしいと、慌てて袖で顔を隠した。

「弥六郎は、少々お調子者に育ったようですね」

「いやだなぁ、それがしは本当のことしか言わないですよ」

 運ばれてきた茶碗に注がれている果汁を、大事そうに口にした。

「これでも、兄上さまに似てると言われるのです。自分では、男らしく育っていると思ってますからね」

 兄上さまとは、福の兄、用土重連のことである。

「よく言いますこと。兄上は息災でしょうか」

「兄上さまは、ようやっと嫁御をお貰いになった」

「まぁ、そうですか」

「姉上さまは、お聞きになってませんでしたか?」

 これまで傍に仕える女はいたが、嫁を貰うのはずっと拒んでいたという。

「それがまた、二十も年下で」

「まぁ、私より年下ではありませんか」

「それどころか、それがしよりも下ですよ。兄上さまとしても色々あったのでしょうけど」

「お教えくださったら、お祝いのひとつでもしたのに……」

 信吉は福をじっと見て、「兄上さまは」と言いかけたが、

「いえ、何でもありません」

 首を横に振り、年下のあねうえとは何やらこそばゆいと、笑いとばした。

 二人でうなずき合っている横で、東国丸は両手で器を抱えて懸命に果汁を飲んでいる。

「若ぎみさま、そろそろお稽古の時間ですと、又兵衛どのから言伝てです」

 そこへ、年若い侍女がやって来て、入り口で手を付いた。

「ほう、何のお稽古をなさるので」

「弓です。私は弓が苦手なのです」

 器を床に置き、快活そうに答えた。

「でも又兵衛といるのは楽しいから、我慢します」

 又兵衛とは乳母子であり、傅役、西村のいとこでもある。

「それは結構なことですな。しかしお口の周りを、きちんとお拭きになってから行かれた方がよろしいでしょう」

 言われて、東国丸は恥ずかしそうに頭を掻いた。

 去っていく姿を見送りながら、

「両親のどちらに似られたかな」

 信吉がいたずらっぽく福の方を見た。

「父上のような気がします……」

「父上とは」

「私の父、藤田泰邦です」

 福は、自分でも意外だがずっと考えていた。

「泰邦さまがお亡くなりになった時、姉上さまは、まだ幼かったと伺っておりますが」

「えぇ、私もあまり憶えていないのですが、何となくそんな気がするのです」

 不思議な話ですねと、信吉は残った果汁を飲み干した。

「ところで、先ほどの侍女は新しい者でしょうか」

 どこかで見たことがあると、信吉は言った。

「ここ辺りの者にしては、垢抜けているような。山で育ったようには思えませんが」

「そのとおりです。新太郎さまが、最近小田原から連れて来られたのです」

 詳しくは聞かされてないが、御殿を守るものは多い方がいいということでそばに置いている。

「ですから、屋敷の中で一度見たか、他人の空似でしょう」

 じつは、夫の視線が彼女を追っていることに、福はすぐに気付いた。身籠っている時に連れてきたというのが引っかかったが、それは黙っていた。

「なるほど、こういう状況ですからね」

 信吉は外を見やった。

「ご城下に入ると、街道に比べてずいぶんと騒がしかったですな。見張り役は多い方がよろしそうですな」

 辻々では、裸に腹巻をつけ短槍を抱えた足軽たちが睨みをきかせ、物々しい雰囲気であった。

「えぇ、北条は上野こうずけだけでなく、信濃の取り合いにも加わるようになっていますから」

「信濃の国衆は上野以上に曲者というか、やっかいな連中が多いと聞きますしな」

「ここは国境ですから間者も多いと思います。用土も、くれぐれも気をつけてくださいね」

「さようですな。つい先日も、武田が織田に長篠城で大敗を喫したそうですよ。あの武田がですよ。西国の手が、いつここまで来るか分かりませんから、用心するにこしたことはないですよ」

 ご安心くださいと、信吉は方をすくめて笑った。

 その晩、乳母に寝かしつけられた東国丸の額を、福が優しく撫でながら見下ろしていると、

「もう寝たのか」

 氏邦が、筆を持ってやってきた。

「今日帰ってきたら、東国丸が来て、駒が欲しいとねだってきたんだ」

 筆を、福の鼻先につきつけた。

「おれは、いいよと約束した。だから証文を書いてやろうかと思ったのだが」

 氏邦は大真面目な顔をしている。

「まぁ」

 福は、氏邦が大きな子供のように見え、相変わらず純粋なのだと思った。

「ねだり方がな、かわいくて仕方がなくなってきている。何でも言うことをきいてやりたくなる。どういうことだ?」

「ちゃんと親になられているのですよ。ついこの前まで、子供たちと張り合っておりましたのに」

「この年頃の子は、皆こうなのか?」

 福の正面に腰を下ろし、向かい合って寝顔を眺めた。

「さぁ、どうなのでしょう。子供は誰しもかわいいですが、我が子は特にかわいいと思います」

 寝る前にも東国丸は、福のお腹に頬ずりをして、「ねぇ、この子はいつ生まれるの?」と、深く遠くを見つめるように澄んだ瞳を上目づかいにして、ねだるように言っていた。

「へえ。おれも、そんなふうに甘えられてみたいな」

「ではもっと一緒に遊んでさしあげたらよろしいのに。気付いたら子供はすぐに大人になってしまうと言いますよ」

「愛らしい声も、いずれは声変わりしてしまうのであろうなぁ」

「きっと、あなたのも同じことを思ったのではないかしら」

 氏邦は一瞬眉をあげたが、すぐに、

「そうだなぁ」

 と、寝ている東国丸の頬をつついてみた。

「せっかく寝たのに、起きてしまうではないですか」

 福に本気で叱られて、照れたように、すまんと笑った。

「今度は、姫がいいかな」

「まぁ、どうして?」

「あなたみたいにかわいい娘を甘やかしてみたい」

「まぁ……」

 突然口説くような真面目な顔で言ってきたので、今度は福が照れた。軽口でないのが、いかにも氏邦だ。

「そういえば東国丸も、妹がいいと言いました」

「ほう」

 福が、弟ではだめなのかと問うと、

「弟は……いなくなってしまうから、やっぱり妹がいいです」

 澄んだ瞳でそう答えたという。

 時折、亀丸はどうしているだろうか、厳しい修行にくじけておらぬかと、気持ちが飛んでいくこともあるが、和尚を信頼し預けたのだからすでに寺の子、今は東国丸を健やかに育て上げることこそ役割だと自分に言い聞かせていた。

 しかし東国丸の気持ちについては、突然消えた弟のことなどすぐに忘れ去ってしまうだろうし特に問題ではない、と考えていた。

「そのように軽いものではなかったのですね」

「そうか」

 氏邦は、福の横に座り直した。

「おれも同じだ。あまり深く考えずにいたが、もっときちんとしないと駄目だったのだな」

 肩を抱き寄せ、額に唇を寄せた。

「では隠すことはせず、寺に入った弟がいると正直に教えるか」

「いずれ誰かから聞くことになるよりは、私たちがきちんとするべきでした」

「亀丸の立場を考えても、その方がいい」

「親として至らないことばかりで恥ずかしい」

「いえ、おれも同じだ。あなたには感謝しかない」

「そんな、感謝など……」

 どこからか入り込んだすきま風が灯明を揺らし、二人の影が重なった。

「そういえば」

 思い出したように、福が言った。

「今日、弥六郎に聞いたのですが、兄上がお嫁さまをお貰いになったのですって。あなたはご存じでしたか」

「兄上どの?あ、あぁ」

 ふいを衝かれたように、氏邦は慌ててうなずいた。

「そんな話を聞いたかもしれないな」

「まぁ、では知らなかったのは、私だけですか。知っていたなら教えてくださればよかったのに」

「おれも小耳に挟んだだけだよ。兄上どのは特に何も言わなかったから、てっきり直接あなたに話しているかと」

「祝いも何も言わなかった私が、まるで薄情者ではございませんか」

 少しふくれ面をする福を横目に、

「後添えというわけでもないのに若い娘を貰い、ずいぶん思い切ったなとは思ったけど、詳しくは知らなかったし」

 言葉を濁した。

 知らないなど、嘘である。

 それどころか、用土で相手の娘に会ったことすらある。

 まるで裳着をすませたばかりのような、髪を上げたての幼さの残る娘であったが、仕草はきちんと躾けが行き届いており、かなり大人びていた。

 ふんわりとした雰囲気が福に似ている。というより、面差しが福によく似ていた。

 しかし、それを福に伝えるのを嫌悪し、ずっと黙っていた。

 福の口から兄上という言葉を聞くと、重連への嫉妬心が押さえられ無くなりそうで、話すのを避けていたのであった。

 おのれの浅ましい部分を悟られないように、氏邦は福の肩からそっと手を離した。

 そこで、福がふと何かに気が付いた。

「あなた、今日はどちらにいらしてたのですか」

 夫の小袖に鼻を近づけた。

「え?」

 普段行き先を問わない妻の追及に、まさかという顔で氏邦は慌てて目を逸らしたが、ほんのり漂ってくるこうの薫りで、福は確信した。

「新太郎さま」

 身体をひねって福の視線を避けようとしたが、逃すまいとさらに下から福にのぞき込まれると、観念したように、

「も、申し訳ない」

 とうなだれた。

「ひどい」

 福は涙を浮かべ、手のひらで顔を覆った。

「お一人で行かれたのですね」

「……本当に申し訳ない」

「私だって、亀丸に会いたいのに」

「いや、ほんのでき心で、申し訳ない」

 しばらく問答のように繰り返しながら、身重で神経質になっている女のカンをあなどっていたと、後悔した。

 とにかく大汗をかきながら、ひたすら謝り続けるしかなかった。

 それから、上野こうずけ下野しもつけで上杉謙信軍を撃破し、関東管領上杉氏の嫡流が名乗っていた受領名、安房守あわのかみを拝領した氏邦が、意気揚々と帰城するのを待っていたように、福は女児おなごを産んだ。

 東国丸は無邪気に喜んでいたが、氏邦は不思議な思いで福を見つめていた。

 最初の出産の時はいくら双子だったとはいえ、このまま死んでしまうのではないかというくらい沈鬱になっていたのに、今回は満足げで清々しい表情をしている。

 菊名には、

「その時によってどうなるのかないものですから、いつも命懸けなのでございますよ」

「慣れなのか?」

「いいえ、一度目が安産でも、二度目に気狂いして死んだ者もおります。女にとっては大博打でございます」

 そう言われたが、やはり、人とは分からないものだなぁと唸った。

「この子は、小田原の父上に似ていないか」

 まだふにゃふにゃの目鼻だちの娘と福とを見比べた。

「眉が似ている気がする」

「まだ、生まれたばかりですよ」

「それもそうだな」

 二人で笑いあった。

 寿々子すずこと名付けられた娘は、よく笑っているようにみえた。

「やあ、おれを見て笑ったぞ」

「赤子はまだ人の顔など分かりません」

 福がたしなめても、

「いや、確かにおれを見て笑った。やはり父親って分かるんだな」

 氏邦は相好を崩しっぱなしである。

「この年でもう賢い。かわいい。あなたより、おれに似てるな」

「まぁ、この前は小田原の父上さまに似てると、おっしゃっていたではありませんか」

 ──そもそも私に似たかわいい娘を甘やかしたいなどと言っていたはずなのに、実際に娘を持った途端、私と張り合うとは。

 そういえば息子たちの時は彼自身が赤ちゃん返りをして、子供たちと、福の取り合いをしていた。

 男親とは何とたわいないものか……。

 乳母には、数年前に小田原から鉢形へ移って来た重臣である富永という一族の娘を取り立てた。

 氏邦は飽きもせず、乳を飲み目覚めるたびに大きくなっていく寿々子を見ていた。

 そして、

「抱いてみたい」

 から始まり、

「口を吸ってもいいかな」

 に至るまで、福に甘えたようにねだってくる。

 息子たちの時とは全く違う態度ではないかと、福が指摘すると、

「仕方ないだろう。女児だもの」

 なんというか、取りつく島もない有り様である。

 ある時、乳母の少し年の離れた弟が、姉に会いにきた。

 助盛と呼ばれた二十歳前の清々しい見目の若者は、出仕もまだの若造ということもあり、姉と共に寿々子と対面した。

「かわいいなぁ、こんなにかわいい姫を嫁に貰えたらいいなぁ」

 無邪気な笑顔で言ったのだが、運悪くそこへやってきた氏邦が、

「聞き捨てならん、斬る」

 問答無用とばかりに、小姓に太刀を催促した。小姓が渡していいものかとオロオロしていると、

「おやめなさい」

 福が慌てて止めに入り、氏邦は不貞腐れたように簀子に座り込んだ。

「あなた、中へお入りなさい」

「いやだ」

「まぁ、家臣の前で子供みたいな癇癪を起こして、みっともない」

「嫁などというから」

 精一杯のほめ言葉ではないかと、福は呆れるしかない。

 その遣り取りを唖然として見ている乳母の横で、助盛は目を輝かせていた。

「殿っ」

 嬉しそうな顔で自分も簀子に出て、氏邦の前に手をついた。

「それがし、何だか感動しました」

「は?」

 不機嫌そうに氏邦が、そちらを見た。

「殿は厳しい方だと伺っておりましたが、姫さまの前ではお父上さまなのですね」

 仕事では確かに厳しいが、

「お前も、おかしなことを言いますね」

 福は、またもや呆れた。

「はい、殿は生真面目な方だと聞いておりましたが、本当でした。一生をかけてお仕えしたいです」

 ずいぶん風変わりな若者である。

「だからと言って、寿々子はやらんからな」

 あくまで馬鹿正直に受け取るこの男も何なんだろうかと、福は肩をすくめるしかなかった。



「福、これを見て」

 帳簿を片手に、嬉しそうに氏邦が福の部屋へ来た。

「まぁ、今こちらから呼びに行かせようと思ってましたの」

 福が笑顔で、迎え入れた。

「おや、それは?」

 氏邦は、福の傍らに置かれている竹細工の籠に気付いた。中には、山盛りの松茸が入っている。

「青龍寺から届きました」

「ほう、これは見事なものだ」

「亀丸が張り切って採ってきたそうですよ」

 寺の裏山は一面赤松の林で覆われており、秋には松茸がわんさと採れる。

 以前よりお約束していたものです──という、亀丸のまだ子供らしい文字でしたためられた手紙が添えてあった。

 東国丸の大人びた達者な文字とは、だいぶ違う。

「亀丸は、武芸の方が得意でしたものね」

「そうだったな」

 詮のないこととは分かっているが、二人ともつい思いを巡らした。

「城内の柿を礼に送ってやろうか」

 氏邦が、「誰か筆を」と言うと、ただ今、という返事が遠くからした。

「ところで、何かご用では」

 思い出し、福が訊ねると、

「あぁ、そうだ」

 氏邦は再び嬉しそうな顔をした。

「これを見せたくて」

 差し出された帳簿には、市場の名前と、売り買いされている品の値が記されてある。

「物価がな、だいぶ安定してきていると思いませんか」

 市場の管理は、東国の為政者にとっては必須であり、きちんとそれが出来なければ、たちまちのうちに一揆や強訴を引き起しかねない。

「特にここ、木綿と絹がこの値で、かなり取引量も増えている」

 熊谷産の反物を売り込みたいという目論見がうまくいっていると、氏邦は喜んでいた。

 その表情を見て、福も嬉しくなった。

「お待たせいたしました」

 そこへ筆を持ってきたのは、いつぞや信吉が見たことがあるといった侍女であった。

「錦、すみませんね」

 福が礼を言うと、錦と呼ばれた侍女は、はいと小さな声でうなずき去って行ったが、去り際に氏邦と目配せし合ったのを、福は見逃しはしなかった。

「新太郎さま?」

 声をかけると、

「なんだい?」

 おかしなことなど何もなかったように、優しい顔で氏邦は振り向いた。

「いえ……」

 この人はこんなに上手く嘘をつけたろうか?と疑問に思いながら、言った。

「私はじきに三十路になりますが、また男児を産めるか分かりません」

「なんですか、突然」

 唐突な福の物言いに氏邦は面食らうが、福は淡々と続けた。

「もし子を望むのであれば、私が他の女を選びますが」

 結婚したばかりの幼い日は、こんな言葉を使う時が来るなど想像もしていなかった。

「あの錦がお気に召しているのであれば、私からきちんと頼みますけど」

「は?」

 何を言っているのか全く分からないと、氏邦が首をかしげた。

「おれは、何か言いましたか?」

 なぜ錦の名が出てくるのかと、困った顔をした。

「あなたはもう三人産んでくれているし、おれは藤田の人間です。あなた以外に誰がおれの子を産むというのですか」

「でも、錦をわざわざ小田原から連れてこられたではないですか」

「それは」

 一瞬言葉に詰まったが、諦めたように、氏邦はため息をついた。

「あの娘は、小田原の兄上の意を酌んで来ている、風魔の一族です」

 城下に隣国の忍びがうろついていると察した氏政が、身籠もって不安な思いをしているであろう福を守るために、預けたのである。

 時折こっそりと周辺支城の偵察をすることも、しばしばあったという。

「では……」

 信吉が見たことがあると言っていたのは、そういうことだったのか。

「あなたを怖がらせたくなくて黙っていたんですが、いらぬ心配をかけただけでしたね」

「いやだ、私ったら」

 福が恥ずかしそうに手で顔を覆った。

「勝手に一人で悋気を起こしてしまって」

「だいたいあなたは、昔からおれの言うことを待たない時がある」

 心当たりがあり過ぎて、福は返す言葉がない。

「まだ三十路であれば、もう子が生まれないなんて思いやしないよ」

 氏邦は、優しく福の頭を撫でてやった。

 翌年、再び二人で亀丸に柿を送ろうかと相談している最中に、亀丸の得度の報せが届いた。

 鉄柱と名付けられたという。

 氏邦は、名前の通りに強い心を持つようにと、優しい書状を送った。

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